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明くる日の


 1. 攻撃開始

 両肩に流れている長い三つ編みが、パソコン画面に落ちてきて煩く払った。
 パジャマの袖をたくし上げて、キーボードの上に手を置いて、まるで神業のような速度で叩きだす。
 もし誰かが見ていたら、あどけなさを残す少女とのギャップに驚いたかもしれない。けれどこの病室には誰もいない。彼女専用だ。
 消灯時間はもう過ぎていて、病室の中は薄暗い。パソコン画面から零れる光が、少女の眼鏡に映りこんでいた。
 真っ黒な画面に流れていく真っ白な文字。
 日本語ですらない文字が次々と流れていくのを視線で追いながら、少女の指は止まらない。
 静かな病室に、途切れる事の無い機械音が響いていく。
 ふと、少女の指が止まる。
 画面の中では英文がまだ続いており、少女の視線は静かにそれを追いかけていく。
 やがてその文字が一通り流れ終えた。
 少女は鋭利な光を瞳に乗せて、ゆっくりと唇に笑みを浮かべた。
「攻撃、開始」
 細く白い、可愛らしい指が『Enter』のキーを叩いた。

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 陽射しが眩しく降り注ぐ窓際の寝台。
 最近のテレビ番組では絶えず春を告げているというのに、少女の瞳に映る空は灰色に重い。遠くの連峰には冷たい雪が残っている。
 しっかりと編み込んだ三つ編を無意識に触っていると、廊下から切迫したような足音が響いてきた。
 少女の視線は連峰から外され、微かに笑みを浮かべてドアへ移る。
 その数秒後。
「渚《なぎさ》! また君だろう!」
 スライド式のドアが完全に開ききる前に、病室に響いた大音声。
 発信源は病室に入ってくると渚を睨みつけた。
 聴診器を首からぶら下げて、まるで連峰が被る雪のような白衣を翻して。けれどもその白は暖かい事を知っている。
 渚は笑った。
「今頃気付いたの? 病院のセキュリティなんて、まるで信用出来ないわね」
「君にかかれば警視庁の端末だって――じゃない! 犯罪だからやめなさいと、何度言ったら分かるんだ、その優秀な脳は!」
 男の腕が伸ばされ、渚は髪の毛をぐしゃぐしゃと掻きまぜられる。
「やめてよ、風悠来《ふゆき》!」
「せ、ん、せ、い」
 たまらず叫んだ渚に、風悠来はすかさず訂正を入れる。
 渚は唇を尖らせて彼を見上げた。
「まだ研修中じゃないの」
「研修中でも医者は医者だ。渚にとっては先生で間違いない」
 恐ろしい表情を繕われても、普段の彼を見慣れている渚に効果は無い。それでも渚は渋々頷いた。
(今日は朝一番に風悠来が来ると思って、気合入れて三つ編したのに。全然気付いて無いんだから)
 朝から三つ編に奮闘していた渚は憮然とする。先程風悠来に乱暴されたせいで、頭は鳥の巣だ。また編み直さなければと、髪を縛るゴムを解いているとその手を風悠来に掴まれた。
 渚は自分よりも大きな手に顎を引き、一瞬で高鳴った心臓を押さえ込む。
 風悠来はそんな渚の様子に全く気付かず、真剣な表情で渚の手を観察する。
「出血はしていないみたいだな」
「大丈夫よ」
 風悠来が何を心配しているのか、悟った渚は軽く笑った。
 ――突発性血小板減少紫斑病。
 渚は血液中の血小板が減少する病気に罹っており、現在の入院はその検査の為である。
 風悠来は軽く溜息をつくと渚を睨んだ。彼が怒るのは、院内のパソコンにハッキングを仕掛けた事だけではなく、この病気にも原因がある。血の凝固作用のある血小板が少なくなれば、多少の衝撃でも内出血を起こしてしまうのだ。
 渚がパソコンを叩く時、凄まじい速度になる事を知っているからこそ、風悠来は怒る。
 指先にだって、毛細血管は集中している。
 風悠来が何を言いたいのか分かっていて、渚は舌を出した。
「データは隔離しておいたから大丈夫よ」
「そういう事じゃないだろう! いや、勿論データも大事だが!」
 風悠来は面食らったような表情となった後に怒り出した。データの復旧を命じるよりも先に、渚を案じる説教を。
 そんな真剣な風悠来の表情を、渚は怒られながらも楽しく眺めていた。
 こうしていられる今が、渚にとって一番幸せな事。  

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