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明くる日の


 9. 埋められぬ差

 退院を告げられた渚は、まるで自身が捨てられた猫のようだと思った。
 走り出した渚に驚いて直ぐに風悠来が追いついてきたが、渚は泣き喚きながら腕を振り回す。
 突然の態度豹変に目を白黒とさせた風悠来の宥めにより、一応の平静さを取り戻した渚であるが、燻る気持ちは治まらない。ただ、風悠来にこれ以上迷惑を掛けてはいけないと言う理性が欠片だけ残り、それが辛うじて渚を落ち着かせていた。
 病院に戻った風悠来がナースステーションで手続きを取っている間、渚は無言で自室に戻った。風悠来の声が響いたが、近くにいた看護士に「静かにして下さい」と告げられて彼の声は消えた。
 病室に戻り、渚は着替えた。
 いつもの室内着である。
 検査をしやすいように、体を締め付けないように、ゆったりと寛げる室内着。
 風悠来から贈られたフレアスカートを見つめ、それから逃れるように視線を逸らし、渚はそれを丸めるとクローゼットの中に押し込んだ。
 寝台に座った所で病室の扉が開かれる。
 風悠来かと思ったが、違ったようだ。
「渚ちゃん。篠原先生から聞いたかな?」
「河野先生」
 老人独特の落ち着いた声音に振り返った渚は、そこに院長先生である河野の姿を見出して顔を歪めた。河野はまるで実のお爺さんであるかのように渚を愛しく見つめ、笑顔を浮かべていた。
 爪先立ちしていた渚の心が脆く崩れて涙が零れかけた。
「私、退院するって本当?」
「うん。渚ちゃんのお母さんからも了承は得ているよ。渚ちゃんの頭脳レベルだったら、学年をずらさなくても進級が可能だと、担任の先生も仰ってくれているしね」
 聞きたいのはそんな事ではない。
 けれど河野の期待も裏切れずに渚は俯いた。
「陽子ちゃんも、渚ちゃんの退院を待ちわびているだろう」
 その言葉に甦ったのは陽子の笑顔だった。
 彼女に会いたい、と心から思った。彼女にだったら、今の気持ちを素直に曝け出せるだろう。
 渚は膝の上で握った拳に視線を落とした。
「私、まだ退院したくないの」
 院長は以前、もう少しここにいても良いと言ってくれた。その言葉を思い出し、それに縋るように渚は見上げる。しかしそこにいた河野は困ったように笑うばかりであり、以前の安心が失われたのだと知る。助けては貰えないのだと、裏切られた気持ちが湧いてきてしまう。
「渚ちゃんの体はほぼ健康体に戻っているから、意味がないよ?」
 河野が諭すように告げた時だ。廊下を走る慌しい足音が聞こえてきた。
 今度こそ間違わない。風悠来である。
 聞き慣れたその足音に渚は表情を暗くさせ、直ぐに開けられた病室の扉から顔を背けた。
 視界の端で風悠来の白衣が翻った気がした。
「篠原先生」
「はいっ」
 廊下を走ってきた事に後ろめたさを感じているらしい風悠来は背筋を伸ばした。顔つきは強張って冷や汗を浮かべたようだ。緊張している。
 いつまでも彼から顔を逸らしていたら再び心配を掛けるだけだと思い、渚は無理矢理に視線を風悠来に向ける。
 風悠来は河野の姿に瞳を丸くして身なりを整えている。
 あまりにもいつもと同じ雰囲気で、渚は痛みと共に微笑した。
「渚ちゃんの事はお任せしますよ」
「は、はい。ありがとうございますっ」
 緊張が最高潮に達しているらしく、風悠来は良く分からないお礼を言うと頭を下げた。河野の視線は優しく風悠来を見つめたが、余裕のない風悠来はそのような事に気付く余裕など無い。
 頭を上げない風悠来を尻目に河野は渚を振り返り、軽く笑って手を振った。
 行ってしまうのか。
 渚は妙な不安を覚えた。けれどこれ以上彼を引き止めて困らせる訳にはいかない。出来る限りの笑顔を浮かべて河野を見送る。部屋の扉が閉められる。
