第二章

【四】

 風を切りながら敵が迫っていた。王宮を混乱に落とし、鋭い爪で仲間たちを次々と赤く染めた化け物だ。彼らを何と呼ぶのか、パルティアはまだ知らない。
 神殿から離れて再び森の中へ入ったパルティアたちは、攻撃を避け、ときには傷を負いながら走り続けた。走る弾みに血は失われていくが、ここで倒れたりするよりまだマシだ。
 パルティアは焦燥しながら心の中で必死にサラ=ディンへ呼びかけた。コルヴィノ族である彼にはこの状況も分かっているはずだ。お願いだから早く、と止まりそうになる呼吸を激しく繰り返しながら必死で願う。
 側には満身創痍になったアリカがいた。走れることが疑問なほどの怪我だ。ふらつきながら、それでも何とか走っている。意識はあるのかないのか曖昧だ。銀の瞳は虚ろ。けれど襲い掛かる赤い影に気付いたときだけは、素早くパルティアを守ろうとする。その行動が遅れたことはなく、パルティアは今でも大怪我を負っていない。本来パルティアが受けるべき怪我はすべてアリカが引き受けている。ルエに『体を張って守るから』と宣言した通りに。
 鮮やかな真紅が視界をよぎる。目まぐるしい現実に、脇に寄せられていた記憶がパルティアの脳裏に甦る。
 守れなかった人。守りたかった人。
 アリカの足がもつれてアリカは倒れた。手を繋いでいたパルティアも引っ張られて尻餅をつく。
「アリカ?」
 呼びかけてもアリカは動かない。うつ伏せに倒れたままだ。もしかしたら、意識はもうないのかもしれない。
 パルティアは地面に広がる銀髪を呆然と見つめた。全身を朱に染めたアリカは、触れるのすら躊躇われる様相だった。本来は清廉な輝きを放つ銀の髪も、今は不吉な赤に染まって、地面に重く舞っている。
「アリカ……」
 洩れた声は力がないもの。アリカを覚醒させるには至らない。そのことが余計に恐怖を煽り、パルティアの心を絶望に染める。
 倒れたアリカに赤い化け物が歓喜した。
 ――獲物は倒れた。あとは奪うだけだ!
 雄叫びを上げながら赤い闇は大地を蹴った。力強く速度を上げてアリカに爪を伸ばす。あと一歩で白い肌を引き裂ける。あの銀に触れられる。引き抜いて傷口に牙を這わせ、甘美なる味に酔いしれたい。光の者を食してやろう。
 愉悦に歪む赤い狂気が充満した刹那、パルティアの中で何かが爆発した。
 ドンッという、辺りの木々が震えるほどの衝撃音と共に化け物が吹き飛ばされる。何が起こったのか分からず瞠目する敵を見ながらパルティアは立ち上がる。素早く体勢を立て直す様を睥睨する。感情の色が一切失われた瞳だった。
「お前なんかに……」
 パルティアは髪を留めていた宝石を二つ、その小さな手で外して胸に抱えた。肩口で揃えられていた髪はフワリと舞うと背中を覆う。煮えたぎる怒りに支配され、紫紺の瞳がサッと怒気を孕む。見据える視線はとても険しい。
 赤い影はどうしようか迷っているように見えた。ここまで追い詰めた獲物を前にして逃げることが悔しいのか、アリカを未練そうに見ている。しかしパルティアの怒りに本能的な恐怖を覚えているのか腰は引けている。優柔不断に決めかねている。けれど今のパルティアにはそれが救いだった。逃げられては困る。
 パルティアは胸元の宝石を握り締めて叫んだ。
「消え去ればいい!」
 怒気を孕む力ある言葉が放たれた。同時に赤い影が大きく歪んだ。愉悦しか宿らなかった顔に恐怖が宿る。それが絶望に変わるのは早い。幾ら逃げようと踵を返しても、もう間に合わない。
 パルティアは不思議な優越感を感じたが、まだ足りないと思う。もっと残酷な死を願う。アリカをここまで傷つけた彼には、救いの欠片も与えない。
 最後の力を加えた瞬間、赤い影は大きな断末魔を上げて滅んだ。


