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明くる日の


 12. タイムリミット

 渚が診療室から廊下に出ると、少し遠くの廊下に風悠来が見えた。彼は落ち着かないようにうろうろと彷徨い、時折溜息なんか吐き出しているようだ。
 渚の頭上で彰子が呆れたように溜息を零した。
「篠原先生」
 彰子の声に、風悠来が驚いて振り返る。
 診察時間が終わった夜の廊下は照明が少し落とされていて、そんな中で遠くに見る風悠来の表情には、やつれが見えた気がした。
「私が診た限りでは異常は無いわ。院長先生の所まで、渚ちゃんを連れて行って下さる? 私はこのまま帰ります」
「異常は無いんですね!?」
「ええ、無いわ」
 風悠来は明らかに安堵した表情を見せ、視線を渚へ向けたけれど、渚は合わせる顔が無くて視線を逸らした。
 そこで風悠来がハッとしたように彰子を振り返る。
 彰子は再び部屋へと戻り、早速帰り支度をし始めている。先程はその途中で邪魔をしたのである。
 風悠来はドアから身を乗り出して声を掛けた。
「彰子先生、ありがとうございます! お一人で帰られるんですか?」
「そうよ。それとも篠原先生、送って下さいますか?」
 渚の心臓が音を立てて飛び跳ねた。
 イヤだ、と声を出そうとしたが、声は出ない。風悠来の服を握り締めて縋る事しか出来ない。
 彰子は、そんな渚の様子を見て取ると瞳を伏せた。肝心の風悠来は何も気付かないように考えている。
「渚を院長先生に診てもらう間、待っていて下さるなら送って行きますよ」
「あら、私は渚ちゃんの後なのね」
「彰子先生……」
 困ったように風悠来の眉が下がる。彰子は軽く笑った。
「それなら要らないわ。待ってる時間が勿体無いもの。ではお二人とも、さようなら」
 身支度を整えた彰子は小さなバッグを掴み、風悠来の傍を通り抜けた。彼女が纏う女性特有の甘い香りが渚の鼻腔をくすぐり、渚は落ち込むように視線を落とす。
「気をつけて下さいね!」
「病院内ではお静かに!」
 声を出して見送る風悠来に、直ぐさま彰子の叱責が飛んだ。
 それでも風悠来は気分を害した様子は無く、心配そうに彼女の背中を見送る。
 渚は泣き出しそうな自分に気付いて唇を引き結んだ。
 本当は彰子先生を追いかけたいのでは無いか。私がいるから風悠来は諦めているのでは無いか。彼は少し優柔不断な所があるけど優しいから、自分が担当する病人を放っておけないだけなのでは無いか。
 渚は一瞬にしてそんな罪悪感に囚われ、涙を浮かばせた。
「さて、じゃあ渚……って、どうしたの!?」
 彰子から視線を外し、渚を振り返った風悠来は驚きの声を上げた。
 渚の瞳に浮かんだ涙に、焦ったようにしゃがみ込む。
「やっぱりどこか痛いの? それとも不安? 俺が治してやるから、平気だよ」
 渚の視線よりも低くから覗き込み、風悠来は優しく告げる。双眸には何の翳りも無く、渚は更に悲しみが胸を衝くような気がした。
「渚……」
 困ったように風悠来は言葉を落とし、立ち上がる。
 渚は早く河野先生の所へ行こうと歩き出しかけたが、突然抱え上げられて息を呑んだ。
 見れば風悠来に抱え上げられている。
 抱き締められて、まるであやす様に背中を撫でられた。
「ねぇ渚。不安だったらちゃんと言ってくれね。そうしないと俺だって不安なんだからさ」
 渚は風悠来の顔を覗き込んだ。
 渚と同年代の少年たちと比べたら明らかに大人の表情を宿す彼だが、その顔立ちは少し童顔で幼い。髭すら生えていなくて、子供患者たちからは密かに『可愛い』と称せられる風悠来である。
 風悠来は真剣にそう告げると渚を抱き締め、頬にキスを贈る。
 優しい口付けに渚は、再び涙が出るくらい嬉しくて抱きついた。今だけは私の物だ、と彼の首にしがみ付いた。

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