第一章

【六】

 女性と異形の輩が去ってからしばらく経っても、アリカはその場から動かなかった。
(もう嫌だ。帰りたい。これ以上ここにいたくない!)
 そんな負の言葉ばかりが脳裏を駆け、命がけで闇を引き受けた女性の言葉など思い出しもしなかった。
 静まり返った死の森は、望めば幾らでも闇を引き寄せてくれる。その代償は決して安い物ではない。闇が揺れてアリカを包み、周囲に立ち込める霧は一層の濃さを増す。
 アリカは気付かずに瞳を閉じていた。
(ほら。こうやって瞳を閉じてしまえば、あの家と同じ)
 静寂に支配されたまま、抱えた膝に顔を埋めた。
 このまま眠ろうかと思った。
 周囲の闇が鋭い殺意を膨らませるがアリカは気付かない。目が覚めればいつものように寝台で目覚め、学校へ行く日々が始まるのだと信じて疑わない。
 真摯に願うと地面が消え、まるで宙に浮いているかのような感覚に陥った。
(このまま眠ろう。誰もいない場所に行こう)
 意識が誘導されていることに気付かぬままアリカは立ち上がった。銀の双眸が冷たい光を宿している。地面を見下ろし、軽く爪先を鳴らせる。その場所から腐敗が始まり、アリカの体はわずかに沈んだ。漂う周囲の気配に触発されたかのようにアリカの気配も濁っていく。
 そのときだ。
「誰だ!?」
 鋭い声にアリカは我に返った。双眸を瞠って顔を上げる。混濁していた意識は目覚め、声の主を捜して視線が往復する。木々の間に垣間見えた人影を捉えて銀の双眸は更に大きく瞠られた。
 本当に人間?
 そんな言葉が脳裏に浮かび、アリカは自嘲した。
 怖がることなどない。私だって、異形の者の仲間なんだから。
 その場に立ち尽くして空を見上げ、背中を伸ばした。距離のある場所からアリカを警戒していた人物が戸惑ったように首を傾げる。意を決したように近づいてくる。しかしアリカにはどうでもいいことだ。ここで死ぬかもしれないと思ったが、それならそれで良かった。非常に投げやりな気持ちを抱えながら待つ。
 近づいてきた人物に再び視線を注ぐ。
 短く切られた亜麻色の髪に痩せた体。着ている服には太陽を模した図柄があり、褪せた色でも秘められた強さを感じさせた。
 アリカは軽く瞬きをした。
(私と同い年くらいの……男?)
 襲撃者と同じ気配は欠片も感じなかった。強いて言えば先ほどの女性と同じ、優しい気配を感じる。こちらを警戒して近づく様子も、人間らしいと思えば思えた。
 表情まではっきりと確認できる位置まで近づくと、現れた人物は驚いたように一度歩みを止めた。しかしアリカが動かないと知ると再び歩き出した。止まる前よりも早く、何かに焦るように走って来る。
 アリカがそのまま佇んでいると、目の前まで来て足を止めた。一瞬、確かに期待するような色が浮かんでいたと思ったのだが、それは瞬く間に消えたように思えた。
 アリカは何度か瞳を瞬かせて彼を眺めた。
「あ……この森に、まだ、生き残りがいるとは思わなかった」
 しっかりと人語を話し、何かを捜すように視線は周囲を彷徨う。もしかしたら、先ほどの女性こそを捜していたのかもしれない。
 アリカは黙って見つめ続けた。
「俺はティー=ジュナン。お前、は?」
 不思議な亜麻色の瞳だ。胸の奥で微かな違和感が首をもたげたのだが、それが何かは分からない。
「おいで。ここはもう駄目だ」
 彼は確認するようにアリカを眺めた後に手を伸ばした。ジュナンは気付かなかったようだが、彼の手が伸ばされた途端、アリカは硬直した。伸ばされた手はアリカの肌を掠めることなく、案内するためだけに振られたようだった。
 ついてくるように促して背中を見せるジュナンにアリカは安堵の息を洩らす。
 ――この人は私を傷つけないだろうか。
 声も出せずに背中を見送っていると、ずいぶん先まで歩いたジュナンが振り返って絶句した。
「おい。なにやってるんだ?」
 アリカが元の位置を動いてないと知り、少し戻ってきた。
 一方アリカは呼ばれたのだが足が進まない。心臓が口から飛び出しそうな感覚に見舞われながらもそのまま留まっていると、視線の先でジュナンが震えた。吐息が白い。気温が下がっているのだ。そう理解した途端、足に絡む冷気が一段と強さを増した気がしてアリカは後退した。
「ここは危険なんだ。分かるよな? 分かるならついて来い。まだ死にたくはないだろう?」
 ジュナンは呼びかけ、しばらくアリカを見つめていた。アリカも同じくその瞳をただ見返すだけ。だが何も返すことはしない。やがてジュナンはそのまま背中を向ける。まるで諦めたようにも思える仕草だ。
 ――行かないで。
 それならば追いかければいいのに、アリカは動けなかった。
