第一章

【一】

 アリカ、と呼ばれていた。
 人の侵略を拒む閑寂な聖地のただなかに響くのは澄んだ歌声。いつから響いていたのか分からぬまま女の歌を聴いている。
 足裏に感じる柔らかな芝は暖かさを宿していたが、体は酷く冷えていた。
 何も動かないこの場所に、静かに佇み、ただ時を紡ぐ。
 いつまでも。これからも。

 アリカは瞼を閉じたままでいた。
 琴線を震わせるのは確かな祈りの声。
 瞼裏の闇からは何も生まれない。それを享受しながら吐息を洩らす。

 誰が歌っているのだろう。

 アリカは瞼を開けたが他人の姿は見出せない。周囲に満ちる闇が深すぎて見通せない。自分がどこに存在しているのかも分からない。ただ、周囲の様子が映像としてアリカの脳裏に映っていた。
 森には霧が深く懸かっていた。眼前に広がる湖面は一つも動かない。アリカの姿を静かに映す。
 アリカはおかしなことだと思いもせずに受け止めていた。
 この静寂を破ろうとするのは誰なのか。
 引かれた境界線はあいまいで不安を掻き立てる。何も分からない世界でただ一つだけ確かなことは、これが夢であるということ。まるで淵底に辿り着いたかのように深い闇が支配するこの世界で、これだけは変わらない。
 歌声に込められた祈りの響きと、胸が締め付けられて切なくなるほど懐かしく、優しい声。
 アリカ、と。呼ばれている気がした。
 赤子をあやすように柔らかな声。今も歌に織り込まれていく。
 耳を澄ませば強さを増して誘惑を広げる。
 アリカは闇に浮かんだ輪郭へと手を伸ばした。これまでに何度したか知れない行為だ。だがその手は届かない。哀しくなるほど分かっている。理解している。誰かの姿が浮かぶ前に。伸ばした腕が届く前に。誰かの姿は闇に溶かされる。そしてアリカもまた、溶けていくのだ。漂うばかりの闇と霧の中へ。
 夢は現へ。闇は光へ。
 誰かを置き去りにしたまま還っていく。呼びかける名前をも奪い取られ、牢獄へ落とされる。
 この暗闇が続けばいい。
 喉の奥まで出ているのに言葉にならない。呼べばきっとこの手が届くと思うのに。

