第一章

【三】

 巨大な学校の敷地は東京ドーム一つ分ありそうだ。
 一学年のクラスが20を超えるその学校は、登下校の時間になると昇降口は真っ黒に埋め尽くされる。学年ごとに玄関を分けてもまだ足りない。
 一学年は東棟校舎に。二学年と三学年は北棟校舎に。その北棟校舎の屋上で、卒業を間近に控える少女が一人、昇降口に消える人ごみを眺めていた。そろそろ予鈴が鳴る時間であるが、少女が時計を気にする様子はない。
 澄み渡る空に煙草の煙が細く消える。
 少女が身を乗り出すと寄りかかっているフェンスがギシリと軋んだ。支柱の一部が壊れかかっており、亀裂が見えている。あと少しの負荷を与えれば崩壊しそうに脆いのか。
 少女は鼻で笑い、構わずフェンスに背を預けた。大きくたわむがまだ崩れない。空を仰げば憎らしいほどの晴天だ。大きく息を吐き出すと、煙草の煙が眼の先で上がっていった。
 校舎へ消えていく人ごみの中、周囲と明らかに雰囲気を異にしていたアリカを思い出す。
「花砂《かずな》」
 高い声に呼ばれて視線を下げる、立ち入り禁止と看板が掲げられた屋上の扉が開いていた。鍵はいつしか壊され、その扉は公然の開かず扉となっていた。教師たちも把握している事実だが、彼らは誰もが見ないふりをする。屋上は、いわゆる不良生徒の溜まり場となっているからだ。
 そんな扉を潜り、階段を駆け上がってきたと思われる小柄な少女が息を弾ませていた。他の仲間たちと同じように、いつの間にか側にいた少女、朱蘭《しゅらん》。彼女も自分も同じく世間ではみ出し者である。
 彼女に視線を移した花砂は瞳を細めた。息を乱す朱蘭の瞳には怯えが宿っている。
「……本当にやったのか」
「当たり前よ!」
 呆れた花砂の声を掻き消す大音声で、朱蘭は叫んでいた。
 肩で大きく息をして、悔しそうに唇を噛み締めて。
「だって、あいつがあのこと喋ったら……」
 花砂は朱蘭が何を言いたいのか分かっていた。それでも大した興味を示すことなく、短くなった煙草を唇に挟みながら息を吸い込む。幼稚じみた虐め行為に走るのは矜持が許さない。それに、朱蘭の言う『彼女』が誰かに告げるとは思えない。
「びびってんじゃねぇよ」
 吸っていた煙草をフッ、とそのまま屋上から吐き捨てた。赤い光はクルクルと残光を映しながら落ちていく。
 朱蘭の背後にはアリカの姿が見えた。追ってきたのだろう。
 太陽の光を浴びて透き通る、銀色の髪。
「取引なら直にしようぜ」
 寄りかかっていたフェンスから背を離すと丁度予鈴が鳴り響く。サボることになったが構わない。今更この三人が姿を見せないからと言って、捜しに来るような者は一人もいない。
「私に話したいことがあるのでしょう?」
 朱蘭が驚いたように振り返った。
 背後のアリカに気付き、こちらへ駆け寄ってくるのを一瞥する。再びアリカに視線を戻すと、日本人離れしてハッキリとした顔立ちが、少々強張っている。
「貴方たち二人だけ? てっきり昨日の人たち全員いるのかと思ったんだけど」
 アリカの視線が周囲を確認する。つられたのか、花砂の隣で朱蘭も首を巡らせていた。ここには他に隠れる場所もなくて見晴らしも良く、三人以外の姿はない。
「他の奴らなら休みだ」
 花砂は「ふん」と冷笑した。
 どいつもこいつも度胸のない。踏み出して恐れる一歩なら最初から踏み出さなければいいものを。睨みつけられる視線だって慣れたものだ。
 花砂が適当に受け流していると、アリカは苛立ったように口を開いた。
「知ってる? 貴方たちが昨日川に放り投げた子供。死んだのよ。遺体が海近くで見つかったわ」
「へー、あのガキ死んだの」
 切り出された事実にだって驚かない。笑ってみせた。この世界に関心を引くものなんて、もう存在しない。それに、朱蘭が先に教えてきたのだ。今朝早くにニュースで知ったらしい。携帯から聞こえた声は焦燥し、アリカが喋ったらどうしよう、とそればかりを繰り返していた。
