第二章

【三】

 アリカたちはイオの森に到着した。そこは、アリカが今までトゥルカーナで見てきたどの森とも違う生命力に溢れていた。薄い光を取り込んで、一枚一枚の葉が燐光を放っている。ルエが宿る大樹に似た様子だ。トゥルカーナでは、命が宿っているものには光を放つ特徴があるのかもしれない、とアリカは思った。
 草花も命を秘め続けている。風が渡れば梢の大合唱をしてくれることだろう。
「着いたわ。ここがイオの森」
 パルティアが振り返り、どこか嬉しげに説明する。
 アリカは感嘆した。都会暮らしのため自然を目にする機会は滅多にない。初めて触れる神秘的な森に魅了される。
 唯一残念なのは生き物の気配が希薄なことだ。静まり返った森はどこか物悲しい。遠くをすがめ見ると薄暗い。暗闇の中から、見えない双眸がこちらを見つめている錯覚に陥る。大きな手が自分たちを手招いている。
 アリカは森の入口に佇んだまま、森に吸い込まれていく風を感じていた。どこか生温かい。恐れを抱かせる風だ。
「それで、サラはどこにいるんだ?」
「森の中心。ある程度まで行けばディンから道を開いてくれるはずだわ。問題は、目的地がないまま森を歩かないといけないことなんだけど」
 体を震わせたアリカと違い、ジュナンの声は明るい。パルティアも同じだ。二人は、アリカが覚えた不安など感じていないようだ。
 アリカは息を吸い込んでみる。胸いっぱいに広がる森の空気。瞳を閉じ、まるで森と同化するようなその行為を数度繰り返し、気持ちを改めた。
「それじゃあ、早く行こう」
 繕ったわけではなく、本心からの明るい声だ。アリカは入口で問答している二人を追い抜いた。
「アリカ!」
 切羽詰ったような声に、アリカは足を止める。大声を出したのはパルティアのようだ。彼女の驚愕する瞳に戸惑う。隣ではジュナンも不思議そうにパルティアを見ていた。何がまずかったのだろう、とアリカは森に踏み入れようとしていた足を戻す。
 パルティアは片手で顔を覆った。
「アリカはこの世界のこと、何も知らないのよね」
「え……?」
 アリカは戸惑ってジュナンを見るが、彼も分からないようで、肩をすくめられただけだった。戸惑っているとパルティアが近づいてくる。「いーい?」とアリカの眼前で人差し指を立てた。
「イオの森っていうのは、コルヴィノ族の遊び場なの。彼らが面白半分に作った結界や次元の亀裂が数え切れないほどあるのよ。もしその亀裂に触れてしまったら、どこに飛ばされるのか分からない。すっごく迷惑な森なの」
 アリカの中でコルヴィノ族の想像が幼く書き換えられた。そんなことには構わずパルティアは続ける。
「飛ばされるのはこの森の中に限られるけど、イオの森って結構広いし。しょっちゅう飛ばされてたら方向感覚なんて、ないようなものよね?」
「う、ん……」
 いまいち良く分かっていないアリカはあいまいに頷いた。
「それなのに1人で突っ走って亀裂に落ちたら、はぐれて即迷子。敵に見つかったら最悪。もうお終いよ?」
「避けることは、できないの?」
「次元の亀裂はコルヴィノ族にしか確認できないわ。それに、そんなはた迷惑な亀裂は常に移動してるの。鬼ごっこやかくれんぼには最適だとか言って、あいつら――って、今はそんなこと言ってる場合じゃないわね。とにかく、同じ場所を後ろの人がついて行ったからって、必ず同じ亀裂に入れるとは限らない。でもそんな迷惑なもののお陰で、コルヴィノ族は今まで生き延びて来れたんだけどね」
 掠めるように遠い目をしたパルティアに、アリカは胸が痛むのを感じた。彼女はコルヴィノ族が最後の独りになるまで一緒にいたのだろうか。
 沈黙が下りたのは数秒で、パルティアは再びアリカに向き直った。
「だから、絶対に1人で遠くへ行かないこと。分かった?」
 念を押されたアリカは頷いた。
 パルティアは安心したように肩から力を抜いて、笑顔を見せた。しっかりとアリカと手を繋ぎ直す。
 だが背後から聞こえた呑気な声に、その笑顔が引きつった。
「へぇ。そうなんだ」
 他でもないジュナンの声だ。
 パルティアはたたらを踏む。凄まじい勢いで振り返る。
「あなた、それでもトゥルカーナの住人っ?」
「巡回で上空から見回ったことはあるんだけど、中に入るのは初めてだ。そっか。イオの森には気をつけろって笑ってたのは、このことだったのか」
