第一章

【二】

 外へ出れば強い陽射しが降り注ぐ。最近見られなかった力強い陽光は、冬の終わりが近いことを示している。卒業式には完全な春が迎えられるだろう。
 アリカは瞳を細めて笑みを浮かべた。
 関東に位置するこの街で、雪が積もることは滅多にない。今年の雪も交通機関を軽く混乱させるだけで終わっている。一度でいいから北海道の大雪を体験してみたいというのは関東人ならではの我がままな願いだ。
 アスファルトの道にフキノトウは見られないが、代わりにタンポポが存在を主張していた。固い人工物を押し上げてきた花を一瞥し、アリカは鍵をポケットに押し込んだ。
 一戸建ての住宅。
 他にも立派な家々が立ち並ぶ住宅街。
 少し冷たい風に足は早められ、いつもの道路に出ようとしたアリカは顔を上げた。住宅街を抜けるとここで川のせせらぎが聞こえてくるのだが、今は風に乗って他の物も聞こえてくる。
 アリカは先程テレビで見たニュースを思い出した。
 いつもの道路を進む足は遅くなり、角を一つ曲がって足を止める。視線の先には大勢の人たちが群れていた。報道陣や、亡くなった子供の関係者だと思われる人々。遺族は一様に嘆き悲しんで、持ち寄った花束を川に投げ込んでいる。彼らの足元にも花束は置かれ、橋には近所の主婦たちが出てきていた。
 いつもの道路を通ろうとすれば、必然的にあの人ごみの中を潜っていかなければいけない。
 アリカは曲がり角で立ち止まったまま逡巡し、やがて踵を返した。道路を少しだけ戻って別の道を通る。少しだけ遠回りになってしまうが時間は充分にあった。
 住宅街を大きく迂回して商店街へ出る。通学の際には普段通らない、人通りの多いメインストリートだ。本来の指定通学路はそこだが、アリカは滅多に通らない。せいぜい買出しに出かける程度にしか使わない。
 商店街は既に開いていた。威勢のいい声が飛び交っている。朝市が開かれていたのか、新鮮な野菜や魚介類が売れ残って従業員たちは忙しそうだ。通行人に目をとめる暇があるような従業員はいない。
 アリカは彼らの目を避けるようにしながら足早に通り抜けた。
 冷蔵庫に在庫がないことを思い出し、帰りに何か買って行こうかと思ったが、足は速度を緩めなかった。料理する手間ばかりを思ってため息が零れる。
 一人暮らしは長いというのに、なぜこうも慣れないのか。早くもインスタントにしようかと挫折しかけていたアリカは、食品店の中にポツンと紛れ込んだ雑貨店や洋服店に視線を向けた。
 まだ開いていない店の前で、お互いに笑いあいながら展示品を見ている親子がいた。恐らく来年小学校に上がるのだろう。子供がランドセルを指差して歓声を上げている。母親を手で呼んで訴えている。母親は微笑みながら何かを諭し、子供の手を引いてその店を離れた。子供の目はまだ物足りないようにランドセルを追いかけたが、母親はもう立ち止まらない。子供は手を引かれながら駅へと遠ざかる。
 アリカは知らずに立ち止まって顔を曇らせていた。
 胸に湧くのは嫉妬か羨望か。どちらも昔からアリカの胸を占めて苦しめているものである。
 アリカには先ほどのように優しく微笑みかける存在はいなかった。力強く手を引く存在もいなかった。母親も父親もおらず、物心つく頃には既に、アリカは独りで暮らしていたのだ。
 誰が来る訳でもない孤独な暮らし。普通なら親戚や養護施設、孤児院といったものが引き取り育てるのであろうが、アリカにはそれすらない。
 母親の手がかりも父親の手がかりもなく、子ども一人で生きていけるはずもない。アリカの手元に唯一残されていた通帳がなければ。
 アリカ名義の通帳に記された莫大な金額だけがアリカを生かしていた。
 飢餓感は湧いたことがない。家の中にいる限り、何日食べずにいても平気であった。子供の感覚で、一日が何日にも感じられていたのかもしれない。けれどアリカは今でもずっとそう信じている。
 家の中にさえいれば、私はずっと守られているのだ、と。
 たとえ家中のガラスを割って怪我をしても。階段から転げ落ちて動けないほどの激痛に苛まれても。
 割れたガラスはいつの間にか直り、怪我も直ぐに治った。酷くても一日動けなくなる程度で、次の日には体が痛みを忘れたかのように動けた。
 けれど、そんな不思議な家に守られていても。
 実際に触れて護ってくれる人も、一緒に遊んで冒険心を満たしてくれる友人もいない閉じた世界に何の楽しみがあるだろう。ただ小さく膝を抱えて、どうすればいいのか考えていた。時が過ぎるのだけを待っていた。
 そうして、待って、待って、待ち続けて。外からの光が現れた。家が招き入れた、初めての客だった。
 教育委員会から派遣されてきたという小学校の校長が、アリカが初めて会った人間だった。腕を掴まれて知らぬ建物に連れて行かれ、そこでまた見知らぬ大人に渡された。彼が、アリカが通うことになる小学校の担任だと、その時のアリカには何も分かっていなかった。
 初めて見る外の世界は新鮮で、何もかもがカラフルで、沢山の大人がいて、沢山の子どもがいた。
 舞い上がった。
 こんな世界があるんだと初めて知った。
