第一章

【四】

 夢と同じだ。最初に聞こえたのは歌声だった。
 緩やかに玲瓏と紡がれる、とても澄んだ歌声。歌で紡ぐ魔法の言葉。
 アリカは覚醒を促された。
 視界に入るのは深淵の闇。視覚を奪われて恐怖が湧いたが、奥歯を噛み締めて発狂に耐えた。ここには確かな足場があるから、まだ大丈夫。死ぬことはない、と強く言い聞かせる。歌声に励まされながら拳を握った。
(ここはどこ……?)
 首を巡らせたが何も見出せず、アリカは胸に手を当ててみた。伝わる確かな鼓動に僅かだが安らぎを感じる。
 自分は既に死んでいて、ここは死後の世界なのかもしれないな、と自嘲気味に考える。今までのことは都合のいい夢だったのかもしれない。
(せっかく、繋ぐ約束を見出せたと思ったのに。初めて生きたいと願ったのに)
 アリカは唇を固く引き結んで恐怖に表情を強張らせた。大丈夫だ、と何度言い聞かせても、気休めにもならない気がした。自分の手すらも見出せない闇の中で涙を拭う。
(いつもの夢だったら、あの人が出てきても良いはずなのにな)
 自分の意識がはっきりとあるこの夢のなかでなら会えるかもしれない。
 そう思った時、闇の中に声が響いた。
「彼が目覚めたわ」
 生気に満ちた力強い声が響いた。死後の世界、もしくは夢かもしれないと思っていた思考を打ち破る。どこか遠くから聞こえる歌声とはまったく違う声だ。
 直ぐ近くから聞こえてきたように思えて首を巡らせたが、闇の中には誰の姿も見出せない。ただ歌声が響くばかりだ。
「アリカ」
 姿も見せない声に名前を呼ばれて緊張した。
「トゥルカーナへ。そして、貴方が救いなさい。それが、彼をあの星へ落とした貴方の責任」
「なに……?」
「時間がないわ。彼女たちが導いてくれる」
 声は滑らかに紡がれるが、自分の意志とはまったく別の場所で決められていくそれにアリカは戸惑った。困惑して闇を見渡したが、やはり何の変化もなかった。
「誰?」
「それは重要なことではない。いま重要なのは、アリカ。貴方がトゥルカーナへ行かなければいけないということだけ」
 自分の意志をまったく無視するその言葉に、アリカは少なからず腹を立てた。これでは外へ連れ出されたときと同じだ。
 アリカは少し冷静さを取り戻しながら顔をしかめ、声を張り上げた。どこにいるとも知れない誰かに話しかける。
「どこにも行かないわ。私は決めたの、生きるって。そして待っているのよ、あの家で。母との約束を守りながら」
 あの家だけが唯一の糸なのだ。
 誰に言われたわけでもなく、確証もないが、アリカは確信していた。
 暗示は既に解かれている。最後に見た母親の姿は、綺麗な翼を広げて、まるで絵本に出てくる天使のようだった。その翼で、手の届かない天空へ舞い上がった。
 そのときの絶望まで思い出しながらアリカは断言した。母、という言葉を紡ぐには酷く力が要る。緊張で声が震えたかもしれない。だが言い切ったときには胸の内に自信が溢れていた。
 きっと迎えに来てくれる。生きなさいと願ってくれたのは、嫌われていないことの証。今は事情があって来られないだけよ。必ず迎えに来てくれる。
 アリカは祈るように瞳を閉じた。
「だから、貴方が言うトゥルカーナへは行けないわ」
 いつまでも、私はあの家で待っているから。
 見上げたアリカの瞳には希望が宿っていた。そんな光を鬱陶しく思ったのか、闇から再び響いた声は明らかに疎んじる響きを含んでいた。アリカの淡い希望を無残に打ち砕く、冷徹な声で。
「いくら待とうと迎えなど来ない」
 どこか苛立ちを含む声だった。
「そなたは忌み子」
 言い聞かせるようにゆっくりと。声はアリカの胸に染みていく。
「異属と交わり生まれた禁忌の子ども。お前が持つ銀の色は、その証」
 声はさらにゆっくりと告げた。
「禁を犯したものは、死罪」
 アリカの表情がゆっくりと翳った。拳を握り締める。意味の分からない単語が脳裏を巡り、生まれた希望を打ち砕く声に苛立ちが湧く。何度も何度も叩き落された絶望の中に、答えが見えたような気がした。
 ああ、だから誰もが私を忌むのか。