 河野が出て行った事でようやく風悠来は頭をあげた。
 風悠来の瞳が真っ直ぐに渚を捉える。
 その真剣な表情に渚は、心臓が高く音を刻んだ気がした。
 赤くなった頬を隠し、慌てて横を向く。
「渚。さっきはどうしたの?」
 渚の機嫌が悪い事を察知しているのか、向けられる声は随分と弱かった。風悠来は顔を背けたまま黙り込む渚に首を傾げ、途方にくれて寝台の脇に近づいた。
 渚の心臓は罪悪感と彼への想いで、煩いくらいの音を奏でている。自分の声すら聞こえない。
 渚は体の上で握り締めていた小さな拳を更に小さくさせて、唇を噛み締めた。
「ごめんなさい。ただの八つ当たりなの」
 風悠来の顔を見ないまま告げると困惑したような気配が伝わってきた。
 視界の端に入る白衣が揺れ、ギシリと寝台が軋む。
 風悠来は渚の前に座ると心配そうな視線を向けてきた。いつもであれば患者の寝台に座るなど考えられない風悠来の行動である。
 渚は握り締めていた手を取られ、その優しい仕草に涙を堪えた。
「渚?」
 訊ねられたがかぶりを振る。
 この気持ちはまだ言ってはいけない。大人になって、彼に追いつくまで決して言えない。今のままでは玉砕するしか無いのだ。
「八つ当たりなんて珍しいよね。何かあったの? 俺には言えない事?」
 風悠来の言葉に力強く頷いた。そうすると風悠来は傷付いた表情を見せ、渚の胸は更に痛む。どうしたらいいのだろう、と八方塞になった気持ちに陥り、情けなくて涙は更に湧いてくる。
 息を殺して体を折り曲げ、じっと耐えていると頭を撫でられた。
 驚いて顔を上げると風悠来の瞳にぶつかり、真剣に心配する彼に顔が赤くなる。
 ――風悠来は悪くないのに。
 渚は視線を彷徨わせ、嘘でも安心させなければと言葉を探した。いつもスラスラと出てくる言葉が喉に詰まり、今は押し殺したような唸り声が出るだけだった。
 渚は顔を顰めて口を開く。努めて声を出そうとする。
 そこで初めて、渚は自分の異変に気が付いた。
 ――しばらくしても声が出ない。
 愕然とした渚には気付かぬまま、風悠来はため息をついた。渚の手を放してしまう。
 待って欲しいのにその願いは届かず、風悠来は病室の壁時計を探した。
 予定ではもっと長く外出時間を取っていたが、戻ってきてしまえば風悠来は通常業務に戻らなければいけない。そして風悠来はそろそろ仕事に行かなければいけない時間だ。
「渚」
 裁きを下されるような気分に唇を噛み締めた。
 両手をしっかりと握り締めた渚は風悠来を見送る事も出来ずに視線を落としたまま。
 視界の端に入ってきた風悠来の腕に一瞬体を竦ませた渚だったが、頬に触れられて視線を上げた。風悠来の表情を確かめる間もなく抱き締められて双眸を瞠る。大きな手が背中を撫でた。
「渚が苦しんでると俺も苦しいから。吐き出せるようになったら言って? ちゃんと聞くよ」
 優しい声に嬉しさが湧いて頬を濡らした。
 渚は白衣にしがみ付いて強く頷く。そうすると安堵したような吐息が耳をくすぐり、腕は直ぐに解放された。寂しさだけが胸に残る。
「じゃあ渚。また後でね」
 多少心配そうな様子を残しながらも去っていく風悠来を見ながら、渚は止めようとした。
 堪えきれない想いを口にしようとした。
 けれど、声が出ない。
 寝台に体を乗り出し、風悠来を止めようと顔を上げたのだが声が潰れた。先程の唸り声のようなものしか出てこず、ヒューという音が喉を通っただけだった。
 風悠来は気付かずに病室を去る。
 渚は扉が閉まるのを、大きく見開いた瞳に映したまま両手を喉に当てた。意識して発声しようとしたが、言葉にはならない音が喉を滑っただけであった。
 渚は呆然と寝台に座り込んだ。
 想いを伝える手段が失われた。

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