第二章

【二】

 ルエが統治するカリュケの森は、彼から離れるに従い枯れ模様を広げ始めた。ルエの存在そのものが萌える命を保たせているのだろうか。
 アリカは振り返りながらそう思い、寒々しく広がる荒野を見つめた。
「生き残ったコルヴィノって誰なんだ?」
 アリカを眺めていたジュナンは思い出したように問いかけた。
 パルティアはアリカと手を繋いでいる。カリュケの森を出てからずっとだ。まるで、放したらアリカが消えてしまうとでも言うように。幼い顔に浮かぶ表情は張り詰めていた。
 痛みを含んで大人びた表情をする彼女は、少女の姿に似つかわしくなく、アリカは内心で首を傾げるのだ。それでも繋ぐ手は暖かく、力強い。それが現状に対する恐怖から来ているものだとすれば、それはパルティアを年相応に思わせた。
 アリカの視線を感じたのかパルティアは少しだけため息を吐き出してジュナンを見る。
「サラ=ディンだけど」
「サラが生きてるのかっ?」
 ジュナンが嬉しげに叫ぶ。そのまま飛んでいきそうだ。
 パルティアは呆れ、アリカも驚いてジュナンを見た。
「ディン、その名で呼んだら怒るわよ」
「いいじゃねぇか。サラは俺のこと、いまだに“ティナ”って呼ぶんだぜ?」
 ティー=ジュナンにサラ=ディン。
 アリカの脳裏に“五十歩百歩”という言葉が浮かんだ。
「ねぇ、聞いてもいいかな。トゥルカーナを滅ぼそうとしている“あいつ”って、結局は誰のことなの?」
 ルエの前ではなぜか聞けなかったことだ。ジュナンとパルティアの会話を縫い、ためらいながらアリカは訊ねた。
 その瞬間、二人の表情が曇る。沈黙が下りるとアリカは怯み、慌てて質問をなかったことにしようとしたが、その前に回答は返された。重たい口を開いたのはジュナンだった。
「実を言うと俺らも良くは知らないんだ。どこからか突然現われて、トゥルカーナに闇と混乱を持ち込んだことくらいしか」
 アリカは眉を寄せた。
「あいつがトゥルカーナに現れたのは歴史上これが初めてよ。でも、あいつはこれまでにも裏で暗躍していたの。私たちに気付かれないように力を溜め込んでいたのよ。女王が封じていたのに、なぜ……」
 パルティアの言葉は途中から独白に変わった。何かを思い出すかのような口調にアリカは瞳を瞬かせ、彼女の横顔を見る。ジュナンも不思議そうにパルティアを見た。
 パルティアは縋りつくようにアリカの手を握り締める。
「パルティア?」
「救ってね。トゥルカーナを」
 寄せられたのは全幅の信頼。向けられるのは純粋で哀しい瞳。
 アリカは安心させるように微笑んで頷こうとした。しかしパルティアは顔を背けてしまう。そんな行動に彼女も驚いたのか、パルティアは繕うように笑顔でアリカを振り仰ぐ。
「私も負けないからね!」
 可愛らしい声で訴える。
 アリカは違和感に戸惑ったが、彼女が笑うなら気付かない方がいいのかもしれないと思い、笑顔を返した。パルティアは安心したように息をつく。これで良かったのだとアリカは本当の意味で微笑んだ。
 そうして一転。1分もしないうちにパルティアの表情が険しいものに変わった。
 目まぐるしく変わる彼女の表情にアリカは戸惑うばかりだ。しかしパルティアは、今度は繕うことなく振り返る。少しだけ遅れて歩くジュナンを見つめた。ジュナンはパルティアに気付くと肩を竦めてみせた。そうして肩越しに後ろを振り返る。
 二人のやり取りの意味が分からなかったアリカは、ジュナンがしたように今まで歩いてきた方向へ視線を向けたが、何の変化も見られなかった。
「ここはそろそろイオとの境目か?」
「そう。森が枯れてこーんなに見晴らし良いからね」
 自棄のようにパルティアが笑った。苛立つように辺りを窺う。