 アリカは見開かせていた瞳を少しだけ歪ませると周囲を睨みつけた。自然に湧いた言葉は自己防衛のためなのか直ぐに隠された。それでも漠然とした怒りと恐怖は胸に残り、アリカはやり場のない哀しみに呼吸を乱す。
 姿も見せない貴方なんて信用できない。
 そう強く思ったのは、あるいは虚勢だったのかもしれない。
「貴方、誰……?」
「その問いに答える必要はない」
 落とすだけ落として、あとは知らないと言い切る言葉に怒りを閃かせた。
「私が聞いてるのよ!」
 顔を上げて怒鳴りつけたアリカは双眸を瞠った。衝動のまま怒りを吐き出した途端、何かが体中を走った気がした。膨張したそれは止められず、言葉と共に外へ放たれた。
 何が起こったのか良く分からぬままアリカは瞳を瞠らせる。
 アリカを中心として光が放たれた。それは理解できたが、次の瞬間、体を襲った耐え難い脱力感に、アリカはその場に崩れ落ちた。訳の分からない現象に震えながら自分を抱き締める。
「なに……?」
「光が、受け継がれたか」
 闇に響いた声は僅かながら安堵を滲ませたようだった。
「その光であれば」
 座り込んでいたアリカは眉を寄せた。頭の中に何かが働きかけた。
「……っ?」
 耳鳴りがして頭痛がした。脳裏に響いた雑音に頭を抱え、かぶりを振って払おうとしたが圧力は続いた。
「なによ……!」
 なに一つ自由にならないことに悔しさを浮かべ、アリカは意識が闇に沈むのを感じた。
 まだ目覚めたばかりの幼子は自分の能力を把握することもなく、ただいいように使われる。無理に引き出された力は体を支配し、アリカはそのまま意識を失った。
「逃げられないわ、アリカ。私も、貴方も。罪の代価を支払わなければいけない」
 闇の中でアリカと対話していた声は女性らしく和らいだ。淡々と哀しみを含みながらアリカに語りかける。
 倒れたアリカの直ぐ側の闇が歪んだ。
 円を描くように生まれた光を飲み込んで回りだす闇は徐々に光に浸食され、女性のドレスらしき裾を形作り、一瞬にして、その場には緩やかに波打つ長髪を持つ女性が現れた。実体ではないことを示すように彼女の姿は透けている。
 膝を折るとアリカに手を伸ばし、銀色の髪に触れた。瞳を細めて撫でる手は優しい。
「貴方はカディッシュ=リーゼ=アルマの娘。罪を犯した光星王の血を引く者なのだから」
 意識がないアリカに語りかける声は、まるで言い含めるようなものだった。
 彼女が一つ瞬きをした次に、魔法を紡いでいた歌声が止んだ。闇に光が現れ、同じようにして別の女性が現れた。
 新たに現れた女性はアリカと瓜二つの容貌をしていた。屋上から蹴り落とされたアリカに生死を突きつけ、この場所に引き込んだ女性だ。アリカに見せた笑みを払拭させ、その表情はいま悲しみに沈んでいる。アリカの側に立ち、静かに見下ろしている。
「アリカ、なのね」
「連れて行って。アリカを」
 緩やかに深い緑色をした髪の女性は、新たに現れた少女を見つめて託した。
 託された少女は静かに頷く。
「私も願ってみたい。彼が救われることを。私の未来を、アリカが歩くことを」
 女性は立ち上がり、アリカと瓜二つの容貌をした彼女を抱き締めた。幻影が熱を宿すことはないのだが、とても優しい抱擁だった。
「初めての出逢いがこんな形でごめんなさいね。私にも貴方にも、もう時間がないのよ」
「分かっています。あとはトゥルカーナの住民たちが、アリカを導いてくれる」
 二人で同じ想いをアリカに託す。
 勝手に決められ、他人に都合の良いように使われて、託された方はたまったものではない。けれど意識がなければ反抗もできず、二人の言葉を聞くこともできない。
 アリカと瓜二つの容貌をした少女は、両手を胸の前で組ませると、祈るように瞳を閉じて願った。
 自己防衛の本能で意識を失ったアリカは少女の願いを受けて光に包まれた。そして姿は直ぐに消える。消えた空間には再び闇が満ちる。
 アリカを見送った少女は振り返って寂しげに笑った。そこにはもう、抱き締めてくれた女性の姿はない。
 視線をアリカが消えた場所に戻して半眼を伏せる。
「カディッシュ=リーゼ=アルマの娘……」
 その先に何を思うのか、少女は自分の姿を見下ろした。
 再び視線を上げて、闇の中に佇んだ。