 泣いていた子ども。うるさかったから放り投げただけだ。そちらに川があるのは投げてから気が付いた。流れが早い川の中、突き出た子どもの手は直ぐに沈んで見えなくなった。
 何の感慨も湧かない。人を殺すことはこんなに簡単なのか。呆気なくも思える。
 新たな煙草を取り出し火をつけようとした時、アリカに頬を叩かれた。いつの間に傍に来ていたのだろう。衝撃に煙草を取り落としてしまう。
「どうして貴方は!」
 怒りに燃える銀の双眸が花砂の瞳を射抜いた。
 花砂は知らず見惚れ、直ぐに冷笑する。銀瞳の奥に宿るのは、純粋に子供に対する哀れみばかりではない。
 アリカを引き剥がそうと、朱蘭が手を振り上げたのが見えた。それを手で制して嘲笑する。
「あの子には、帰る家も、家族もあったのに!」
 叫んだアリカを冷たく見据える。
「他人に自分の夢を重ねるのは哀れだな」
 言い捨てるとアリカの肩が揺れた。彼女が動揺するのを楽しく思いながら、花砂は更に追い詰める。
 ――壊れればいい。何もかも。
「欲しいのはお前だろう? 持ってるガキを本当は憎んでいたくせに。それを悟られない為にお前は」
「そんなの」
「いちいち腹が立つんだよお前は!」
 怯えるように一歩退いたアリカの胸倉を掴み、花砂はフェンスに叩き付けた。
 アリカは顔を上げようともせず、ただ悔しそうに奥歯を噛み締めて視線を逸らしている。そんなアリカに腹が立った。彼女は全てを享受し、諦めに変えようとする。
「お前の存在が、全てに、腹が立つ!」
 無抵抗だったアリカを力いっぱい蹴ると、フェンスが今まで以上に大きく歪んだ。元々亀裂が入っていた支柱に、更なる亀裂が走る。
「朱蘭」
「え?」
 息を詰めて成り行きを見守っていた朱蘭に話しかけると、目の前でアリカの体が傾いた。
「アリカは」
 その言葉と共に、負荷に耐え切れなかったコンクリートが砕け、支えを失ったフェンスはアリカという重みを乗せたまま校庭へと倒れた。けれどそちらに床はない。
 手を伸ばすことも、悲鳴を上げることもしないまま、アリカは屋上から落下した。
「事故死だ」
 ポツリと呟き、花砂は笑い出した。自分でも何の笑いか分からない。それでも笑いは止まらない。
「花砂……」
 震える声で朱蘭が呼んだ。


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 体が浮いたと思ったのも一瞬で、直ぐに重力のまま落下を始めた。風の唸り声を耳にしながら、アリカは逆さまになった校庭を見やる。
 このままあのコンクリートに勢い良く叩きつけられて死んでしまうのだろう。
 時間の感覚を常人と大幅にずらせたままそう思った。
 死ぬというのに何の感慨も湧いてこない。悲鳴も、恐怖も、喉の奥で張り付くこともなく出そうとも思わず、その代わりに胸を占めたのは喜び。
 そう、これで終わるのだ。すべて。
 誰もいないあの家に戻ることも、誰もいないあの家で誰かを待ち続けることも、もう終わる。それを思えば心はいっそ安らかだ。
 思い、笑顔すら浮かべてアリカは瞳を閉じようとした。
 ――琴線に触れた微かな違和感。
 終わる? と、歓喜した意思とは別のところで疑問が上がった。ここで終わってもいいのだろうか、と。先ほどまでの歓喜を疑問に思う。
 何を馬鹿な、と反論した。
 ここで終わらなければどこで終わるというのだろう。この世界に私のするべきことは何もない。だから、終わってもいい。
 押さえつけるように断言したけれど、疑問は更に湧き上がる。チリチリとした違和感が首をもたげる。幼い頃の記憶。彼方に沈んでいた誰かの面影が蘇る。思い出せというように波紋を広げて何かを訴えてくる。