「手が届かない遠くへ行ける? ティー=ジュナン」
「ああ。可能だ」
「じゃあお願いね」
 突然の提案にジュナンは驚いたようだが、パルティアの真剣な眼差しに顎を引いて頷いた。アリカ一人だけ意味が分からぬまま、その会話は成立したらしい。
「ルエの結界を出てからずっとついて来てたってことかな」
 パルティアが足を止める。
 ジュナンは「多分な」と頷き、戸惑うアリカに近づく。そしてアリカを横抱きにした。
「え。ちょっと?」
 驚愕するアリカに構わず、ジュナンは落とさぬようしっかりと抱えた。
 アリカの瞳に、暗澹たる空を遮る純白の光が映った。
 空気を孕む羽音と共に、ジュナンの背中に出現したそれは、大きく広がる翼。何の前触れもなくそれは唐突に出現した。
「私がやるから。自分で自分を護れるってこと、証明してあげる」
 アリカは息を呑んでジュナンの翼を凝視したが、パルティアはさして驚くこともなく明るく笑った。トゥルカーナで生きる者には珍しくないのかもしれない。
 自信に満ちた彼女の笑顔が遠ざかったが、アリカは気付かない。ジュナンの翼に目を奪われたままだった。
「翼……」
 アリカが呆然と呟くと、ジュナンはくすぐったそうに笑って頷く。
「珍しいだろう? トゥルカーナでももう、俺とあと一人しか残ってない有翼種なんだ」
 トゥルカーナでも滅多にお目にかかれないということか。
 アリカは抱えられたまま、翼に手を伸ばした。毛先は少し固くてツルツルとしていた。根元に指を伸ばすと、まるで泡の中に手を入れたようにフワフワとしていた。
 ――脳裏に甦る過去の映像。目の前で翼を広げた誰かの背中。
 アリカは瞳を細めた。
「翼って言っても、肉裂いて出てくるわけじゃないよ。魔法に近い物質なんだ、これ」
 ジュナンに聞けばあの人の情報が得られるだろうか。
 そう思っていたアリカは意味が分からないように瞳を丸くさせた。
「魔法?」
「そう。空気中に飛散してる聖気を集めて凝らせて、翼に変換してるんだ。触ったらちゃんと羽みたいだろ?」
 アリカは再び翼に手を伸ばす。本物の羽と変わらない手触りだ。だが指先に微かな違和感を感じた気がした。聞いた後に感じた違和感だったのでアテにはならないけれど。
 そしてふと、いつの間にか空高く舞い上がっていたことに、ようやく気付いた。
「待って。パルティアは? どうしてこんな上空に」
 風が強く、アリカの髪は勢いよく煽られる。顔にかかるそれをうるさく振り払って下を見ると、パルティアの影は遥か下方に小さくあった。
「アリカ。俺らがいま来た道を振り返ってみて。見えるだろう?」
 言われるがまま振り返るが何も見えない。吹き付ける風が目を乾燥させ、髪が邪魔で視界を遮られる。髪を手に抱えてもう一度視線を向け、瞳を凝らしたアリカはドキリと胸を高鳴らせた。視界に小さく赤い光が過ぎった気がした。
 影は大きさを増し、光は人型へ変化する。
 腐敗した森で襲ってきた、赤い髪と角を持つ異形の者。その姿が脳裏に甦った。今回視界に入る影は一つではない。軍隊のように大層な数がパルティアに向かっていた。
「どうして?」
 顔すらはっきり確認できる距離に来て、アリカは絞り出すように呟いた。赤い影は、まるで大量生産されたクローンのように同じ容姿を持っていた。彼らは既にルエを越え、パルティア近くまで迫っている。
「あいつらはただの駒だ。感情も自我も持たない。殺戮とか破壊とか、そういった負的なものだけを行うように仕組まれてる。トゥルカーナを滅ぼすためにな」
 アリカは青褪めた。そのような者たちがパルティアに出会ったとしたら、導き出される答えは一つだ。背中を冷たいものが流れ落ちる。
