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明くる日の


 13. 別れの日

 風悠来から報告を受けた河野院長は、渚を一目見ると「そう」と頷き、「困ったねぇ」と溜息を吐き出した。
 穏やかな仕草と声音で、彼は院長席から立ち上がると渚に近づいた。
 顔を上げられない渚の頭を軽く撫でて、腰を落とすと渚の耳に唇を寄せる。
 ――桜が、窓の外で舞っているのが見えた。
 渚は寝台の上で視線を動かし、視界を掠めた薄桃色の花弁を追いかける。そうしながら昨夜の出来事を巡らせる。
 たとえ渚の声が出なくなろうと、検査結果に異常は無いのだから退院はしなければいけない。渚の声は、自宅療養が充分可能な物。診療に通う事が前提であるが、入院は認可できない。
 諭すように穏やかな声で告げられ、渚はゆっくりと視線を上げたのだ。
 自分の我侭が通る訳は無いと分かっていたけれど、渚は哀しくてゆっくり微笑んだ。河野院長の瞳が細められる。
(いいの。私は大丈夫。お母さんと一緒にいれば、声だって直ぐに戻るわ)
 今は、父がいない家。もう何ヶ月も戻っていない自宅。
 その寂しい空間を思えば気が引けたけれど、渚は唇を引き結んで決意したのだ。
「渚――っと、まだ着替えて無かったのか?」
 静かに病室の扉が開けられ、渚は驚いた。現れたのは風悠来である。それなのに、彼がこの部屋に近づく騒々しさに、今は全く気付かなかった。
 花弁に注いでいた視線を彼に向け、渚は首を振る。声はまだ出ないようだが、その素振りだけで風悠来には伝わってくれる。
 風悠来は渚の着替えや生活用具などを整理し、小脇に抱えて入ってきた。
「ああ、着替えてはいるんだな」
 渚が軽く布団を捲った事で、その下から現れた渚の服装に笑みを洩らす。
「仕度が出来てるなら行こうか? 皆待ってるよ」
 風悠来が寝台に近づいて促し、渚は少し躊躇ってから彼の首に抱きついた。いつもしているように、沢山の想いを込めて。
「な、渚……。俺、今は君の荷物で手一杯なんだけど」
 少しだけよろめいた風悠来はそう言ったが、それでも直ぐに渚を抱え上げるようにして笑う。渚も声を出さずに小さく笑った。
 風悠来が渚の荷物を両手に抱え、他の患者からの退院祝いを左脇に挟み、更には渚を腕で抱えながら、病室を出ようとした時だ。前触れも無く病室の扉が開き、綺麗に髪を纏め上げた彰子が入ってきた。
「あれ、彰子先生? 玄関で待つんじゃ無かったんですか?」
 物凄い重量を体に掛けているだろうに、風悠来は微塵もそんな事を感じさせないように振り返った。動きが鈍く見えるのだけは仕方が無い。
 無表情で入ってきた彰子は、風悠来の格好にしばし唖然とした。
「篠原先生……」
 彼女は溜息をつくと、頭痛を訴えるように額を押さえて首を振る。真っ黒な縁眼鏡を外して風悠来を見据える。
 その仕草は非常に大人の女性を感じさせて、風悠来の首にしがみ付いていた渚は妙な焦りを覚えた。
 それまでも彰子には何度か風悠来の事で焦燥を覚え、苦手意識を持っていたのも原因かもしれない。
 彰子に抱くコンプレックス。
 渚は風悠来の首にしがみ付き、彰子を見つめた。
「ちょっと、お話があるのよ、篠原先生」
「俺にですか? はぁ……」
 風悠来は曖昧に頷いて首を傾げようとするが、生憎渚が力いっぱいしがみ付いているのでそれは出来なかった。
「それって、今じゃなきゃ駄目ですか? 今は渚の」
「勿論後で構わないわ。でも、それだったら篠原先生は渚ちゃんの家まで送って行くのでしょう? だからその前にお話出来ないかしら」
 風悠来は顔を顰めた。
 この病院の勤務医である限り、話はいつでも出来そうな物なのに。何故今、このタイミングでそんな事を言うのだろうと眉を寄せる。
「渚ちゃん、いいわよね? 篠原先生を貸して頂戴」
 風悠来が何か言葉を発する前に、彰子は釘を刺すように渚へ言葉を向けた。
 渚は驚いて口を開くが、声は相変わらず出てこない。
 イヤだ、と風悠来に抱きつく事も出来たが、そうしてしまうと更に子供を強調しているようで、それを彰子に見せるのがイヤで、渚は渋々頷いた。
 彰子の唇が鮮やかに笑みを彩る。
(彰子先生、お化粧してる……)
 昨夜は一日の終わりに会った為、化粧は殆ど意味を持たない物と化していた。
 それが今は、しっかりとメイクアップされて目の前にいる。纏められた髪にもどこか気合が感じられて、渚は更に気持ちが塞ぎ込んでいくのだ。
「渚?」
 自分の腕から逃れる気配を見せた渚に驚いて、風悠来は彼女が落ちないように寝台へ下ろした。
「渚ちゃんからのお許しは貰えたようですし、少しいいわよね? 篠原先生」
 渚が寝台に戻るのを見て満足気に笑った彰子は、風悠来が戸惑っている隙に体を押した。
「え、ちょっと、彰子先生?」
 風悠来の焦る声が響いたが関係ない。
 彰子は風悠来から荷物を奪ってその場に落とし、身軽になった彼の体を廊下まで押し出した。
「じゃあね、渚ちゃん」
 廊下から渚に向けた彰子の視線は含みがあるような物で、渚は瞳を瞬かせた。
 ドキンと心臓が一つ高鳴って小さくかぶりを振る。
 彰子は唇を鮮やかに笑みへ変えて、扉を閉めた。

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