 ――置いて行かないで。
 ジュナンの姿が再び遠ざかる。木々に隠れて姿が消える。
 去る背中をアリカは見つめ続け、そして不意に、その背中が誰かの背中と重なった気がして双眸を瞠った。
 “アリカ”
 優しい笑顔が甦った気がした。背中に白い翼を抱き、手が届かない高みへと舞い上がり、全てを背負って消えた、かの人。
 アリカは駆け出していた。白い息が流れて行く。足元を闇が覆う。冷気を増した空気に耳鳴りがし、その耳鳴りが誰かの悲鳴にも聞こえた。そんな全てを振り切るようにアリカはひたすら追いかけた。背中を見失わないように瞳を凝らし、足元になんて構っていられず、夢中で手を伸ばして唇を引き結ぶ。泣きたいほど脆くなっていると自覚する。
 ジュナンに追いつき、声も出せずに両手を膝につき、荒い呼吸を繰り返す。視界に映るジュナンの足はどこにも消えない。その場に留まっていてくれる。
 顔を上げるとジュナンは安堵したように微笑んでいた。その笑顔に胸を衝かれる。アリカは悲鳴のように訴えた。
「私の名前はアリカ」
「アリカ、ね」
 勢い込んでの言葉だったが、即座に返されて面食らった。こんな反応を返されたことがない。何を言っても何も返さず、名前も呼ばずに呼びつけられたり、端に追いやられたり。
 ジュナンに対する警戒心が急速に取り除かれた。
 アリカは湧き上がる感情のまま笑みを浮かべ、言葉もなく頷いた。
「貴方のことは? なんて呼べばいいの?」
「ジュナンと」
「ジュナン」
 反応があってもう一度驚く。嬉しさに泣きたい気持ちになった。
 ジュナンは明るい笑顔を見せる。
「じゃあアリカ。早くこの森から出よう。もう直ぐここは、本当に死の森となる」
 告げられたアリカは瞳を瞬かせた。やはりあの木々は枯れ果てていたのかと、確認するように辺りを眺めた。
 行けども行けども果てなどないように昏い森の中。葉が生い茂る代わりに黒ずんだ枝が頭上を覆い、他者から生気を奪おうと息を潜めている。体で感じる悪意に怯え、アリカは空を見上げることなどできなかった。
「どうして皆、死んでしまったの?」
 この寒さに耐え切れなかったのだろうか。それでも、あの腐敗の仕方は異様だ。まるで甘い砂糖菓子に漬け込み、そのままグズグズになるまで放置して腐らせたかのようだ。
 再び歩き出したジュナンはアリカの問いに低い声で吐き捨てた。
「支配がここまで迫ったってことだろ」
「王様の支配……?」
 支配、という言葉から連想されるものはそれしかなかった。けれど王とも呼ばれる者がこのような真似をするだろうかと首を傾げた瞬間、アリカは悲鳴を上げた。鋭く伸びたジュナンの腕が、アリカの腕を掴んでいた。先ほどまでの優しい気配はどこへ行ったのか。裏切られたかのように強く尖った力だ。
「サイキ女王が望まれるわけないだろう……? お前は――あいつの、仲間か……?」
 亜麻色の瞳には危険な光が宿っていた。
 ジュナンを包む空気が一変している。
 アリカは自分がとんでもないことを言ったのだと悟って青褪めた。殺意は育ち、激しい憎悪を向けられる。先ほどまで優しかったジュナンにこのような殺意が潜んでいたことに驚いた。向けられた敵意が恐ろしい。振り払おうとして動きを止める。
「おい?」
 不意にジュナンが狼狽した。慌てたようにアリカの腕を放す。
「悪かった。乱暴にするつもりはなかったんだ。放すから、だから泣くなって」
 言われて初めて、アリカは自分が泣いていることに気付いた。
「違う……これは」
 ――貴方があまりにも深い絶望を背負っていたから。諦めてしまっていたから。
 擦ると目尻が赤くなった。瞳が熱くなって、更に哀しくなる。
「アリカは、どこから来たんだ?」
 労わりを帯びた声音に変わったことがおかしくて、アリカは小さく微笑んだ。彼は日本にいた人々と違うと強く念じる。
「どこからと言われても……ここはどこなの?」
「ここはユピテルの森だけど……お前、そんなことも知らずに歩いてたのか?」
 アリカの脳裏に“ユピテル”という言葉が渦巻いた。聞いたことのない森だ。そもそも、日本にそのような名前の森があっただろうか。呆れたように見つめてくるジュナンの瞳を見つめ返す。彼は少し圧されたように顎を引いた。
「私、そんな森なんて、知らない。どこの場所? ううん。ここは、どこの国なの? 私は日本から来たの」
 ジュナンは呆れから一転、訝るように眼差しを細めた。何を考えているのかは分からない。けれどこれまでの彼の言動や、アリカを襲ってきた化け物の存在から、この地域が非常に危うい状態にあるのだと理解できていた。戦争なのかもしれないと考えを巡らせる。しかし日本に戦争はない。それではここは、日本ではないどこかだ。
