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明くる日の


 4. 持ちつ持たれつ

 コロコロコロと、軽い音を響かせながら渚はカートを押していた。着替えや換えのシーツを入れておくカートである。滑りが良い上に軽い為、響く音はとても小さい。
 渚は夜の病院内を徘徊していた。
 天井には時折緑の非常灯が掲げられており、辺りは薄暗い。消灯時間はとうに過ぎていた為、渚以外の患者は既に就寝している。
 渚も就寝済みの筈であったけれど、先程隣部屋の少年が吐いてしまったらしく、看護士たちが慌しく走り回っている気配を感じて起きたのだ。
 今は既に少年の容態も落ち着いて、看護士たちも引き上げたのだが、渚は眠れなかった。出しっぱなしになっていたカートを運んで片付けようと、廊下を歩き出したのだ。
 片付けなど、患者である渚が気にするような事では無いのだけれど。
 夜中に目が覚めた事と、廊下を歩く理由が欲しい事と。
 渚はしばらく薄闇の中を進んでいたが、やがて目的の場所を見つけると笑みを浮かべた。そこからは優しい光が洩れている。
 押していたカートを入口に置き、渚は気配を消すよう静かに近づいて顔を覗かせた。
 ――眠ってる。
 いつも大勢の医師や看護士が忙しく立ち回っているナースステーションは、現在風悠来に占領されていた。彼は今日が宿直当番なのである、と昼間に確認済みである。
 書類の束を横に置いて、風悠来はパソコンデスクに突っ伏すようにして眠っている。
 渚が後ろから覗き込めば、パソコン画面には編集中のデータ画面が映し出されていた。風悠来が「1」キーを押しっぱなしにしている為か、画面内に凄まじいスピードで「1」が打ち込まれ続けている。
(いつから眠ってるのかしら……)
 きっと風悠来は、まだ眠るつもりでは無かったのだろう。けれど、パソコンが苦手な彼は途中で力尽きて眠ってしまったに違いない。
 渚はそんな経緯を想像して、小さく笑みを洩らした。
(風悠来らしい)
 「1」に置かれている風悠来の指を静かに外し、渚は書類に視線を向けた。風悠来が入力していたのは、どうやら患者のデータらしい。
 渚は風悠来を起こさないようにキーボードを引き寄せて、書類を捲った。
 そして次には。
 神業のような速度で、渚はキーボードを叩き出した。それでも、いつもより速度は遅い。それは直ぐ隣で風悠来が眠っており、彼を起こさないようにキーボードの音を気をつけている為だ。ノートパソコンだったらもう少し音を軽減出来たかもしれないな、と渚は指を止めぬまま思った。
 小さく可愛らしい指は、観客がいたら唖然とするような速度でキーボードの上を滑っていく。
 中学生にして優秀すぎる頭脳を持った渚は、パソコン操作すら容易くこなして見せるのである。

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「ん……あ、れ? あ、しまった!」
 そんな言葉を呟きながら目覚めた風悠来は、弾かれたように起き上がってパソコン画面を見ようとした。そこにあった渚の姿に仰天して悲鳴を上げる。
「おはよう、風悠来」
「な、渚っ? どうして君がここに!?」
 腕に突っ伏すようにして寝ていた為、風悠来の髪には寝癖がついている。
 渚はそんな彼の様子に笑みを浮かべながら首を傾げてみせる。
「カートを戻すついでに寄ってみたら、風悠来が気持ち良さそうに眠ってたから」
「カート?」
 本当はただの言い訳であるが、渚はそう告げた。
 意味が分かっていない風悠来に苦笑を洩らし、渚は指で廊下を指す。
 渚が押してきたカートが入口から覗いており、風悠来はようやく「ああ」と納得すると笑みを洩らした。
「看護士が忘れてたのか。ありがとう、渚」
 そうして風悠来が穏やかに礼を述べた、次の瞬間。
「ああっ! 渚、君、勝手にデータ入力しただろう!」
 パソコン画面を見るなり風悠来は慌てた。
 見ていて飽きない彼の様子に渚は笑いを殺しながら「ええ」とごく普通に頷いた。罪悪感の欠片もない渚に、風悠来の頭ががくりと垂れる。
「あのね、渚。個人情報守秘義務という物があって」
「風悠来があまりにも気持ち良さそうに眠っていたから、手伝ってあげたんじゃないの。心配しないでも情報を洩らしたりなんてしないわよ」
「渚がそんな事するなんて疑ってないけど……」
「それに、パソコンが苦手な風悠来だけだったらこんなに早く終わっていないわ」
「それも、そうなんだけど」
 風悠来は力無く椅子に腰掛けたまま、まだうな垂れている。
「私は暇潰しが出来たし、風悠来は充分に睡眠を取る事が出来た。ほら、私と風悠来は損してない」
 風悠来はその言葉にとうとう笑い声を上げ、渚は安堵して満面の笑みを見せた。  

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