 頭を掻いて呟くジュナンは誰のことを思い出しているのか。乾いた笑いを零す。
 パルティアは呆れたようにため息をついた。妙に大人びた仕草でかぶりを振る。腰に手を当ててジュナンを見上げる。
「それじゃあ肝に銘じることね。半径1メートル以上は離れずに行動すること!」
「近っ」
「それくらい近くにいないと絶対に逸れるのよ。ディンたち、怒られても直ぐに逃げられるようにって、避難用と称して凄まじい数の力を浮遊させたんだもの!」
 パルティアは頬を膨らませて腕を組む。瞳には怒りがきらめいていた。いったいどんな場面でそんなことになったのか、アリカは小さく笑みを零す。
「とにかく、いいわね? アリカも。分かった?」
 再び強い視線を向けられて、アリカもジュナンも大人しく頷いた。相好を崩してパルティアも頷く。
「うん。それじゃあ入りましょう」
 三人の中では最もイオの森に慣れているパルティアが先頭だ。手を引かれながらアリカも足を踏み入れる。最後尾を務めるのはジュナンで、警戒心が増したように表情は険しい。誰もが先ほどの約束『半径一メートル以上は離れない』を守って進み始めた。
 風のざわめきが少しだけ獣の声に聞こえる。足を踏み入れた途端、外から見えていた光が掻き消された。次元が歪んでいるとの言葉通り、外からは隔離されているのだろう。とても不思議な気分だ。闇が強調され、まるで大勢の注目を浴びているかのような居心地の悪さも覚える。
 アリカは胸騒ぎを覚えてパルティアの手を握り返した。後ろを見るとジュナンがいる。周囲を窺いながら進んでいたジュナンは、不安そうなアリカに気付くと微笑んでくれた。その笑顔にアリカは安堵した。
 そのときだ。三人がいる場所から少し離れた茂みが大きな音を立てた。
 視線が一斉にそちらへ動く。
 音を立てた茂みは、まるで誰かがいるかのように揺れている。しかし人影は見当たらない。揺れは次第におさまり、気配も感じられなくなった。
 アリカは周囲を確認したが、誰の姿もない。早鐘を打つ心臓に手を当てる。アリカより異常事態に慣れているだろうジュナンも素早く周囲を窺っていたが、やはり誰の姿も捉えていないようだ。緊張した面持ちを崩さない。
「サラか?」
「いいえ。彼がこんな入口付近にいるわけがない」
 もしもサラならば話は簡単なのに。楽観的な問いかけは即答で否定された。
 では、最悪かもしれない敵が、近くにいるのだろうか。
 ジュナンの瞳が険しさを増した。
「でも、もしかしたらフラッシュって言ってた人たちの可能性も……」
 アリカが恐る恐る体を乗り出してみると、その可能性をまったく考慮していなかったらしいジュナンの表情が呆けたように緩んだ。
「ジュナン!」
 パルティアの制止も聞かず、ジュナンは一人で飛び出した。唐突な行動についていけずアリカは見送りかけたが、パルティアに手を引かれて後を追いかける。
「フラッシュ!」
 期待を込めた声が茂みをかき分けた。
「ザウェル!」
 けれど返答はない。茂みの向こう側はやや開けた広場だった。空からは光が零れてくる。
「誰もいない、のか?」
 弾んだ息を整える間もなくジュナンは呟いた。
 声は頼りなく、虚しく宙に溶けていく。ため息をついてかぶりを振る。
「そんな簡単にいくわけがないよな……」
 落胆しながらジュナンはアリカたちを振り返る。そして唖然と口を開いたまま固まった。直ぐ後ろを追いかけてきたはずのアリカたちの姿が、どこにもない。一瞬前までは呼ぶ声もあったというのに、今は耳を澄ませても聞こえない。
「……コルヴィノ族の結界」
 パルティアの言葉を思い出したジュナンは「やばい」と呟いたのだが既に遅い。
 ジュナンは二人とはぐれてしまった。


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 飛び出したジュナンを追いかけたアリカだが、茂みに到達する前にジュナンが消えたのを目撃した。まるで霧に霞んでいくかのように、姿が朧となって消えたのだ。
 凄いものを見てしまった、とアリカは呆然と足を止めた。
 苛立たしげなパルティアの声が響く。
「はぐれるなって、言ったばっかりなのに!」
 そしてアリカと繋ぐ手に力を入れる。その力の入れようは、まるで、放したらアリカとも逸れてしまうと言っているようだった。
 アリカは彼女の手をしっかりと握り返しながら背後を振り返って呟く。
