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明くる日の


 6. 将来の夢

「ねぇ風悠来。私は将来、看護師になろうと思うの」
 桜の花も散り、夏の到来を予感させるように暑い午後の事だった。
 いつもの検診を終えて昼食を摂り、少々時間の空いた風悠来が渚の病室を訪れる。
 それは毎日の事であったが、今日の渚は少しだけ勇気を出して言ってみた。
 今日はまだ一度も見ていなかった風悠来の顔は驚きに染まっている。
 渚は自分の勉強道具とも遊び道具とも言えるノートパソコンを開いたまま、返答の無い風悠来へと顔を向けた。
 彼はまだ固まったまま渚を見つめている。
「生半可な気持ちで言ってるんじゃないわ。この病院で私は凄くお世話になったし、その恩返しがしたいの」
 真剣な表情で訴えるとようやく風悠来の金縛りが解けたようで、彼は驚いた表情のまま軽く瞬きを繰り返した。
「渚……恩返しなんて、そんな」
「そうね。恩返しっていうのは患者が全癒すればそれだけで恩返しよね」
 風悠来の言いたいことが何か悟った渚は強く頷いた。
 風悠来は複雑な表情で渚を見つめ、渚はそんな彼に微笑んだ。
 酷く大人びた微笑みである。
「私の将来だもの。恩返しっていう事場だけで決め付けたら風悠来も困るわよね。私はまだ子供だし、狭い了見だけで決めてるんじゃないかって。でもね、風悠来。それだけじゃないの」
 口を開きかけた風悠来を見て、渚はまたも強く遮った。
 この想いはずっと以前からあった事だ。風悠来には一番初めに知っていて欲しかったし分かって欲しかったから、渚は小さな体に似合わぬ大人びた顔つきで、言葉で、風悠来に訴えた。
「ここに入院して沢山の人達を見たわ。居なくなってしまった人も、全快して退院していく人も見た。それぞれ道は違ってしまったけど、ここに入院して笑顔を見せなかった患者は一人もいなかった。中には想像出来ないくらいの痛みを抱えてる人もいたのに、その人も皆笑顔で、どうしてかって考えたら、それは風悠来たちが元気で、笑顔を向けてくれるからだと思ったの。だから患者は皆、安心して風悠来たちに任せていられるんだって。そう考えたらね、凄いなって思ったの。私もそうなりたいなって思ったの。苦しんでいる人達から笑顔が消えたら、もっと苦しいだけだもの。私は、患者から笑顔を引き出せるような看護師になりたいの」
 この事を今日、風悠来に言おうという事は前から決めていた。その為に上手い言葉を探し、何度も練習したりもしていたが、現実はそう上手くいかないものだ。
 渚はもどかしい気持ちで一杯になり、自分の視界が滲んでいくのを理解した。
 唇を噛むように引き結んで、布団の上に置いた両手を硬く握り締めた。
(風悠来はどう思っただろう)
 この沈黙が怖かった。
 彼に反対される事が一番恐ろしい。
 今体を蝕んでいる病より、もっと恐ろしいかもしれない。
 それでも渚は風悠来から視線を逸らさず、お願い分かってと心で訴え続けた。
 死刑宣告をされるみたいだと思い始めていた渚は、目の前で風悠来が柔らかく微笑んだ事に目を見開かせた。
 必死で堪えていた涙が堰を切って溢れ出す。
 風悠来の笑顔は、本当にこちらが優しくなれそうな程に柔らかいのだ。淡く色づいた桜の花弁のようで。
(やっぱり、私は風悠来が大好き)
 少しだけ鼻を啜り上げて、渚はそう思った。
「凄いね、渚は」
 風悠来は渚の涙に少しだけ驚き困ったように笑い、白衣で拭った。
 渚は黙ったままその手に任せ、「凄くなんて無いわ」と呟いた。
「もっとちゃんと説得出来るような言葉を選ぶつもりだったのに、実際はこうだもの。所詮は子供の浅知恵って所ね」
 悔しくて顔を俯けると、頭上で可笑しそうに笑う風悠来の気配が感じられる。
(悔しいから見てやらないけど)
 そして渚は、頭上に置かれた風悠来の大きな温もりを感じた。
 顔を上げると優しい眼差しで見下ろしていて、その笑顔に胸が高鳴るのだ。
 不整脈を後で測って貰おうかしらと思うくらいに動悸が激しくなる。
「渚が看護師になってくれたら、凄く心強いな」
「賛成、してくれるの?」
「うん、勿論。渚がそんな風に考えてるなんて思いもしなかった自分に少しショックだけど」
 湧き上がる嬉しさに渚は泣き笑いのような表情を浮かべ、何て言ったらいいのか分からなくてただ風悠来を見つめ続ける。
「そうすると、クリミアの天使になるのかな。渚は」
 悪戯っぽく笑う風悠来に思わず破顔して、渚は何度も頷いた。
「うん、そう。目標はナイチンゲールね」
 風悠来ならきっと賛成してくれると思っていたが、やはり嬉しいものだ。
(やっぱり私は風悠来が大好き。看護師になって、絶対彼をサポートするんだから)
 こちらの気持ちはまだ言えないけれど、きっといつか、伝えてみせる。
「風悠来はどうして医者になろうと思ったの?」
 まだ嬉しさが抜けきらなくて、渚は潤んだ目元を拭いながら問いかけた。
 そろそろ休憩時間が終わりなのだろう。風悠来は椅子から腰を上げ、壁時計を見上げて退出しようと窺っている。渚の問いに、その顔をこちらに向けて肩を竦めた。
「近所に体の弱い女の子がいたからな。俺が治してやるんだと単純に強く思ったんだ」
「それって……」
 呟いた渚に片手を上げて笑い、また後でねと言い残して風悠来は退出した。彼の背中を見送りながら、渚は湧き上がった想いに強く瞳を閉じて寝台に倒れ込んだ。想いが強すぎて沈みそうだ。
 渚は寝台に顔を埋めたまま、窓へと顔を向けて。
「すっごく、嬉しいかもしれない」
 真っ赤に紅潮した顔で、呟いた。

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