「下ろして!」
「駄目だ。パルティアは――彼女自身が平気だと言ったんだ。任せよう」
「でもパルティアは!」
 アリカは叫んで言葉を切った。パルティアを見下ろす。彼女はまったく動かず、迫る赤光をただ見つめている。その背丈はアリカより二回りも小さい。小学生ほどしかない。
「パルティアは、まだあんなに子どもなのよ?」
 涙を滲ませるアリカにもジュナンは動じない。静かに返す。
「トゥルカーナでは子どもでも剣を取って戦うよ。アリカがいた世界は違うのか?」
「私の……世界では、戦いなんて起こったりしない、もの……」
 まったくない、と言えば嘘になる。しかし戦火はアリカの知らぬ場所で広がり、少なくともアリカ自身が剣を持って戦うようなことはない。
 アリカの言葉を笑いもせず、やはりジュナンは真摯に受け止める。口調が心なしか柔らかくなる。
「平和なところに生まれたんだな」
 羨むような口調でもあった。しかしそれは急に冷える。
「それなのに危険に飛び込んで、トゥルカーナを救おうと決めたんだ。それはなぜ?」
 アリカは言葉に詰まった。
 自分の世界が平和だから、この悲しみに満ちた世界も平和にしてやろう。
 それはなんて傲慢な想いだろう。そんなことを思って決めたわけではない。けれどジュナンに知らず示唆されて意味に気付く。問われたら何も返せない。ただの罪滅ぼしなのだと、告げれば失望されるだろう。
「ルエに、パルティアを護ってと……託されたわ」
 その場から飛び降りそうなアリカを、ジュナンは強く抱えなおした。アリカはパルティアを見下ろすだけで動けない。
 赤い闇はもう間近に迫っていた。パルティアを見つけた彼らは歓喜に湧く。
 ジュナン自身、パルティアを危険に晒す真似などしたくない。犠牲などもう沢山だ。けれど守られるばかりの存在は足手まといだ。パルティアが『できる』と断言するなら見極めたい。もしもパルティアの力が過信であれば、直ぐにも助けに行くつもりではいた。
 危険な賭けだった。
 抱えられたままのアリカは奥歯を噛んで拳を握る。
 ルエと約束したのに、と悔しい思いが湧きあがる。飛び降りることも叶わず、見守るしかない無力感。護らなきゃいけないのに、と湧く強い衝動すら、行動に移すこと叶わない。
 あの少女が死んでしまったら、何かが壊れてしまう気がした。


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 上空の会話はすべてパルティアに届いていた。真剣に想う言葉に頬を緩ませる。
「大丈夫。私はまだ死ねないから」
 小さく呟いて、パルティアは両手首のリストバンドに触れた。力を上手く操れないパルティアのために、とある人が贈った力の媒体だ。
 パルティアが顔を上げると赤い光が見えた。表情すら分かる位置に来ている。愉悦に歪み、鋭い牙を覗かせている。その光と表情が、思い出したくもない場景を甦らせて足が竦む。逃げ出したい思いが湧くが、それができないことも知っている。そして同時に、強い怒りを覚えた。
 まだ冷静でいられると思った。この怒りと恐怖が存在している限り、決して負けることはない。
 パルティアは両手を前に突き出した。瞳を閉ざして心を凝らす。短い髪を結う髪飾りが外れ、自動的にリストバンドへ装着される。途端に湧き出す力と体の変化を感じながら、片方だけを上手く流動させる。髪飾りが外れたことで頬に髪がかかる。すぅっと深呼吸した。
「闇に連なり穢れを運ぶ者たちよ。光の聖域たる星の怒りと嘆きを知るがいい」
 術者として未熟なため言葉で補わなければ力は発現しない。宝石を媒介として周囲の聖力を集結させる。発現後の力を脳裏で試算した直後、パルティアの体を鋭い光が包み込み、次の瞬間、それは爆発した。
