第一章

【五】

 少し湿気を含む土を頬に感じた。独特の土臭さも感じ、けれどそれ以上に鼻を刺したのは強烈な腐臭だった。アリカは頭痛と寒気に覚醒を促され、虚ろに瞳を開かせる。ゆっくりと持ち上げられた瞼は震え、広がった視界に現実が映し出された。うつ伏せに倒れたまま、それらを理解するのに数秒掛かった。
「……え?」
 アリカは体を起こしたが、状況が飲み込めなくて呟いた。耳鳴りを引き起こす酷い頭痛は既に消えている。代わりに残ったのは頭の奥で警鐘を告げる鈍い痛み。ここにいてはいけないと騒ぐ何かが頭の奥で暴れている。
 起き上がりざま、制服についた泥に眉を寄せて擦ったが、汚れを広げただけだった。完全に綺麗にするにはクリーニングにでも出すしかないだろう。
 アリカは軽く溜息をついたがそれほど頓着することなく、意識を周囲に戻した。
 周囲を見回して混乱する。
 現在アリカがいるのは薄暗い森の中だった。そのことにも驚いたが身を包む寒さにも驚いた。長袖を着て、その上から冬用の制服を着ているが、滲み込むような冷気は直接肌を刺すようだ。信じられないほど寒い。
 暗い木々に取り囲まれて、色のない茂みの向こう側に何かの気配を感じる。けれど獣たちの声は欠片も聞こえない。周囲一体、見知らぬ化け物に取り囲まれているような気がした。
 アリカは立ち上がってそちらを見たけれど誰の姿もない。しばらく逡巡し、意を決して茂みを掻き分けたが何もない。気配は動いて周囲に散々する。霧のように形のないものが、悪意を放って取り囲んでいる――そんな気がした。自分の一挙一動すら見張られている気がして体が竦む。生き物の気配が感じられないというのは、獣の遠吠えに体を竦ませるよりも怖いのだと初めて知った。
 アリカは戸惑いながら恐怖を湧かせようとしたが、それに囚われてしまったら一歩も動けなくなる。意識した訳ではないがそう感じ、同時に沸々と湧き上がってくる怒りに身を委ねた。恐怖は怒りで塗り潰す。
「誰かいるのでしょう、出てきなさい!」
 歌声は既に聞こえなかった。
 五感で感じる全ての物が揃っている現状であるが、歌声が響いていた暗闇に比べると痛烈な悪意が突き刺さってくるようだった。アリカを取り込み、我が物にしようとする腕がゆっくりと広げられていく――アリカは唇を引き結んだ。
 吐く息は白い。冷たい空気は肌を刺す。アリカの怒声は虚しく木々に吸い込まれ、返事はどこからも聞こえてこない。
 誰かが近くにいないのだろうかと視線を巡らせたが、入ってくるのは大木ばかりだ。樹齢何十年も経っているであろう木々だが、それらは歴史を感じさせなかった。アリカは近所にある公園の、植樹された樹を思い浮かべて首を傾げた。目の前の樹は人工の樹よりも存在感が薄い。
 今のアリカが感じ取れるのは冷たさばかりである。
 しばらくその場で立ち尽くしていたアリカだが、怒りに任せて歩き出した。
 こんな所に置き去りにして何を考えているのだろう。本人は姿も見せないなんて卑怯じゃないか。
 辺りを窺いながらの足取りは乱暴だ。誰かいたなら見逃さずに駆け寄り、怒鳴りつけてやる、と唇を真一文字に引き結びながら鋭く周囲を窺う。
(人が、初めてしたとも言える決意を強引に捻じ曲げ、あげく訳の分からないこんな所に放り投げて。幾らなんでも酷いと思う。これ以上誰かの思い通りになってたまるもんですか)
 そんな決意を秘めて歩き続けていたアリカだが、行けども行けども変化のない景色と、幾ら叫んでも反応のない周囲に、怒りが徐々に萎んでいった。同時に湧き上がるのは訝りだ。乱暴な足取りはやがて窺うように慎重な物へと変化していった。更に、その訝りが不安に変わるにはさほど時間を要しなかった。
「誰もいない、の?」
 不気味なほど静まり返った周囲にアリカの声が響いた。闇は肯定するように濃くなり、冷気は哂うように足元を攫う。背中を伝う冷たい汗に、アリカは自分の腕を抱いた。
