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明くる日の


 7. 性別

「私が男だったら良かったのに」
 唇を噛み締めながら渚は呟いた。
「どうしたの、渚」
 直ぐに、背後から驚いたような声が追いかけて来る。
 先日退院したばかりの陽子だ。
 二人は偶然にも同じクラスだったという事が判明し、渚は入院してきた陽子と直ぐに打ち解けた。
 退院した彼女の小さな両手には、お見舞い用の小鉢が抱えられている。小さなヒマワリとマトリカリアが満開の花を咲かせている。ナツシロギクとの別名がある通り、マトリカリアは白い花を咲かせていた。
 黄色と白と、陽子の笑顔。
 その内の一つは消えてしまったが、渚の心を充分潤してくれる存在だ。
 しかし渚は現在、陽子と一緒にいても楽しくなさそうに唇を尖らせている。
 突然の態度豹変に陽子は首を傾げ、ポニーテールを揺らせて彼女の隣に走って並んだ。
「さっき廊下で篠原先生に会えたのに。何でそういうこと言うの?」
 病室へ戻り、水を充分に与えた小鉢を窓際へ置いた。陽子の声は少し寂しそうに個室に響く。
 渚は口をへの字に曲げて寝台に座った。
 せっかく陽子がお見舞いに来てくれたのに、気分は晴れない。
 原因は分かっている。たった一人の存在が引っ掛かっているのだ。
 ――風悠来が同年代の女性医師と、廊下の隅で楽しそうに歓談していた様を目撃したから。
 渚は自分の中に、醜い嫉妬心が湧いたのを感じて顔を顰めていた。
 こんな自分は嫌いだ。
「ねぇ陽子、知ってる?」
 渚が黙りこむと途端に会話は成立しなくなる。
 渚としても友人の陽子を不快にさせたい訳ではなく、何とか話題を思いつこうとする。
 陽子はつまらなさそうに椅子に腰掛けて、足を遊ばせていた。ともすればそのまま帰ってしまいそうだ。
 渚に呼ばれた陽子は振り返った。
 硬く結ばれた彼女のポニーテールが元気良く揺れている。
「今現在、男の平均寿命は78歳で、女の平均寿命は85歳なんだそうよ」
「渚って物知りねぇ」
 何を言われているのか、理解出来ていないように陽子は瞳を丸くする。顔全体を使うような笑顔は印象的で、彼女の元気さを肌で感じ取れる。
「だから男になりたいの? 女の方が長く生きられるんでしょう?」
 陽子は首を傾げ、サッパリ分からないと眉を寄せた。
 渚はしかめっ面を崩さぬまま視線を逸らす。
「だって、私の方が年下だもの。私が大人になる頃には、風悠来は直ぐに年老いてしまうわ。それなのに私だけずっと生きていなくちゃいけないじゃない。そんなの、私、嫌よ」
 小さな頬を膨らませて、確実に訪れる未来に想いを馳せて。渚の瞳は既に潤んでしまっている。
「せめて私が男だったら、女であるより風悠来がいない時間が短かったのに」
「渚って凄いね、そんな事まで考えてるんだ」
 陽子の声はとても明るかった。今の言葉を聞いていなかったのかと、思わず顔を上げると彼女の元気な笑顔が視界に飛び込んできた。
 陽子は椅子から下りて渚の隣に立ち、まるで年下の子供にするようにポンポンと渚の頭を撫でた。その無邪気さに渚は瞳を見開いたまま固まっていた。
「私はさ。この前盲腸で入院して、死ぬかと思うくらい痛い思いして、だから、今は元気になれた事がすっごく嬉しいの。そんな先の事まで考えられないわ。疲れちゃうもの。渚もさ、今は篠原先生と同じ時間生きていられる事にだけ感謝するようにして、後の事は後で考えたら? 未来の予想なんて立てたって、本当にそうなるか分からないし。明日の保障は誰もしてくれないのよ?」
 ニッコリと陽子は笑った。
 気持ちがいいくらいキッパリとした陽子の考えに、思わず渚も破顔する。
 ぎすぎすとした空気が流れ、病室には、ヒマワリが浴びる温かな日差しが差した。
 扉が勢い良く放たれた。
「あれ、篠原先生」
「あ――陽子ちゃん。渚のお見舞いかい?」
「うん。そうよ」
 何やら切羽詰った表情で病室の扉を開けたかに見えた風悠来だったが、陽子を見つけた彼は直ぐに真剣な表情を払拭して「頼りがいのあるお兄さん」の顔になった。
 ――陽子に頼られるかと言えば話は別であるが、一瞬で変わった風悠来の表情を、渚は不思議に思う。
 時計を見てみたが、彼が訪れる回診の時間にはまだ早い。この時間、風悠来はいつも忙しい筈であるのに、今日はどうしたのだろうか。
 何か用がある事は間違いないのに、風悠来はただ病室に佇んで視線を彷徨わせている。
「先生。さっき彰子先生と何のお話してたんですかー?」
 笑いながら陽子が尋ねた。
 渚は思わず彼女を見たが、陽子は笑うだけで何の他意も無いようだ。
「や、えーっと」
 扉をしっかりと閉めた彼は困ったように頬を掻く。
 その様を見た渚は笑みを浮かべた。ようやく、嫉妬心が拭われて清々しい気持ちになった。
 陽子の隣に身を乗り出して瞳を細める。
「風悠来。またパソコン壊したんでしょう」
「いや、まだ壊してないぞ!」
 焦って断言する風悠来の様子が可笑しくて、渚は吹き出した。
 彰子は若い女性だが、この病院では一番機械に精通している医師である。 機械音痴な風悠来はパソコンがフリーズするたび彰子に呆れられるという構図が定着しており、渚はようやくそれを思い出したのだ。
 何度も彰子に頼むのは気が引けたのか、いい加減にして下さいと怒られたのか。
 渚と陽子は顔を見合わせて吹き出した。
「なーぎーさー」
「あーあ、しょうがないなー」
 情けない顔をして唸る風悠来に更に笑い、渚は肩を竦めた。
 風悠来に頼られるのがとても嬉しい。
 けれど呆れるふりをしながら渚は寝台を下りた。その様子に風悠来の顔が輝いた。
「今度は何をご馳走して貰おうかな?」
「あ、先生。私にも私にも」
「うーん……この際背に腹は代えられない……仕方ないか……」
 風悠来は腕組みをして真剣に唸った。退院してから陽子の食欲は非常に旺盛だ。
 風悠来の側を通り抜けて、渚は大きく笑った。

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