 パルティアを基点とした爆発は光を周囲の大地に刻み込んだ。赤光もジュナンもアリカも、すべてが飲み込まれた。瞳を閉ざしたパルティアは周囲の様子を感じながら冷静に言葉を紡ぐ。
「闇には祝福を。光にはさらなる安らぎを」
 赤い光は白い光に打ち消される。悲鳴が咆哮のように響いた。大勢の声は甲高くなり、徐々に細くなって、やがてプッツリと途絶えた。闇の眷属が消滅した証拠だ。
 先ほどまで感じていた悪寒も消え、残る気配がないことを確認してからパルティアは安堵する。肩の力を抜いた。新たに現れようとする闇の気配はない。
 パルティアは瞳を開けた。
 ここから、私の一歩が始まるのだ。今度こそ失くさない。


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 パルティアが放った光はやがて薄れていった。鋭い光から顔を背けていたアリカは、ゆっくりと瞳を開く。暗闇からの復活に、瞳は多少の光も痛みに変えてしまう。アリカは眩しさに再び瞳を閉ざす。
 ふと、下降しているような感覚に落ちる。光に慣れてから瞳を開けると、ジュナンは予想通りゆっくりと下降しているようだ。地面が近づいていた。
 強かった風は穏やかに変化し、あれほど禍々しさを感じた光も消えている。遺体が残っていたら阿鼻叫喚の地獄絵図なのだろうが、その心配もないようだ。闇の者たちは光に焼かれ、形も残さず消滅した。
 パルティアが近づいてきた。
「言ったでしょう? 自分のことは自分で護れるって」
「ああ。あれだけやれれば充分だろう」
 挑戦的に話しかけてきたパルティアへ、ジュナンは笑って合格を告げた。パルティアは嬉しそうに「やった」と両手を打ち鳴らせる。地面に立ったアリカに抱きついて微笑んだ。
「アリカは私が護るからね!」
 純粋な笑顔を正面から受け止めることができなくて、アリカは曖昧に笑い返した。役立たずは自分だけなのだと思い知る。
「巫女の血を引いてるのか?」
 ジュナンが指したのはパルティアの髪留めだ。丸い宝石がパルティアの力の媒体なのだと理解しての言葉。だが本来パルティアが力を持っていなければ、先ほどのような力を発現することは不可能だ。
 パルティアは「そうかもね」と軽く笑って受け流した。
「そんな腕持ってるなら護られる必要もないだろうに。ルエはなんだってあんなこと言ったんだろうな」
「ルエは心配性なの」
「そうそれ! お前、本当はルエとどういう関係なんだ?」
「どうしよっかなー」
「教えろよ。あいつが狼狽したのなんて初めて見たぞ、俺は。他にも弱点はないのか?」
 ジュナンは真剣な表情で詰め寄った。それほどルエに苦労しているということなのだろうか。アリカは思わず笑ってしまう。パルティアは頬を引き攣らせながら後退し、素早く別の話題を探した。
「それよりも翼をしまって。視界を遮られて邪魔なのよ」
 感動もなく言い放つパルティアに、アリカは苦笑する。やはりトゥルカーナの住民には、ジュナンの翼は珍しくもないことなのだと思った。
 ジュナンはパルティアに合わせて少し曲げていた腰を伸ばし、「そうだな」と翼に視線を向けた。軽く翼を動かした直後、翼は一瞬で消えてしまう。
 てっきり背中にしまわれるのだと考えていたアリカは驚きジュナンの背中に回ってみたが、服は裂けてもいない。翼がなければ普通の人間とまったく変わらない。
 そんなアリカの行動を、二人は楽しそうに見やった。
「さ、行きましょう。いつまでもぐずぐずしてたら、またあいつらがやって来るわ」
 パルティアの声を合図に、三人は再び歩き出した。