 どこなのだろう、と考えたが、その端から言葉が通じる不思議にも首を傾げた。日本語以外の言語を、アリカは知らない。だが今まで出会った人たちは、誰もが日本人とは思えない容貌だった。
 かなりの沈黙が流れる。互いに互いを探っているような感覚に陥ったとき、アリカの脳裏に不意に言葉が閃いた。
「トゥルカーナを、救う?」
「え?」
 ジュナンが瞳を瞬かせた。アリカは視線を森に移す。
 闇の中から聞こえた声は、確かに“トゥルカーナを救え”と言っていたような気がする。確かに、とても人が住めないようなこの環境に対して、『救う』といった言葉は当てはまる気がする。
「ここは、トゥルカーナ?」
 視線を上げてジュナンを見る。指先が冷たくなっていた。無意識にさすりながら問いかけると、ジュナンは真剣な眼差しで見下ろしていた。数秒の沈黙のあと、彼は頷く。
「ああ。確かにここは、トゥルカーナだ」
 アリカの胸に確信が染み渡っていく。
 唐突過ぎて現実感がないけれど、確かにトゥルカーナという場所は存在していた。そして、このように腐敗して死に絶えようとしている森も広がっている。この場所を救うとは何を意味しているのだろうか。もしかしてあの声は、森の手入れをして甦らせろと言っているのだろうか。
 アリカは馬鹿馬鹿しくなって肩をすくめた。
 そんな一連のアリカの動作を観察していたジュナンは表情を変えてアリカの両肩をつかんだ。その力にアリカは硬直する。恐る恐るジュナンを見上げた。そこにあったのは先ほどの恐ろしい顔ではなく、気遣いを忘れない優しい瞳だ。しかし、真剣な表情だ。
「アリカ。お前は自分の星に帰るんだ」
「帰る?」
 “星”という言葉よりも“帰る”という言葉が胸に響いた。
「この森を見ても分かるだろう? ここは危険な場所になってしまった。俺は俺の目の前で誰かが死んでいくのを見るのは嫌だし、アリカだって死にたくないはずだ。俺はここを離れることなどできないが、アリカは違う。アリカなら、トゥルカーナの扉は開くかもしれない」
 両肩をつかんで真摯に覗き込んでくるジュナンの瞳に囚われた。
 確かに先ほどまでは帰りたいと思っていた。その気持ちに嘘はない。しかし、いざその言葉が出てくると反発を覚える自分がいた。命を危険にさらす真似をしたいわけではない。それでは約束を反故することになってしまう。かと言って、救えと命じられた言葉に従う真似もしたくない。川に流された子ども1人も助けられなかったのに、それ以上の何かを救えと言われてもできるはずがない。それでも、安全を約束されている家に戻ることが嫌だった。出会ったこのジュナンという人間から離れるのが嫌なのだ。笑顔をくれた人の傍にいることができる、唯一の機会なのかもしれないのに。
 それに――とアリカは瞳を翳らせた。
 帰る家はあるけれど、待つ人はいない。母親が迎えに来てくれると信じていた場所だけが、無人のままアリカを待っている。
 アリカは暗闇で聞こえてきた声を思い出していた。
 “迎えなど来ない”と、希望を残酷に打ち砕いた声。信じるわけではないけれど、確かに、いつまで待てば迎えに来るという保証はない。それは例えば極端な話、アリカの寿命が尽きた後なのかもしれないのだ。
 “救え”との言葉に従うわけではないが、そう言われた以上、救う術はあるはずだ。それは自分にできることかもしれない。それを放棄してまで戻ることは躊躇われる。
「――嫌」
「アリカ?」
 アリカは俯いて軽くかぶりを振る。

 ――不気味な子ども。
 ――いつからあの家にいたのかしら。
 ――自分の親が誰かも分からないなんて。

 囁かれる悪意はえてして当人に聞こえているものだ。特に大人たちの呟きに子どもたちば敏感だ。時には声に出さずとも、雰囲気だけで仮面の下を暴き知る。そのようなことで傷付くほど自分は弱くないと、今まで必死に矜持を保ってきたけれど。
「もう、嫌だ」
 アリカはかぶりを振った。ジュナンの腕をつかむと確かな存在を感じる。手の平から伝わる体温はとても暖かい。溢れ出した涙は宙に舞う。
「危険だから帰れと言うのなら……危険じゃなくすればいい」
 顔を上げたアリカは、ジュナンが瞳を瞠る様子を見た。
「私も手伝うから。私はまだ、戻らない」
 もしかしたら、とアリカは望みをかける。
 “トゥルカーナを救う”ということ。それを果たせば、もしかしたら“罪”というそれが、“トゥルカーナを救う”ことで消えるならば――母親に会えることができるかもしれない。信じるわけではない。けれど、もしかしたら――。
 伸ばした腕の先にはきっと、温かな光が灯っている。