 そんな馬鹿な、と否定する。誰もいないわけがない。私をここに運んだ人間くらいはいるはずだ。そうでなければ、どうやってここに来たというのだろう。それとも、そんなに長い時間、あの場所で倒れていたというのか。
 アリカの歩みはいつの間にか止まっていた。
 捜すことに疲れ、少し休もうかと手近な木に腕を伸ばした瞬間だ。グズリという、なんとも形容し難い音を出し、生理的に叫び出したくなるような嫌な感触を与え、木の中に手がめり込んだ。
 アリカは息を呑んで手を引き抜いた。
 たった今アリカが触れた部分は黒く染まり、へこんでいた。存在感を欠片も感じさせない木々。なぜそんなに脆いのかと凝視し、それらが腐っているからなのだと理解した。
 他の木々を見たが、やはりどこか陰惨としていて気分が悪くなる。押し込めていた恐怖が、もう堪えきれないというようにジワリと心に広がった。
 アリカは幹を辿って見上げてみる。
 折れかかった枝が腕を伸ばして近くの木々と絡み合っている。手を繋ぐのではなく、他の木々の栄養を奪うように、伸ばされた枝は他の枝に巻きついていた。その枝は更に伸び、本体を絞め殺すように他の幹へ回っている。
 健康的な木の色ではなく、どす黒く染まったそれらに、アリカは悲鳴を必死で堪えて視線を外した。見つかったら今にもこの木々が動き出して襲いかかってくるような気がした。舌なめずりをして腕を伸ばし、易々と掲げるのだ。新たな獲物が来たよ、と他の木々に知らせるように。
 アリカは耳を塞いでその場にしゃがみこんだ。
『待っていても迎えは来ない』
 唐突に言葉が蘇った。
 アリカは瞳を瞠り、次には更に力を込めて瞳を閉じた。耳を塞いでできる限り小さくなる。必死でかぶりを振る。否応なく湧いてくる言葉を振り払おうとした。
(違う。それは得体の知れないあの声が勝手に言ってるだけ。お母さんはきっと迎えに来てくれる。あの家に帰り、私がちゃんと待っていてさえすれば、絶対に戻って来てくれる。私は嫌われて捨てられたんじゃない。生きろと、願われたんだから)
 希望を繋げる唯一の言葉。
 幼い記憶に刻み込まれた光の翼は、アリカの道を照らすには充分な明かりも甦らせた。
(死罪なんて、絶対に嘘。あの人が死ぬなんて、そんなこと――絶対にないよ)
 誰よりも、何よりも強かったあの人。
 親が最強ではないのだと、子どもはいつ知るのだろうか。記憶を甦らせたばかりのアリカには分からない。
 恐れるように吐息を一つ洩らしてアリカは瞳を開いた。
 動こうとする気持ちはなくなってしまった。顔を上げれば生気を欠いた木々が目に入り、これ以上心を沈ませたくなくて視線を逸らす。黒く染まる空の色も見たくない。
(これからどうしよう……)
 アリカはようやく先に目を向け、そう思った。
 どうにかして人に会わなければいけない。その為にはこの森を出て、街に行かなければいけない。ここはどこなのか聞いて、どうすれば家に帰れるのか聞いて、そして。
 そこまで考えた時、背後から泥を踏む音が聞こえた。
 アリカは瞳を瞠る。やはり誰かいるのだと喜んで振り返った。
 けれど。
 視界を横切った影はアリカに飛び掛かった。爪が首を掠り、アリカは息を呑む。間近で相対し、視線を合わせた『彼』は、赤い髪をして大きな角を生やしていた。『ニィ』と笑んで爪を振り上げる。先ほどアリカの首を微かに裂いた、尖った爪だ。
(殺される)
 直感的にアリカは悟った。裂かれた首の痛みを感じている暇もない。ただ、死ぬかもしれないと思うのと同じ強さで、死ぬわけにはいかないと衝動が湧いた。
 銀色の双眸が微かに煌く。
 アリカは鋭く彼を睨みつけた。今しも爪を振り下ろそうとしていた彼は、アリカと視線が絡んだ途端に動きを止め、笑みも消してアリカを凝視した。まるで怯んだように首を仰け反らせる。
