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明くる日の


 16. 彼の明日

 切羽詰った形相で風悠来を睨みつける渚と、ただひたすら驚いたように瞳を丸くして渚を見つめる風悠来と。
 彰子はそんな二人をしばらく眺めた後にフッと溜息を吐き出した。
「だから貴方の道徳観念なんて、子供には通用しないって言ってるじゃないの」
 思い切り呆れたような声音に渚は体を硬直させて振り返った。
 視線の先で彰子は肩を竦めて呆れ顔である。
「彰子先生……」
 心底困ったような顔で風悠来が呟き、立ち上がる。
 大人二人に挟まれて、渚はそれまでの勢いが急に萎んで情けなさを感じ始めた。風悠来を掴む手から力を抜いて、視線を床に落とす。春風が揺らすシーツの影が渚たちを飲み込んでいる。
 風悠来が躊躇うような雰囲気を醸し、その度に渚はビクビクと怯えて。
 遂に彰子が苛立ったように声を荒げた。
「貴方の優柔不断さが嫌いだわ! 遠回しに気遣ってないで本人を気遣いなさい、不器用過ぎて頭が痛くなるわ!」
 彰子は力いっぱい怒鳴りつけて、毅然と背筋を伸ばしたまま風悠来に指を突きつけた。先程キスを交わしていた恋人同士には見えない会話である。
 初めて聞いた彰子の怒鳴り声に、渚も風悠来もビクリとして硬直した。二人で手を取り合って、彰子に怯えの視線を送ると彰子は鼻を鳴らせた。
「全く、さっきまで私に強気だった貴方はどこにいったのかしら」
 両手を腰に手を当て、彰子が睨むのは風悠来である。
 彼女のそんな言葉に、風悠来が強気で彰子に挑む絵が全く想像できなかった渚は驚いて風悠来を見上げた。風悠来は憮然としたように視線を逸らしている。
「風悠来?」
「この男はね、渚ちゃん。貴方が退院して北海道に行くって聞いた途端、突然の環境の変化は渚に良くないって言って、手元に置いておくつもりでいたのよ」
 渚は瞳を瞠らせた。
 視界の端では風悠来が渚の腕を掴んだまま、視線を逸らし続けている。
「だって、こっちには渚が親しんだ人達が沢山いるじゃないか。自然は大切だけど、人間っていう環境も大切だと思ったんですよ」
 風悠来は小さな声でブツブツと呟き始めた。普段知っている風悠来とは全く違う様相を見せる彼に、渚は驚きながら彰子とのやり取りを眺め続けた。
 視界の端で彰子が溜息を吐き出す。
「強引に決めてる癖に、渚ちゃん本人には今日まで言わないっていうんだから。渚ちゃんの声が出なくなっても当たり前よ」
 その言葉に渚は「あ」と喉に両手を当てた。
 今の今まで全く気付かなかったが、先程まで随分と大声を上げていたと思い出す。
 彰子が笑った。
「さっきのキスは診察料として頂いて行くわ。自分が渚ちゃんを預かったら世間から渚ちゃんがどう思われるか、とか、そんな事しか考えていないこの先生に、教えてやんなさいよ、渚ちゃん」
 彰子は片目を瞑って渚に笑う。
 渚は呆気に取られて風悠来を振り返った。
 視界の端を、彰子の白衣が流れて消えていったが、それには関心を向けずに風悠来を見上げた。
 彼の表情は相変わらず不貞腐れたように憮然としている。
「風悠来、今の話は本当? お母さんが北海道に連れて行くって言ってたけど、私は風悠来と一緒に居ていいの? 迷惑じゃない?」
「――ダメ。やっぱり渚はお母さんと一緒に北海道に行くべきだよ。まだ中学生だし、新しい世界は大きいほど渚のプラスになる」
 渚は睨みつけた。
「嘘つき! 私を北海道になんか行かせたら、風悠来は一生後悔する事になるわよ!」
 そんな怒鳴り声に風悠来は渚を見つめ、しゃがみ込んでくる。涙目となった渚は唇を引き結んで風悠来を睨む。
 早く安心させて欲しかった。
 風悠来の腕が伸びてきて、開かれた体に思い切りしがみ付く。首に手を回すと、遅れて風悠来の腕が渚を包む。渚の耳元では風悠来の溜息が吐き出された。
「渚にはまだ選択肢が残されてるんだよ。渚が大人になって、他の道も知って、それでも」
 嬉しい筈なのに涙が出てくる気がして、渚は風悠来の肩に顔を埋めた。暖かくて気分がいい。
 彼の声を遮って告げる。
「選ばせないで。今の私のまま、風悠来以外選ばないように、ずっと一緒にいて」
 小さな声で囁いたが、しばらく待っても風悠来の答えは得られなかった。
 渚は不思議に思って体を離そうとしたが、不意に強く抱き締められて小さく悲鳴を上げる。次いで何やら可笑しくてクスクスと笑い出した。
「ねぇ風悠来、キスして。彰子先生に負けないくらい素敵なキス」
「――渚が大人になったらな」
「ずるい! キスしてくれるまで彰子先生と風悠来のキスシーンばっかり脳裏でリピードし続けるわよ!」
 頬を膨らませて妙な脅迫をすると風悠来は笑い出し、渚は体を離す。
 今度はすんなりと離れる事が出来た。
 高く上った太陽が眩しく、真っ白く翻るシーツの影に埋もれる。穏やかに微笑む風悠来を見つめ、微かに頬を染めた渚は満面の笑みを浮かべた。
 王子様から贈られた優しいキスに、まるでお姫様のような気持ちになって嬉しくなるのだ。
 ようやく手に入れた風悠来の隣は、明日も明後日もいつまでも――この命が続く限り私のもの。

END
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