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明くる日の


 5. 居場所

 河野病院の院長先生は、河野俊彦。
 渚が発病してから主治医として、ずっと渚たち家族の相談相手であった人である。
 若者には流石に負けるだろうが、若々しい体力を誇る彼は、現役時代はラグビー部の選手であったらしい。がっしりとした巨漢ではあるが、浮かぶ優しい笑みに誰もが癒される。小児科病棟の患者で河野を嫌う者は一人もいないと言う噂である。
「渚ちゃん、気分はどうかな?」
 初老の男性が発する穏やかな声が渚の耳朶を打った。視線を向けると大きな体がドアから入って来ようとする所で、開ける幅が狭かったのか困ったように眉を寄せている。
 その仕草があまりにも可愛らしく思えてしまって、渚はそっと微笑みを零した。
「とっても、いい気分よ。河野先生」
 河野相手には幾ら渚が爪先立ちしようが、肩肘を張らせない不思議な雰囲気がある。今回も渚は余計に繕ったりせず、素直に彼を迎え入れた。
「それは良かった」
 河野は、クシャリと紙が丸まるように笑う。大きな皺が何本も増えて、彼を更に老人に思わせる。
 渚が笑うと河野は白いものが混じった眉を下げて、困ったような顔をする。それが更に可笑しくて渚は静かに笑う。
 河野の白衣はいつも清潔に洗濯してあり、糊まで利いている。
 彼が歩けば長い白衣の裾は風に舞って、まるでモデルの様に思わせる。河野はそれが気に入っているらしく、子供たちが見ている前を歩くのが大好きである。
 たとえ見物人が一人しかいなくても、河野は颯爽と前を歩いてみせる。
 院長として相応に忙しい筈なのであるが、そんな態度は欠片も見せずに子供たちと遊ぶ。彼は子供たちの人気者であった。
「困った事があったら、何でも言うんだよ」
「ええ、勿論よ」
 渚は河野が昨日、子供たちの前でモデル歩きをしようとして足が縺《もつ》れていた事を思い出して頬を緩めた。
 笑い出したくなる気持ちを抱えたまま河野を見上げた。
「聞けば篠原君に懐いているそうじゃないか。彼はいい男だからねぇ」
「ええ、本当よ。私は風悠来が大好きなの」
 大真面目な顔をして頷く河野に、渚はもう肩を震わせて笑い始めた。
 河野が身を乗り出す。
「でもどうだい、渚ちゃん。私だっていい男だろう?」
 河野は膝を折って、寝台に横たわる渚と同じ目線で問いかけてくる。
「勿論、河野先生だっていい男よ」
 渚は歳相応に元気な笑顔を見せて抱きついた。河野は嬉しそうに目を細めて「そうだろう」と何度も頷き、それがまた渚の笑いを誘う。
 渚は背中を何度も往復する腕を感じながら瞳を閉じた。
 先程、随分久しぶりに来た両親の顔が思い浮かぶ。
「ねえ河野先生。私、まだここにいても平気?」
 背中を撫でていた手は肩に回って、河野は渚をそっと離した。その仕草に渚は不安に駆られる。
 幾ら難病を抱えているとは言っても、渚の病状は自宅療養が可能な物である。定期健診が終わった今、普通なら直ぐに退院する事が可能になるのだが、渚は真剣な表情で河野を見上げていた。
 渚がこんなにも自宅に帰りたくない理由は――河野はクシャリと笑った。
「時間はまだ沢山ある。君を追い出したりなんてしないよ」
「――ありがとう、河野先生」
 渚は微笑んだ。
 質問をしてから彼が答えるまで、躊躇いのような空白の時間があった事には気付かないフリをした。
 渚は知らず緊張していた体を解し、もう一度河野に抱きついた。父親のように大きな存在である。
 ――自宅療養生活を送るためには、一緒に暮らす家族の協力が最も大切であるから――今の渚に、退院する事は出来ないのだ。
「ああ、院長ここにいましたか。今日の分のノートを提出したいのですが、お時間」
「おや、王子様が来たようだ」
「は?」
 何の前触れも無く入ってきたのは風悠来であった。
 訳が分からず瞳をきょとんとさせる彼を見ると、河野は笑いながら渚を寝台に戻した。風悠来は河野と渚を見比べている。
「渚ちゃん。何か不満な事があったら、遠慮なく彼に言いつけなさい」
「院長?」
「患者の願いを叶える事も研修医の役目だよ、篠原君。せいぜい頑張りたまえ」
「い、院長先生! 私のノート!」
 河野は愉快そうな笑い声を上げると風悠来の肩を強く叩き、彼がよろけている間に病室を後にした。風悠来は何一つ目的が達成されていない事に気付いて、慌ててドアへと走り寄る。
「ごめん渚、また後で顔を身に来るよ!」
 直ぐに河野の後を追いかけようとした風悠来は、部屋から出る際に顔だけを渚に向けて手を振った。渚も笑顔で振り返す。
「院長先生!」
 風悠来が病室を飛び出していくと、病室の扉は自動で静かに閉まろうとする。
 閉まるまでの空白の時間、廊下からは風悠来の大声が響き、渚は「あーあ」と呟いた。近くを通りかかったらしい看護士から叱られる声まで聞こえてくる。
 風悠来が消沈する姿が想像出来てしまって、渚は穏やかに笑みを浮かべた。体をそっと寝台に沈める。
「離婚、かぁ……」
 渚は小さな両手を顔の前に掲げた。
 河野から感じた体温はもう手の届かない父親を思い出させ、渚は瞳を閉じた。

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