「ねぇパルティア」
 繋いでくれる手の存在が嬉しくて、彼女を励ましたい。しかし現実はなかなか思い通りにいかないものだ。
「私たちって、森から入って直ぐの所にいなかった?」
 けれども森の入口はもう見えない。代わりに目の前にあったのは、古びた建物だ。神殿のような雰囲気の建物は、確かに先ほどまではなかったもの。振り返ったパルティアも息を呑む。
「飛ばされたのは私たちのようね」
 パルティアは怒りのまま進んだ。彼女に合わせてアリカも進み、建物に近づく。手が放されることはない。建物に気を取られるパルティアの代わりにアリカは周囲を確認する。
 建物はずいぶんと長らく放置されていたように荒れていた。雑草がはびこり柱に蔦が巻きついている。色は褪せて苔まで生していた。空から降る一条の光が神殿を包んでいる。見上げれば分厚い雲の切れ間からわずかに光が覗いている。閉じ込めきれなかった光が、まるでたまらず零れてきたようだ。
 時を止められたかのように佇む神殿。刻まれた模様は欠けて、古臭さに拍車をかけていた。
「ここは、私たちが入った場所から反対の場所にあたる部分ね」
「分かるの?」
「この神殿は、王家の者が昔に連絡用として使っていた転送装置だと、聞いたことがあるわ」
 アリカは躊躇ったが、パルティアは躊躇いなく神殿の階段を上がった。地上から一段上がっただけなのに不思議な気配を感じてアリカは顔を上げる。手を引かれるまま中に足を踏み入れる。
 扉を開けると、少し広い部屋が広がっていた。閑散としていて何もない。ただ、中央の床に大きな円陣が描かれているだけだ。
 星が描かれ、複雑な文字が刻まれた円陣。埃にまみれて輪郭はぼやけてしまっている。
 周囲を確認したパルティアはアリカと手を放し、円陣に近づいて屈みこんだ。解放されたアリカはパルティアの仕草を見守ってから周囲を見渡す。光源が何もない神殿の内部は虚ろさを感じさせ、あまり長居はしたくない場所だと思う。だが心惹かれるものがあるような気もして、首を傾げる。
「伝道する力が何もないもの。使えないわ」
 パルティアが床の埃を払うと、刻まれていた場所には鮮やかな赤が現れた。響いた声は物憂げで寂しそうだ。
 天井には光を取り入れるためのガラス窓。先ほど零れてきていた光は、もう満ちていない。転送装置としてしか利用されていなかったこの神殿には、他の部屋へ繋がる扉も見つからない。部屋はこの場所一つだけのようだ。
「ジュナンと再会するのは難しいわね。あちらも捜してくれているとは思うけど……ディンに会って、何とかしてもらうしかないわ」
 しばらく未練そうに円陣を見つめていたパルティアだが、肩を竦めて立ち上がった。使えないなら仕方がない、と両手の埃を叩き払う。
「えっと……サラ=ディン? その人に会えばジュナンを見つけてくれるの?」
「彼はコルヴィノだから」
 アリカは眉を寄せた。単語の意味が分からない。察するに日本人や中国人といった種類の言葉だとは思うが、それを意味するものが何か、分からないのだ。
 アリカの戸惑いに気付いたのかパルティアは瞳を丸くして「ああ」と納得したような声を上げた。
「コルヴィノはこの森の支配者なのよ。代々この森を守る役目を授けられた一族の総称なの。この森の範囲内で、彼らが知らないことはないわ。私たちが森に入ったことも知ってるはず。今頃は道を開こうとしているはずよ。ただ、ディンはまだ成人していないから、ちょっと時間がかかってしまうのよね」
 そういうものなのかとアリカは納得することにした。実際どうやって道を開くのか、知るとはどうやって知り得ているのか、聞きたいことは山ほどある。しかしそれがこの世界の常識なのだろうと思うと、聞いてもあまり意味がないような気がした。却って混乱を招く。その疑問は自分に余裕ができるまで脇に置いた方が無難だろう。
「これから私たちはどうすればいいの?」
「とりあえず、ディンが道を開きやすいように森の中央に行きましょう。それか――いえ、あれは王族にしか姿を見せないらしいから……うん、いいわ。今は森の中央だけを目指しましょう」
 何かを言いかけたパルティアだが、自己完結してアリカを仰いだ。アリカは深く追求しないことにしてただ頷く。再び森の中へ戻るということで、パルティアを手を繋ぎ直して神殿を出たときだ。
 アリカの視界を赤い闇が過ぎった。