 あの家には帰らなくてもいいのかしらと驚き、帰りたくないと願った。今日からここが私の家。
 小さな心臓を弾ませ、他人に話しかけられたことで、自分が言葉を知っていることにも気が付いた。薄い本を開くとスラスラと読むことが出来て驚いた。ただ、計算や歴史は苦手だった。初めて見る記号に眩暈がして、教科書を投げると怒られた。
 怒られたことすら初めてだったアリカは驚いて、教科書を投げると叩かれることも知った。窓ガラスを割ったら痛かった。こちらはもっと怒られた。痛かったことに驚いた。家の中にいたら、ガラスが割れても痛くなかったのに。
 それでも毎日が楽しくて、これをやったらどんな言葉が貰えるのか、あれをやったらどんな反応を返して貰えるのか、実験のように様々なことを試し続けた。
 アリカは幸福だった。間違いなく。
 ある日突然、変化が訪れた。
 階段から突き落とされた。階段を転がり、折り返し地点の柵に頭をぶつけて真っ暗になった。
 誰も近寄ってこなくなった。
 視線は感じるのに、名前を呼ばれている気がするのに、誰も近寄ってこない。こちらから近寄ると逃げられた。
 算数で納得がいかなくて、先生に質問しようと追いかけたら、呼んだのに止まってくれなかった。授業中に発言すると、授業が終わって分からなかったら質問しなさいと怒られた。
 いくら考えても理由が分からない。教科書を投げてない。ガラスも割ってない。近道しようと窓から飛び降りようともしていない。原因が分からなくて、不満が溜まって、それでもそれが一ヶ月も経つ頃には理解していた。
 理由は――髪の色と瞳である。
 アリカの周囲には黒い人しかいなかった。灰色に近い銀色である子どもは異質だったのだろう。子どもたちの物珍しさは既に去り、残ったのは異質なものに対する排除だった。
 まず初めに親たちが見咎めた。口さがない大人たちに広がった。子どもたちが敏感に嗅ぎ取り、アリカは敬遠され始めた。それが暴力に繋がるのは案外遅かった。
 自分の髪と瞳がいけないのならどうしようもない。いくら髪を切っても同じ色しか伸びてこない。墨汁をかければ更に嫌がられる。洗えば直ぐに取れてしまうのだから面倒だ。瞳に至ってはどうしたらいいかも分からない。さすがに絵の具で色を付けるわけにもいかない。筆がくすぐったそうだ。
 だから、仕方ない。
 そうしてアリカは全てを享受した。一瞬でも受け入れられた時間があったのだから、それを忘れずにいれば耐えられると思った。
 学校を休むことはない。幾ら迫害を受けても、どれほど酷い言葉を投げつけられても、誰もいない家に独りでいることに比べたら耐えられる。それに、沢山の知識を身につける必要があった。だから休むことは考えない。
 たとえ自分に向けられることがなくても、誰かの笑顔を見ているだけで心が安らぐというのもまた、哀しい事実なのだけれど。
 アリカはそっと瞳を閉じた。
 段々に人通りが増えていく通学路を歩きながら、向けられる視線を敏感に感じ取る。悪意でもなく敵意でもない。ただ無関心という関心を向けられる。
 大丈夫。いつかきっと、誰かが。
 増えていく人々に安堵を覚えながら高まっていく別の感情に、アリカは胸元に手を引き寄せて拳を作った。
 睨み付けるのは正面玄関。
 殊更ゆっくり進んでいくと、遠くからでもアリカに気付いた生徒たちが慌てて散っていく。無表情を装ってアリカは玄関に入った。意図した訳ではないが占領する羽目になった下駄箱に手を伸ばし、刹那に慌てて手を引っ込めた。
 手の甲に鋭く走った熱いもの。
 見ると、人差し指の先から根元にかけてザックリと皮膚が切れていた。見る間に赤い筋の山が盛り上がる。痛みよりも驚きに顔をしかめ、アリカは下駄箱を見た。今度は反対の手で慎重に上履きを取り出す。こちらは怪我を負うこともなく無事に取り出せた。
 右手はまだ鼓動ごとに痛みを訴え血を流したが、どうせ直ぐに止まるだろうと楽観する。保健室に行っても嫌な顔をされるだけで手当ては何もされないのだ。追い出されるのが関の山。自然治癒力に任せるのみだ。
 左手で上履きを取り上げたアリカは、その重さに首を傾げた。普通の上履きにしては重い気がした。まさかとは思ったが逡巡し、アリカは上履きを裏返しにすると軽く振った。激しく揺らずとも音がして、幼稚な刃物がボロボロ零れる。まるで子どもの手口である。
 中学を卒業し、あと数週間で高校生なのだ。
 アリカは呆れて冷笑を洩らした。零れた刃物の中にはカッターや剃刀なんて物まであり、先ほど指を切ったのはそのどれかだろうと推測する。小さな針が気付かず血管に入ったなんてことになったら洒落にならないので、慎重に確認してから履いた。痛みはない。そのことに安堵して肩を竦めたアリカは、視界の端に影を見た気がして眉を寄せた。しかも見間違いでなければ、今日最も関わり合いになりたくないなと思っていたグループの女子だった気がする。
 一瞬、このまま知らないふりをして教室に行ってしまおうかとも思ったが追いかけた。このような幼稚な仕掛けに対しては何も追及したくなかったが、別件で言いたいことがあった。
 銀の双眸を翳らせて、アリカは屋上へ続く階段に足を向けた。