 銀の双眸と、深紅の双眸。
 瞳だけ見ていれば、彼が人外の容貌をしていることなど気にならなかった。
 絡んだ視線を外さず有無を言わせぬ強い口調で唇を開いた。
「消えなさい」
 言葉が勝手に紡がれる。その間際、耳の奥に歌声が響いた気がした。もしかしたら闇の中で紡がれていた歌による魔法が、まだ消えずにアリカを助けたのかもしれない。
 しかしアリカはそんなことも忘れるほど衝撃的な情景を目の当たりにする。
 言葉が力として紡がれた瞬間、アリカに害を為そうとしていた彼は目を見開き、消えた。消滅する間際、泣きそうに歪んだ顔がアリカの脳裏に刻み込まれ、強い罪悪感が生まれてしまう。彼は赤い姿を欠片も残さず灰となった。
 それが、彼の望みと対極であることは考えずとも分かった。
 彼の生存欲を否定して潰し、自らの生存欲を肯定して希望を貫いた。
 アリカは絡んだ視線をそのまま動かさずに絶句し、一呼吸置いてから恐る恐る視線を下げた。地面を見ても、辺りを見回しても、彼が彼であった残骸は残っていない。自分が何をしたのか理解出来ず、アリカは自分の存在すら否定しようとした。世界が揺れて崩れ出す。そんな気配を感じたが止めようとはしない。
(だって、誰かが消えるくらいなら、私が消えてた方が、絶対に良かった――)
 自分が誰かを消すなど、出来やしないとは分かっていたが、タイミングや条件が否定する材料を奪っていた。
(ここは、異常だ)
 体が傾いてそのまま倒れようとしたアリカは硬直した。背後から伸びてきた誰かの腕が、アリカをつかんだのだ。先ほどまで押さえ込まれていた恐怖は爆発的に増大し、アリカを縛って混乱させる。喉を競りあがった悲鳴を、もう抑えることは出来ずに口を開く。無我夢中で腕を振り回し、駆け出してしまおうとした。
 けれどアリカは止められた。
「逃げないで」
 予想に反して聞こえた声は女性の物だった。それに縋るような響きが含まれているような気がしてアリカは振り返る。
 振り返った瞬間、眩い光輝が瞳を晦ませたような気がしてアリカは瞳を細めた。しかし次にはそんな光も消えていて、目の前にいたのは女性。芽吹いたばかりの新緑みたいな髪色をして、それを緩く後頭部で纏め上げている。視線の高さはアリカと寸分違わぬ位置だ。年の頃は同じであろう。
 アリカの腕をつかんだ彼女は真摯な瞳でアリカを見つめていた。
「いま貴方が逃げてしまったら、この星はどうなってしまうの?」
 鈴を震わせるように澄んだ声。先ほど襲いかかってきた赤い者とは本質から違うような感覚に陥り、アリカは見極めるように黙って彼女を見つめた。けれど思考がついていかない。あまりの異常現象や恐怖に、正常な思考はどこかへ飛んで行ってしまったようだ。
「お願い、逃げないで」
 アリカが何の反応もしないと知ると、彼女は焦れたようにもう一度願った。つかむ手の力が僅かばかり強まった。
「私たちには貴方が必要なのよ、アリカ」
 名前を呼ばれて顎を引く。どこかで会っただろうかと思ったが否定する。このような女性、今まで見たこともない。
 そして『必要』との言葉に訝った。
 これまで邪魔扱いされた覚えはあるが、そのようなことを言われたのは初めてだった。自分の耳がどうかしてしまったのではないかと思いもし、何から考えるべきなのか、今何が起きているのか、理解できなくて泣きたいような衝動が込み上げてきた。目の前にいる彼女を知らないことに、強い罪悪感が湧いてくる。
「ここから離れましょう。この森はもう、危険なのよ」
 アリカからさほどの反応を引き出せないと悟ると、女性は一つため息を落としてアリカから腕を放した。辺りを窺う眼差しは剣呑で緊迫しているようだが、なぜ彼女が追い詰められているのかは分からない。
 アリカは彼女が両手首を装飾している大きな宝石に惹かれて視線を向けた。