「パルティア!」
 突進してくる影を見分け、アリカは反射的にパルティアを腕に抱え込んだ。パルティア自身は闇を見なかったようで、不思議そうな声で問いかけるが。
 刹那、アリカは腕に熱を感じた。
 うめいたアリカに何かを感じたのか、パルティアは慌てて引き剥がして息を呑んだ。アリカの右腕からおびただしい血が流れ出していた。
「アリカ!」
「大丈夫」
 パルティアの顔は色を失くして白い。声は悲鳴だったがアリカは微笑んだ。
 これくらい何ともない、と自分に強く言い聞かせる。日本にいた頃にも血なら何度も流してきた。痛みには慣れている。日本での攻撃に比べれば、これくらいの怪我は笑い飛ばせるはずだ。
 アリカの腕を切裂いた影は神殿の屋根に位置を変えていた。鋭い爪から血を滴らせて二人を見下ろしている。石畳に走った赤い痕跡を、満足そうに眺める。そして体を浮かせた。再び攻撃を仕掛けるつもりなのだ。
 気付いたパルティアは双眸を見開き、次いで勢い良く立ち上がる。アリカを背にして両手を突き出した。宝石が淡く煌き始める。けれど。
「駄目!」
 神殿の屋根から滑空してきた影を認め、アリカはパルティアを引っ張った。
「アリカ!?」
 森の外で一度見せた強大な力を揮おうとしていたパルティアは、体勢を崩してアリカに抱え込まれた。それから数秒も経たず、影がアリカに迫る。防御するしかないアリカの頭上を掠めて背中を抉る。今度は森の付近に降り立った。
「アリカ、放して!」
 濃厚な血の匂いにパルティアは怯えたが、アリカは放そうとしない。痛みに奥歯を食いしばってパルティアの体を強く抱きしめる。
「駄目。パルティアのその力って、発動までの時間が長すぎるわ。待っていたらあいつは確実に貴方を襲うもの」
 パルティアは舌打ちした。そのことでアリカは、弱点を言い当てたのだと理解する。そして、庇っていて良かったと安堵した。自分が囮になって時間を稼ぐのはどうだろうと考えたが、自分ではかなり頼りないだろうと却下する。たとえパルティアから離れて攻撃を仕掛けてみても、赤い影はアリカなど無視してパルティアを襲う。その場で最も危険なのが誰か、理解できないほど馬鹿な敵ではないはずだ。
「けど、このままじゃ!」
 焦燥してパルティアが叫ぶ。それはアリカも同じ気持ちだ。なんとか上手い方法はないものかと考えるが、その途中でアリカは再びうめいた。赤い影がさらに背中を抉ったのだ。何の抵抗もできない、と早速理解したのか、今度の攻撃には余裕があった。悠々とアリカの背中を深く傷つける。本当に何の抵抗もできないと認められたら、今度は嬲られるだろう。
 傷つけられた箇所が酷く痛みを訴えて熱を持ち始めた。それでもアリカはパルティアを放さない。頭の高くで結んでいた髪ゴムが切れて、銀色の髪がフワリと舞った。カーテンのようにパルティアを覆い、周囲の風景を奪ってしまう。これから見せることを憚るように。
「嫌だ」
 パルティアは震えた。
 アリカの髪を伝って、背中の血がパルティアの腕に流れてきた。
「パルティア。走れる? 森の中央まで行けば、サラ=ディンが助けてくれるんでしょう?」
 意図を汲んだのか、パルティアは激しく首を振った。
「アリカも一緒よ! じゃなきゃ私、走ったりしない!」
「……そうね」
 痛みで意識が遠のきそうだった。必死な瞳で縋るパルティアに微笑み、自分を叱咤して立ち上がる。
 視界の端では赤い影が様子を窺っていた。
 赤い角を生やし、赤い髪をし、頑健な肉体に鋭利な爪を持つ化け物。
 アリカが立ち上がると緊張した様子を見せたが、何もしないと知ると再び隙を窺ってくる。
「どっちに走るの?」
 パルティアはアリカの怪我を心配そうに窺ってから「あっち」と指し示した。
「分かった」
 アリカは頷く。瞬間、襲いかかってくる影を見た。逃げる気配を察したのだろうか。視界の端で彼が動いたことを確認していたアリカは、意識を朦朧とさせたまま振り返った。腹部に狙いを定める爪から体を逸らし、爪が脇腹を掠める直前に力を込めた。怪我人とは思えない反射力と運動神経でそれを裂け、影の腹を蹴り上げた。
 敵にとっては予想外の攻撃だ。影は呻いて遠くに転がり、腹を押さえてアリカを恨めしげに睨んだ。真っ赤に燃える瞳には怒りが宿る。
「行こう!」
 パルティアが走り出す。手を引かれ、アリカは視線の呪縛を断ち切ると走り出した。