 歌声が重く、圧し掛かる。


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 広い部屋には微かな寝息が響いていた。
 まるで母親の胎内で眠るかのように手足を曲げ、大きな寝台の半分も残して小さくなって。アリカはまどろんでいた。
 カチリと長針が一つ動いた刹那、頭上の目覚ましが騒ぎ出す。早く目覚めろと言わんばかりに音量を増し、外へ響くのではないかと思うくらい騒いだ頃。ようやくアリカが動き出した。
 布団の中から手だけが伸びてくる。
 しばらく探るように頭上で動いていたが、手はやがて目覚ましに辿り着き、すかさず布団に引き込まれる。布団の中でくぐもった声を出していた目覚ましはようやく静かになった。
 分厚い遮光カーテンから洩れる朝日のなかで、寝ぼけ眼をしたアリカが顔を覗かせた。
「朝……」
 止めたばかりの目覚ましを抱きこんで座る。静かに唇が動いたが空気は震えず、声は響かない。焦点をどこに定めているのか分からないほど虚ろな表情をして、時間ばかりが過ぎていく。まるで、再び眠りに落ちたのではないかと思わせた。
 部屋のなかが徐々に明るさを増していく。青白い月明かりを忍ばせていた室内は、太陽の光で白く染め変えられようとしている。ガラス一枚を隔てた外からは鳥たちの高い挨拶が聞こえ、羽ばたきまでもが忙しく踊る。
 どこか気だるく視線をカーテンに向けていたアリカはようやく動き出した。強張った四肢を伸ばしてため息をつく。徐々に思考が戻ってきたのか、一度強く瞬いてから視線を部屋に巡らせた。先ほどまでとは一転した確かな光が双眸に宿る。
 素足を床に落として立ち上がり、枕辺に散っていた長い髪を掻きあげる。
 目覚ましを元に位置へ戻すついでに時間を確認すると、起きてから既に三十分が経過していた。
 アリカは苦笑してため息を落とす。目覚ましが解除されているかをもう一度確認してから鏡へ向かう。
 薄暗い光が満ちる中。
 鏡の中から、少女が同じ眼差しでアリカを見つめている。手を伸ばして鏡に映る頬に触れた。
 当然ながら感触は固い。
 人差し指で輪郭をなぞっていたアリカだが、不意に拳を握り締めて唇を噛み締めた。
 鏡の中では同じく険しい表情をした少女が睨みつけている。アリカが呟けば鏡の少女も同じように呟き、動けば同じように動く。
 当然といえば当然だが、アリカはそれが煩わしく、苛立ちを募らせる。
 真夜中に仰いだ月のような白が、鏡を見て真っ先に目に入る色。光源は遮光カーテンの隙間から洩れる太陽の光だけ。それが部屋の奥まで届くことはない。けれどそんなことはまるで関係がないと言わんばかりに、アリカの髪は仄かな光を湛えている。
「こんなもの……」
 真っ直ぐに背中を滑り落ちる硬質の髪。
 白は柔らかさを感じさせる色だというのに、アリカの髪にはそれがない。白ではなく銀を宿しているからだ。腰半ばを過ぎ、冴え冴えとした光を湛えている。
 アリカはしばらくその髪を睨み付けるように見つめていたが、やがて細い手で髪を束ね始める。大きな櫛で梳ればさらに光沢を増す。頭上で一つにまとめ、黒ゴムで結い上げる。簡単には崩れないように硬く縛る。首を振ると、髪はうなじを滑って背中で揺れた。
 毎朝毎朝、幾ら確認しようと変わるはずがない色だ。しかしそうして確かめることが、もう習慣になっていた。
 アリカは欠伸を噛み殺す。否応なしに訪れる夢のせいで寝不足だ。以前は誰かに呼ばれていただけの夢だったが、いつの間にか正体不明の歌声までつくようになった。
 だんだん夢の内容が豪華になってくるわね、とアリカは皮肉るように唇を歪めた。
 この手には何も残らないまま、夢は夢として去っていく。感情を逆撫でし、用は済んだと言わんばかり。苛々が溜まる。けれどどうしようもない。怒る相手は夢の中。顔も知らない誰かなのだ。
 どうして? と問いかけても何も返らない。疑問も怒りもとうに過ぎてしまった。それなのに、毎朝襲ってくるこの喪失感はどうにもならない。
 アリカは自分で自分を抱きしめるように腕を回し、唇を噛んで瞳を伏せた。
 腹部で何かが蠢いているかのような気持ちの悪い感覚。毎朝のことだが食欲も湧いてこない。今日も朝食は不要だ。
 アリカは軽く肩を竦めた。
 私立高校に合格し、公立高校の受験結果待ちという状態だ。卒業式を間近に控えているが、どうにも実感が湧いてこない。
 帰宅してから投げっぱなしだった学生鞄を手にし、財布を取り出す。中学生が持つ金額としては驚くほどのお札が何枚もある。しかしアリカは眉を寄せて「足りないかな」と呟いた。一人暮らしを余儀なくされ、食費や光熱費もこの中から出すのだ。いっそ口座振替にしてしまえば楽なのにと何度も思った。けれどその手間と、人に会わねばならない億劫さが口座振替の手続きに踏み切らせない。
 アリカは制服に着替えながら「下ろしてこようかな」と呟いた。足りないのなら結局はそうしなければならない。
 一階へ下り、なにげなくテレビをつけ、通帳の用意をしようと戸棚に向かう。
 接触が悪いのかテレビは暗い画面をさらし、音声や映像を徐々に鮮明にしながら朝のニュースが流れ始めた。アリカの背中に叩き付けられる。
『行方が分からなくなっていた里花ちゃんが、昨夜6時頃、河口付近で発見されました。発見時には既に息がなく、両親は』
 アリカは背中を震わせた。弾かれたようにテレビを振り返り、見覚えのある映像に表情を強張らせた。映し出されていたのは近所の大きな川だ。先日の大雨で増水した川は茶色い濁流となり、唸り声を上げている。大勢の報道陣がつめかけているようだ。泣き崩れる両親や近所の人たち、なぜ死んでしまったのと悲鳴を上げる同級生たちを映し出している。真っ白な花束が次々と川に投げ込まれていく。
 ――ブツリ、と。
 それまでのアリカを見ていた者がいたとしたら、驚いただろうほどの勢いと強さでテレビの電源が落とされた。
 アリカは暗くなった画面を睨むように凝視し、取り出した通帳を握り締めた。リモコンをソファに投げ捨てて唇を噛む。
 通帳には莫大な数字。名義はアリカ。
 その通帳を誰から渡されていたのか、名前を誰に呼ばれていたのか、知る術はアリカにない。心が軽くなったことなどないのだけれど――それでも、今はまるで重い塊を飲み込んだように沈んでいた。得体の知れぬ冷たい風が足元から這い上がってきそうな気がして、アリカは体を震わせた。銀色の瞳に憂いの光が宿る。
 すべての仕度を整えたアリカは浮上することもなく玄関に向かった。
「行って来ます」
 応える声がないことなど分かっている。それでもアリカは小さく呟いて外へ出た。
 誰もいない家は今でも誰かを待つように広く。
 耳に触れない歌声は、確かに強く、しみこんでいく。