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 ジュナンは森の中をさまよっていた。ただひたすら。
「だぁもう!」
 その叫びも何度目になることか。アリカとパルティアの名前を交互に呼ぶのだが、返事はない。焦りは募る。その上、彼女たちを捜している間にジュナンも迷ってしまったらしく、万事休すだ。戻ろうにも道が消えている。現在地が全く分からない。どこへ行けばいいのか、方向性すら見失う。
 イオの森を初体験するジュナンには荷が重い。
 ジュナンはひとしきり唸り声を上げると、キッとまなじりを強くして空を仰いだ。
「おいこら、サラ! お前見えてるんだろうっ? さっさと案内しやがれよ!」
 サラ=ディンは、トゥルカーナがまだ平和だった頃の友人だ。コルヴィノ族が自領域を離れることは滅多にないので、王宮住まいのジュナンと顔を合わせることは稀だった。けれど数回しか会ったことがないにも関わらず二人は気が合い、何年も親友だったのではないかと思わせるくらいに打ち解けていた。
 サラ=ディンは会うたびに楽しそうだった。たまにはイオの森にも来いよと誘ってくれた。来てくれたら俺が案内してやるよ、と。酷く楽しげに話していたことは記憶に新しい。あの時は「そのうちにな」と笑って返したものだが、今となれば笑えない。遊びにくるはずだったのに、トゥルカーナの命運をかけた危地となってしまっている。案内役になると笑っていた彼の姿は見えない。
 しばらく待っても返事は戻らなかった。
「サラじゃなくてディンって呼ばないと返事しないとか。子どもっぽいこと考えてるんじゃないだろうな」
 ジュナンは自分のことを棚に上げて眉を寄せた。
「ああもう!」
 先ほどと同じく叫びながら苛々と周囲を見回す。
 アリカたちと別れてから殆ど代わり映えのない風景。何もないように見せかけて人を混乱させるのだから、コルヴィノというのは総じて人が悪いに違いない。などとジュナンは勝手に補完する。実際は、サラ=ディン以外のコルヴィノには会ったことがないので言い切れない。
 ジュナンは耳を澄ませてみた。風を駆る一族の血を引く者として、気配には敏感だ。しかし命の気配は一つも感じ取れない。アリカたちは本当にこの森にいるのだろうかとまで思う。
 ジュナンは「そうか」と手を打ち鳴らせた。
「もしかしたら一度戻ってるかもしれねぇってこともあるわけだ。そうだな。逸れたし、ルエまで一度戻ってみるか」
 早々に飽いていたジュナンの決断は早かった。背中に翼を広げ、大きく風を呼び寄せる。大地を蹴って天に舞う。頭上を覆う枝を、頑丈な翼で容赦なく折り、手足を傷だらけにしながらジュナンは強行突破する。森の管理者が見たら大激怒しそうな惨事だ。
 広い空に出たジュナンはようやく自由を許されたように安堵して首を回した。眼下の森を眺めたが、枝に遮られてアリカたちの姿は見えない。イオの森は予想していたよりも大きく視界一杯に広がっていた。この中で人捜しなど無謀に思える。
「いくか」
 一通り眺めたあと、ジュナンは振りきるように羽ばたかせる。
 優雅に舞ってなどいられない。風を裂いてルエの元へ急ぐ。もしもアリカたちが戻っていなかったら、今度は上空から森の中央に降り立ってみようと決める。考えてみれば、初めからそうしていれば良かった。コルヴィノ族がサラ=ディンを残して滅んだのならば、サラ=ディンは森すべての力を維持するために森の中央にいるはずだ。パルティアたちをルエの元へ残し、一人でサラ=ディンを抱えて戻れば済む話だった。
 ジュナンは「なぜ誰も気付かなかったのだろう」と笑い出したくなった。しかし重要なことを思い出す。わざわざ足で出向いたのは、生き別れたフラッシュたちを捜すためだった。忘れるなどありえない。冷静に見えて、実はジュナンも焦っているのかもしれない。