 手の平で包めてしまうような大きさの宝石。青紫の筋が幾つも珠の中を巡り、色は絶えず煌きを宿している。大きな力の渦が外に放たれないよう、そうして力を消化しているように思えた。
 不思議な青紫の宝飾品はアリカの顔を映して、一瞬だけ反射の光を弾いた。
 その光を見ただけで恐怖は拭われ、不意に、突然現れたこの女性を信用してもいいのではないかという思いが湧きあがってきた。
 顔を上げたアリカは息を呑んだ。周囲を窺っていた彼女は当初と変わらぬ視線をアリカに落とし、観察するように眺めていた。しかしアリカを驚かせたのはそれではなく、彼女の背後に現れた歪みだった。
 辺りに立ち込める『瘴気』とでも呼べるような、禍々しき闇。その一部が揺れて影を創り出し、女性の背後に赤い闇を産み落とした。先ほどアリカに襲いかかってきた者と瓜二つの者だ。
 アリカの表情に異変を悟った彼女は素早く振り返り、今しも害そうと爪を振り上げていた背後の赤黒き闇に両手を翳した。頭を庇う為ではない。彼女の双眸は真っ直ぐに向けられる。両手首を飾っていた宝石が強く深い光を放ちかけたが、現れた赤い闇はそれを許さず爪を振り下ろした。危うく額を裂かれかけた女性は横に跳んでそれを避け、舌打ちする。
 獲物を逃した赤い闇は視線を女性に向けたが、彼女よりも間近なアリカに視線を向け直す。虚無を宿した瞳を向けられて、アリカは縛られたように何も考えられなくなった。足が地面に縫い止められて動けない。人の形を模した彼が笑みを浮かべるのをおぞましいと思う。戦慄したが、見ているしか出来ない。
 アリカが助かったのは、女性が彼の意識を逸らしたからだった。
 ただ空に伸びている腐った木に縋り、彼女は枝を折るとそれを彼に投げつける。腐った枝はそれほど威力がなさそうだが、彼に触れた瞬間、鋭い光を放って弾け飛んだ。その光を浴びた途端、彼は地面に打ち伏して唸り声を上げ、口から泡を吐いて素早く飛び上がった。爛々と怒りに輝く赤い瞳が女性を捉えた。
「貴方の相手は私よ、外道!」
 およそ似つかわしくない罵声を飛ばし、彼女は慄くことなく彼を睨む。彼が標的を自分にしっかりと定めたことを確信するとアリカを振り返り、怒鳴りつけた。
「私が引き付けるから、この森から出なさい。いいわね!?」
 アリカが返答する間もなかった。彼女は走り去り、闇の中から姿を現した彼もまた、彼女を追いかけて去っていく。
 アリカは一人でその場に取り残された。
(あの人は……やっぱり、消えたんじゃなくて、どこかに潜んでいただけだったの……?)
 その場に座り込みながら、アリカは闇から現れた彼のことを考えた。赤い角を生やし、獰猛な野生の光を瞳に宿し、人の言葉を解さない何か。彼を『人』に分類するのは適当ではない気がしたが、他に分類する言葉を持っていない。
(そうよ。私が誰かを消したりなんて、出来るわけない)
 そう思って少しだけ安心した。
 一つため息をついて軽く笑い、二人が走り去った方向を見やる。そちらは静かな闇が漂うばかりで、人の気配はもうない。
 彼女は誰だったのだろうかという当然の疑問が湧き、同時に彼女が身につけていた宝飾も思い出した。不思議な色に揺れ、妙に惹き付けられる物。
「出なさいって、言われたって……」
 アリカは途方に暮れて周囲を見回した。どちらに向かえば良いのかも分からない。独りきりでこの森を歩くのはもう嫌だった。
「帰りたい……」
 そんな言葉が口をついた。
 良い思い出など殆どない自宅であったが、今はそこが唯一安らげる象徴に思えた。あの場所に帰りたいと強く思った。
 この場所は家から遠く離れた場所。それだけが本能として体に染み込み、警鐘を告げるのだ。ここにいてはいけない、帰るべきだ、と。
 アリカはその本能に逆らわず、自分もまた頷いた。
 ――どんなことをしてもあの家に帰らなければいけない。
 再び静寂が支配する森の中で、アリカは瞳を固く閉じて強く願った。