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明くる日の


 15. ただ一つの我侭

 風悠来から贈られたフレアスカートを揺らす風。
 それに気付いた渚は、泣き腫らした顔を上げてをそちらに視線を向けた。
 屋上へ続く扉が微かに開き、そこから春の風が入り込んで来ているようだ。
 渚は鼻を啜り上げてその扉に手を掛けた。
 廊下に漂う冷たい空気を払拭するような春風が優しく渚の体を包み、その穏やかさに渚は瞳を細める。顔を上げれば、母の手のような優しい風が頬を撫でて行った。
 屋上は真っ白なシーツで埋め尽くされていた。
 どこを見てもシーツばかり。洗いたてである。
 看護士達が干して行ったのだろう。
 微風を受けて膨らむそれらを見ていると、酷く心が落ち着いて涙が乾いていく。
 シーツの一枚を頬に寄せ、温かな匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
「貴方の道徳観念なんて関係無いのよ」
 シーツの合間、風の合間に聞こえて来た声に、渚は瞳を開けた。
 ――彰子の声である。
 一度は静めた心臓が大きく飛び跳ね、渚は瞳を瞠らせて息を潜めた。
 どこに行ったのかと思っていたら、彼女はここにいたのか。とすれば当然、風悠来もいる筈である。
「彰子先生って、眼鏡掛けない方が綺麗ですよ」
「からかってるの?」
「いいえ、真剣です」
 一体どういう会話なのか。風悠来の声に、渚は顔を歪めた。
 息を殺してそっと身を屈めてみる。翻るシーツの合間から二人の姿が見えて、渚はしゃがみ込んだまま二人に近づこうとした。
 二人の足だけが覗いていて、二人が渚に気付いた様子は無い。
「――なら」
 いつもより尖った彰子の声が聞こえ、渚はシーツ二枚分を挟んだ所で立ち止まった。これ以上行けば、シーツが翻った時にバレてしまうかもしれない。
 先程扉の前で泣いた為、真っ赤になっているだろう目元をもう一度拭い、渚は座り込んだ。
 膝に頬を預けて瞳を閉じれば、春の柔らかな日差しと風悠来の声が、まるで子守唄のように囁きかけてくる。
「篠原先生、私と付き合う?」
 渚は目を見開き、慌ててそちらを見た。足だけしか見えなくて、もどかしい思いが焦りを生む。
 嫌だ、という思いだけが強まり、渚は再び泣き出したいような焦燥に駆られた。
「本気ですか?」
 疑いを含むような風悠来の声。
 否定してよ、と叫ぶ渚の心の悲鳴をちっとも理解せずに風悠来は問いかける。
 その場の嫌な雰囲気に、渚は拳を握り締めて、そっと近寄った。
 物干し竿の支柱を掴み、そっと窺ってみる。
 そこには怖いくらい真剣な風悠来の表情と、挑むように睨んでいる彰子の姿がある。
 二人の雰囲気に渚は瞳を大きく見開かせた。
 彰子が一歩風悠来に近づき、手を伸ばす。スラリと伸びた、大人の手だ。おまけに彰子の手は滑らかそうで、その手が風悠来の頬に触れる。
 風悠来なら拒否するだろうと思っていた渚だが、風悠来が何もせずに瞳を細めた事に驚いた。
 彰子の体が風悠来に近づいて、彰子は爪先立ちとなる。風悠来が微かに腰を屈め、彰子の唇へ顔を寄せる。
 ――その場所は、私の場所よ。
 プツン、と渚は自分の中で何かが切れた音を聞いた気がした。
 呆然としゃがみ込んでいた渚であるが、勢い良く立ち上がると大きく顔を歪ませる。
 たった今、口付けを交わした二人から目を離さずにシーツの合間から飛び出した。
「渚?」
(私は子供だけど。そりゃあ、子供でしか無いけど! でも! まだ私の気持ちすら言ってないもん!)
 荒れ狂う感情の嵐を感じながら渚は風悠来と彰子の間に割り込んだ。
 力いっぱい、二人の体を剥がす。
「渚ちゃん」
 風悠来と同じく、彰子の瞳が驚いて広がっている。
 渚は涙目で彼女を睨みつけると、彼女に向かって両手を思い切り、広げた。後ろには風悠来がいる。
「駄目です! 幾ら彰子先生だからって、今のは絶対駄目! 風悠来を見てるのはずっと私なんだから!」
 感情のままに泣き叫び、呆気に取られたような彰子の顔に渚は唇を噛む。ほら、やっぱり子供じゃないの、と言われている気がした。
 渚は次に、彰子と同じく呆気に取られている風悠来を振り返った。
 背の高い彼に腕を伸ばすと、風悠来は条件反射なのか腰を屈めて渚の事を受け入れる。
 近づいてきた風悠来の顔を睨み、渚は自分の服の袖で、風悠来の唇を思い切り擦った。
「な、渚っ?」
 驚いた風悠来が仰け反ろうとしたが、渚は真剣に涙を溜めて更に擦りつけた。ゼイハアと息も荒い。
 風悠来を睨みつけたままの渚は袖を元に戻すと、小さな腕を風悠来に伸ばして口付けた。
 目を瞑って力いっぱい唇を押し付けると鼻がぶつかって涙が出てくる。
 直ぐに離れて渚は唇を引き結んだ。
「私と彰子先生と、今すぐどっちか選んで!」
 これまで必死に、風悠来に嫌われたりしないよう、呆れられたりしないように大人を装っていたのだが。そんな演技も忘れるほど頭に血が上っていた渚は、感情を剥き出しにして叫んでいた。

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