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明くる日の


 11. 幼い恐怖心

「失声症?」
 告げられるなり、彰子は素っ頓狂な声を上げて渚に視線を落とした。
 その視線が居心地悪くて渚は視線を逸らす。風悠来の白衣に隠れるような格好となり、彼の白衣を力いっぱい握り締めた。
「彰子先生、頼みます! 診てやってくれませんか!?」
 ここまで渚を抱えて走って来た為、風悠来の声は酷く疲れて荒れていた。呼吸が弾んだまま彰子を拝み倒す。
「ちょっと、他の患者はもう眠ってるんだからやめて下さい。分かりましたから、篠原先生は外に出ていて貰えませんか?」
 承諾を聞いた風悠来は直ぐに明るい笑顔となったが、続けられた言葉に直ぐに曇った。渚を振り返ると心配そうに表情を見せる。
 渚は俯いたまま、顔を上げなかった。
「念の為に聞きますけど、脳障害は出ていないのよね?」
 睨むような彰子の視線に、風悠来は怯みながら焦って「はい」と大声を上げた。今度こそ彰子に冷たい視線で睨まれる。
「――そう。なら私も確かめて、後は院長先生かしらね」
 その言葉に渚の胸が小さく痛んだ。
 彰子は耳鼻咽喉科。院長である河野は内科。そして河野は精神科も兼ねている。
 きっと彰子には、渚の失声症の原因などお見通しなのであろう。
 所詮子供なのだと思われているようで、渚は表情を強張らせた。もし顔を上げて、見透かすような表情をされていたらと思うと堪らない。
 唯一の救いは風悠来に伝わっていない事だ。彼は単純に、院長だから河野に任せる、としか考えていない。
 今ばかりは風悠来の鈍感さに感謝した。
「さぁ篠原先生は出て行って下さい。言っときますけど立ち聞きなんてしてたら次からパソコンの面倒は見ませんよ」
 彰子に促され、渋々踵を返そうとしていた風悠来はギクリと歩調を乱した。彰子は呆れたように溜息をつく。
「渚の担当医は俺なのになぁ……」
「お黙り。渚ちゃんの変調にも気付かない鈍い篠原先生に、私達の話を聞く権利はありません」
 ピシャリと告げられ、風悠来は絶句した。
 押し黙り、不機嫌そうに唇を曲げて視線を逸らす。
 風悠来は少しの間だけその場に佇んでいたが、やがて無言で廊下へと出て行った。扉を閉める音が、静かな部屋に響いて消える。
 渚は消えていく白衣を複雑な気持ちで見送った。
「渚ちゃん、こっちに座ってくれる?」
 彰子が促すのは彼女の診察室へ。
 先に入っていた彰子は明かりをつけており、手招きされた渚は暗澹たる気分のままでそちらに足を向けた。
 渚が患者用の椅子に腰を下ろした時、彰子は白衣を身につけて診察の準備を終えた。既に彼女は帰宅しようと、私服だったのだ。
「私が診るまでもなく原因は分かっていると思うけど、取りあえずの診察はさせて貰うわよ? じゃないと篠原先生の心配は加速するでしょうしね」
 溜息をつかれ、視線を落としたままの渚は更に体を固くさせた。
「顔を上げて頂戴」
 促されて顔を上げる。視線の先には苦笑する彰子がいて、渚は唇を引き結んで彼女を見つめた。
 風悠来が一番頼りにしている彰子である。
 彼女は美人であるし、年齢を見ても風悠来と釣り合いが取れている。風悠来と彼女が並ぶ事に、誰も疑問は持たないだろう。
 そんな事を思ってしまい、渚は目頭が熱くなるのを感じた。
「泣かないの。貴方の心が落ち着いたら声はちゃんと出るようになるんだから。一生このままという事にはならないから心配要らないわ。ほら、診察するから口を開けて」
 渚の涙を、声が出ない不安、と捉えたようだ。彰子は幾らか和らいだ口調で励まし、渚の頭を撫でる。
 その仕草が更に自分を子供に貶めているような気がして、渚は更に泣きたくなって彼女を見つめるのだ。
「喉は少し赤いけど心配要らないわね。気にする事は無いわ。まぁ、分かっていたでしょうけど」
 簡単な診察のみで終えた彰子は、最後に渚の喉に触れて頷く。どこにも異常は見られないという事だろう。
 体を離した彰子を訴えるように見上げる渚であるが、彰子はそれに気付いている癖に何も言わない。全て分かっている、というように無言で立ち上がる。
「篠原先生も大変ね」
 カルテに一応の所見を書いて、彰子はおもむろに切り出した。渚はどこか呆けたようにその言葉を聞く。
「貴方たち、家が近所の幼馴染同士なのですって? 歳は大分離れているようだけど、それなら寂しく無いわね」
 どこか棘を含む言い方だった。
 渚は息が詰まるような感覚に陥りながら視線を落とし、膝の上で固めていた拳に力を込める。子供なのだとハッキリ言われるよりも辛い気がした。
「さ、院長先生の所へ行きましょうか。貴方の処遇について話し合わないといけないわね」
 腕を取られて立ち上がり、渚は唇を引き結んだ。
 脳裏に院長先生の顔が浮かび上がり、穏やかな表情が崩れる事を想像する。それだけで渚の心は痛みを増した。

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