 『約束が違う』と。
 突然心の中を乱される錯覚に陥り、アリカは双眸を瞠った。初めて覚える反発だった。
 誰との約束だろう。私に話しかける者は誰もいなかったというのに。
 けれど心の奥底に、確かに誰かの面影がある。いつも夢の中でしか会えず、目覚めたら思い出すことも許されていなかった面影。顔を思い出せない誰かの笑顔。それを確かに見たのだという事実が蘇った。
 今は傍にいない誰か。私をずっと護っていてくれた誰か。
 喜びと同時に深く絶望も蘇った。
 『忘れなさい』と脳裏に響く。それはきっと、あの人が最後にかけた暗示。夢で満足に邂逅することも出来ないあの人が、私を護る為にかけた最後の魔法。
 夜毎かけられていたそれが、唐突に蘇った。
 忘れなさいと響く声を、アリカは初めて打ち消した。そうしなければずっと護られているけれど、あの人を思い出すことも出来ないから。この向こう側には、あの人がいる。それなら、この護りを失ってでも、手に入れたいと。
 自分の意志で、かけられていた暗示を打ち消した。そうして広がったのは、誰かの悲しそうな笑顔と言葉。最後に、背を向け、視界を灼き尽くすかのような翼を広げて願った彼女の言葉。
 『忘れなさい』の向こう側にあった言葉は『生きなさい』という確かな言葉。
 アリカは顔を上げた。
 終われない、と思う。私に笑顔をくれた貴方の願いなら、私はまだ生きなければいけない。
 自分のためというより、他の誰かのために。それでも生きる意志を持って。
 時が止まったような感覚のなかで誓ったアリカは振り仰いだ。その先に扉が見えた。思わず瞳を凝らして確かめる。
 大きな両開きの扉だ。アリカに見つめられ、陽炎のように揺らいだ扉は閉じられた隙間から光を零す。その扉の前に誰かの姿が浮かんだ。アリカと同じ銀髪を持ち、真剣な表情で見下ろしてくる誰か。ゆっくりと輪郭を現した彼女は、銀色の髪をなびかせて瞬きを一つした。
 アリカに暗示をかけた人物ではない。アリカの双子と呼んでも通じるほどに瓜二つの容貌をしている。
「生きたい?」
 アリカの落下は止まっていた。落下ばかりではなく、時間そのものが止まっている。
 扉の向こうに透ける雲の流れも、吹き抜ける風も。色さえ失ったように静けさを漂わせていた。校舎を振り返れば朝自習が始まったところのようだ。誰もがプリントに顔を向けているが、その手は止まっている。さらに視線を上げて屋上を見ると、花砂と朱蘭がいた。壊れたフェンスの向こう側に佇んでいる。彼女たちもまた、動かない。
 アリカと同じ容貌を持つ、幻のように透ける彼女の口からは、やはりアリカと同じ声が囁かれた。まるで自分が喋っているかのように奇妙な感覚だ。アリカは胸の奥をざわめかせる。
 強く湧き上がるのは『生きたい』という想い。それが『あの人』の望みだから。ずっと昔に消えてしまった、誰かの。
「貴方が」
 瞳を伏せた少女はアリカに手を伸ばした。距離があるにも関わらず腕を掴まれた。思わず腕を見るアリカだが、その腕を辿っていくと彼女の位置は最初の場所から動いていない。
「生きる意志を持つのなら、トゥルカーナは門を開けることができる」
 アリカと同じ姿を持った彼女は微笑んだ。鏡の中ですら見ることのなかった笑顔だ。
 アリカはその言葉よりも自分に向けられた笑顔が嬉しくて腕を伸ばした。もっと近くで見たい。しかし、その先は夢の中と同じだった。伸ばした腕が届く前に少女の輪郭は薄れていく。違うのは、背後に控えていた扉がゆっくりと開き、光が溢れたことくらい。
「行かないで!」
 叫び声も、少女の笑顔も、光の奔流に飲まれて消えていく。
 触れていた温かな手の熱が失われていくことすら、薄れいく意識の中で感じていた。
 また消えてしまうの。
 翻弄されながら嘆き、アリカの意識は闇に閉ざされた。