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明くる日の


 14. 心は繋がれて

 彰子が風悠来と消えて、取り残された渚は寝台に足を伸ばして座っていた。
 何とは無しに窓から外の風景を眺め、風悠来から贈られたばかりのフレアスカートをいじっていたりしたのだが、不意に衝動に駆られて寝台から飛び降りた。
 今までならそれだけの衝撃で足裏の毛細血管が破れたりしていたのだが、今ではそんな事もない。河野先生が言う「健康」は本当のようである。
 些細な事であるが嬉しくて、渚は新鮮な驚きに胸を満たしながら扉に駆け寄った。
 去り際に見せた彰子の笑みが気になって仕方ない。
 言うなれば「女の勘」という奴が胸を騒がせ、嫌な想像ばかりが育っていくのだ。
 もしかして彰子は、声が出なくなった原因を風悠来に言ってしまうのでは無いか。
 それは別に構わない事だが、風悠来に軽蔑の目で見られるのだけは耐えられなかった。所詮は子供染みた嫉妬なんだと思われるのも我慢ならなかった。
 子供でも真剣に恋をする事はあって、その対象が凄く年上という事だって、あるんだ。
 年齢の差を埋められない悔しさは、決して彰子には分からない。
 渚は廊下に出て、二人の姿を捜したが見つからなかった。焦る気持ちで廊下を駆ける。
 いつも通りの日常。いつも通りの朝。
 しかし廊下に出ている看護士や患者の数はさほど多く無く、自分の為に玄関へと集まって貰っているのだと思い出して、罪悪感が首をもたげた。
 自分にとっては退院というめでたい出来事だが、彼らにとっては日常の勤務が後に詰まっているのに。自分の感情だけで彼らの時間を拘束してしまっている。
 渚は必死で捜していた風悠来たちの姿を諦め、足を止めた。
 本当なら風悠来は渚を自宅まで送り届ける役目も担っているのだが、渚は一人で帰ろうと心に決める。いくら担当医で近所に住んでいるからと言って、いつまでも甘えていてはいけないのだ。仕事をどうしても抜けられなかった母の為に、風悠来を駆り出す訳にもいかない。退院したこれからは、風悠来の力は渚に届かなくなるのだから。それに早く慣れなくては。
 渚は病室に戻り、荷物を持って来ようと踵を返した。
「渚!」
 暗くて嫌な気持ちを抱えたままだった渚は、その声に瞳を瞠って顔を上げた。
 もう何日も聞いていない気がする、温かな母の声。
 今日は絶対に仕事を抜けられないと聞いていたのに、何故。
「良かったわ、見つかって。先生たちをお待たせして何してたの? 母さんももう時間が無いから、早く行くわよ」
 息を弾ませて走って来た典子は、渚の戸惑いなど物ともせずに腕を掴んだ。
 渚が躊躇っている間に典子は強引に腕を引き、腕の付け根が痛んだ事に渚は眉を寄せる。それでも母が来てくれたという事だけが胸を占めて、泣きたいくらい嬉しい気がした。
「風悠来君はどうしたのかしら? 渚の事を頼んでいたのに、彼まで行方不明なんて。やっぱり研修医は駄目なのねぇ」
 仕事が詰まっているからだろうか。
 苛立ち混じりにそんな溜息を落とされ、渚は小走りになりながら瞳を見開いた。
 反論したくて口を開いたが、声はやはり出てこない。典子は全く気付かず足早に進む。渚の足ではとても追いつかなくて、渚は早くも息切れし始めた。
「もう、嫌だわ。早くしないと新幹線が出てしまうじゃない。一本早める事が出来たっていうのに、何でこんな事になってるのかしら」
 呟きを洩らす典子は不愉快そうだ。
 忙しい仕事の合間に、こんな手間のかかる事をさせられてしまえば仕方が無い――それでも来てくれたという事実に嬉しさを滲ませていた渚は、今聞こえた台詞に典子を見上げた。
 完璧に化粧を施された顔は不愉快そうで、眉間に皺が寄っていた。
 エレベーター前でようやく典子が足を止めた事で、渚は大きく息をつく。
「――あら、渚。今日は一言も喋らないのね」
 気付いたのか、典子は不思議そうに問いかけてきた。渚は息を弾ませたまま典子を見上げ続けるが、典子は大して気に留めないようで、直ぐに視線を外してエレベーターへと向ける。
「そういえば渚には言って無かったわね。私の仕事が忙しくて中々会えなかったのも原因だけど――私達、これから北海道に行くのよ。仕事の関係もあるけど、河野院長が推薦して下さったの。都会よりもあちらの方が、渚の体の為にはいいんですって」
 渚は昨夜の河野を思い出した。
 決して、退院の日は変えられないと言った裏にはそんな事実もあったからなのか。
「向こうに着いたら、今までよりは渚の面倒を見ることが出来るわ」
 典子の声は嬉しそうに弾む。
 対して渚の心は沈んでいく。
 退院して、四六時中風悠来と一緒にいられなくなるだけではなく、滅多に会えない遠方にまで連れて行かれてしまうのか。
 そう思ったら叫びだしたいような衝動が湧いてきて、腕を掴んでいた典子の手を振り払った。
「渚?」
 多少不機嫌だった中にも喜びを宿していた典子が、驚いて目を瞠った。
 そんな典子を見上げて渚は後退し、首を振った後に、思い切り走り出した。
「渚、どこへ行くの!?」
 典子の叫び声が聞こえ、追いかけてくる声も聞こえた。けれど渚は止まる事無く、近くにあった階段を全力で駆け上がった。
 しばらくは典子の声と共に、彼女のヒールの音も聞こえてきていたが、渚がそれでも止まらずにいると、いつしかその音は聞こえなくなっていった。
 ――嫌い、嫌い、みんな嫌い。私はここに居たいのに。大人の都合なんかで私の居場所を取らないで。
 ゲホ、と一度咳き込み、屋上まで駆け上がっていた渚は荒い呼吸を繰り返した。
 こんなに走ったのは何年ぶりだろう、と霞む思考で思いながら手すりにもたれた。
 心臓が飛び出そうなくらい激しく鼓動を打ち鳴らしている。その上に手を当てると、手まで同じテンポで飛び弾む気がした。
 どこにも帰れない。
 鼻を啜り上げて、渚は拳を握り締めた。

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