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明くる日の


 8. 朗報

 長いフレアスカートが足首で揺れている。
 それが嬉しくて、ついつい意識をそちらに向けたまま早歩きをしてしまう。
 もっと歩けば軽やかに揺れるだろうか。もっと風を孕めば可愛らしく見えるだろうか。
「渚!」
 腕を掴まれた渚は体をグンと後ろに引かれ、小さな悲鳴を上げて抱き締められた。
 体は直ぐに解放されて自由を取り戻したが、高鳴った鼓動はそうそう治まるものではない。渚は真っ赤になって風悠来を振り返る。
「渚も女の子だなぁ」
「なぁに、それ」
 もしや胸の内を言い当てられるのではないかと瞳を丸くする。楽しそうに笑う風悠来を眩しく見上げる。
 風悠来はクスクスと笑い声を上げながら軽く目配せをした。
 前を見るようにと促された渚は改めて視線を前へ戻し、そこが緩やかな勾配の下り坂となっている事を確認する。坂道の先には階段が続いていた。
 車は車道を延々と下らなければならないが、歩行者は幅の狭いその階段を下りれば直ぐに丘の下へ降りられる。渚も風悠来も、勿論その階段を使う筈だった。
 しかしその階段の手すりは低く、危険度が高い道でもある。階段前の舗道には壊れかけた柵しか設けられておらず、集中力を別に飛ばしたままそちらへ向かえば、足を踏み出す危険性が高いと言えた。
 渚は顔を顰めて風悠来を見る。
「そんなに気に入った? スカート」
「だって、病室じゃスカートは邪魔になるだけだし、これは風悠来に買って貰った物だもの」
「それは、プレゼントした甲斐があったなぁ」
 風悠来はまだ嬉しそうに微笑んでいた。
 そんな彼に見惚れた渚は唇を尖らせ、彼の手を掴む。
 今日は久々に外出許可が下りた日である。
 院長先生の計らいもあり、風悠来は今日一日、渚に付き合ってくれる。そんな事が初めてであった渚は熱が出そうなくらいにどこへ行こうかと悩んだ。そんな渚に、風悠来は笑って「桜を見に行こう」と提案したのだ。以前に約束した時は、容態が急変した患者がいて渚との約束を守る事が出来なかった、と。
 風悠来は久しぶりの外出に合わせ、渚の誕生日祝いを兼ねてプレゼントを贈った。
 渚が以前から欲しかったスカートだ。
 それを病室で手渡された時、渚は泣き出すほど嬉しかった。その幸せな気持ちは今でも続いている。
 手を繋ぐと風悠来は軽く驚いて渚を見下ろし、仕方ないなぁと言うように優しく微笑む。
 その事に嬉しさを覚えて渚も微笑む。
 けれど――と、渚は小さく胸中で呟いた。
 この微笑みはどの患者に対しても同じように向けられるのだろうな、と。
「ねぇ風悠来。桜ってもう咲いているかしら」
「うん。渚と出かけるって言ったら、陽子ちゃんが下調べして来てくれたよ。この先の緑ヶ丘公園の桜は満開だってさ」
「満開かぁ」
 渚は呟いた。
「本当は散っている所が見たいのよね」
 風悠来に助けられながら階段を下り始め、スカートが汚れてしまわないように少しだけ摘む。慎重に足元へと視線を落としながら唇を尖らせた。
「桃色の吹雪みたいな所?」
「そう。冬の吹雪は寒いからあんまり見ていられないけど、桜なら幾ら見ていたって誰にも咎められないわ」
 そうでしょう? と同意を求めようと風悠来を見上げると、彼は酷く嬉しそうに渚を見つめていた。
 そんな表情に再び心臓を高鳴らせながら慌てて視線を逸らす。
 これ以上嬉しい事が起きたら心臓が破裂してしまうのではないかと思われた。心臓をそっと手で押さえる。
「確かに病院だとそんな事してられないけど、渚の願いはきっと直ぐに叶うよ」
「え?」
 階段を下り切って、眼下に広がった緑ヶ丘公園の桜並木に双眸を瞠った渚は息を止めた。
「慢性的になるかもって心配してたんだけど渚の体調は段々良くなってきているようだし、次の検査で異常が見られなかったら退院してもいいって事に決定したんだ」
 目の前に映る筈の穏やかな色が、一瞬にして灰色一色に染め抜かれたように感じられた。
 渚は表情を止めて風悠来を見上げたが、彼は心底渚の退院を喜んでいるようで満面の笑みを浮かべている。風悠来と繋いでいる手が微かに揺れた。
「……え?」
 渚の唇が小さく震えた。
「退院?」
 呟く渚に力強い頷きが返される。
「おめでとう、渚」
 嬉しそうな笑顔で祝われる。
 健康に戻った事は渚だって勿論嬉しい。けれど、退院するというその意味は、風悠来と一緒に居られなくなるという意味だ。それは喜びを凌駕する絶望。
 渚は繋いでいた手を放すと顔を歪めて風悠来を見上げた。
 彼は研修医で私は患者。そして大きな年齢の壁。
 家は近所であるが、退院してしまったら忙しい風悠来と顔を合わせる事は滅多に無くなる。病院に行けば会えるけれど、そこには風悠来が新しく担当する患者もいる筈だ。それを直視する未来が来るのだ。
「渚? ほら、桜が綺麗だよ」
 突然手を放して唇を引き結ぶ渚を不審に思ったのか、風悠来はそう告げながら桜を見るように促した。
 渚は絶望の淵に立たされながら顔を上げる。
 桜はほぼ満開で、小さな花弁をいっぱいに開かせて存在を主張している。八重桜が混じっているようだが、そちらはまだ蕾のままであった。
「わ、私がいなくなったら、困らない?」
 惨めな気持ちになりながら、渚は努めて明るく振り仰いでみた。
 風悠来は渚のそんな努力など全く気付かず、きょとんとした瞳を渚に向けると「うーん」と唸る。顎に手を当てて首を傾げられた。
「確かに。渚がいなくなったら不便になるよなぁ」
「不便――」
 その言葉に渚は拳を握り締めた。
 風悠来に他意はないのだろう。ささくれ立った今の渚には、その言葉がきつかった。
「――彰子先生に見てもらえばいいじゃない」
 思わず低い声が洩れた。低すぎて、風悠来には届かなかったようだ。
 本意とは全く違う言葉に、渚は瞳を熱くさせた。それでも激情は更に強まる。
 風悠来にとって自分は、パソコンを見てくれる便利な道具としてしか価値が無いのだと言われた気がして、渚は唇を噛み締めた。
 瞳に涙を浮かべて風悠来を睨む。
「風悠来の馬鹿! 大嫌い!」
「渚?」
 突然の罵声に風悠来は瞳を丸くした。それを最後まで確かめる事もなく、渚は走り出す。
 強い春風に散った桜の花弁が幾枚か、渚の視界を舞って消えていった。    

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