 周囲の景色が歪んで捉えられなくなるほどの高速で、ジュナンはルエの元へ向かう。歩きとは違って直ぐにルエの森が見えてきた。その向こう側には腐敗した森が広がる。その範囲が以前よりも広がっているように思える。
 時間がない。
 ジュナンは唇を噛み締めながら地面に降り立つ。
 ルエの森で枝を折ろうものなら何て嫌味を言われるか分からない。翼が枝を傷つけることが決してないように細心の注意を払って翼を畳む。そうしてから首を回した。この場所からルエのところまでは、もう目と鼻の先だ。走り出そうとして首を傾げる。
 道の上に点々と落ちている赤いもの。振り返るとそれはふらつくように続いており、あるところでは水溜りのように広がっている。
「……血?」
 しかもそれはまだ新しく、変色もしていない。
 点々と続く血の道を辿るとイオの森から続いているようにも思える。
 アリカたちだろうかと周囲を見回す。このような大怪我を負ったのかと心が痛む。血は森の奥へ続いていた。逸る心を抑えてそちらに走る。
 追いかけて、そして。
 ジュナンはふと立ち止まった。
「この血、ルエのところに続いてない……」
 ルエの場所へ行くには左へ進む。だが血の道は右に続いていた。どこへ行くのだろう。アリカたちならば必ずルエの元へ行くはずなのに。
 思えば血は目立つように続いているとも取れた。木の影や茂みに隠れることなく堂々と道の中央に落ちて続いている。まるで、追いかけてきて下さいとでも言っているかのように。
 ――これは、何の血だ?
 悪寒に身を震わせたジュナンの喉元にいきなり短剣が突きつけられた。
 息を呑んだジュナンは反撃しようとしたが、切っ先を押し付けられる。あと少し動けば頚動脈を切られるだろう実力の持ち主だ。背後に強い気配を感じる。
 ジュナンは単純な罠にはまった自分を呪った。
「動くな」
 硬直したジュナンの耳を打つ低い声。
 殺気が込められたその声だが、ジュナンは笑顔を見せた。
「フラッシュ!」
 振り返って確認する。
 漆黒の髪に、同じ漆黒の瞳。常に強気な光を宿す双眸が大きく瞠られた。体格の良い青年の姿が、短剣を構えたままそこにあった。
 王宮でジュナンと共に働いていた仲間だった。王族の身辺警護を主な任務としている第一級戦士、フラッシュ。
 ジュナンが振り返ったことで直ぐに短剣に力を込めたようだが、彼は間違いに気付いたようだ。
「ジュナン?」
 反射的に切ってしまわぬよう、フラッシュは距離を取ってジュナンの顔を見つめる。視力が弱くなっているのか、見つめる瞳にはかすかな翳りがある。だが直ぐにそれは消え、生来の瞳がジュナンを見据える。そんな彼の様子は普段目にすることができないものだ。
 ジュナンは嬉しさと共におかしさが込み上げてきて、元気良く頷いた。
「ああそうだよ。良かった。無事だったんだな!」
「それはこっちの台詞だ」
 しばらく疑うようにジュナンを凝視していたフラッシュだが、やがて破顔してその場に座り込んだ。緊張が抜けて力も抜けたようだ。
 ジュナンはふと眉を寄せた。
「フラッシュ……どうしたんだ。その怪我は」
 再会の歓びで気付かなかったが、フラッシュは怪我を負っていた。
 胸元に、横に切られて出血が止まっていない傷がある。腕にも足にも切り傷があり、赤く滲んでいる。まるで満身創痍といった様子だ。
 ジュナンは、必要であれば躊躇うことのないフラッシュが短剣を突きつけるという牽制を取った理由を理解した。先ほどの彼には、反撃されずに仕留めることが不可能だったのだ。
「俺らしくもない。油断していてな」
「この血はフラッシュのか……」
「おびき出してやろうと思ったんだ」
 フラッシュの作戦に、ジュナンはあっさりと引っ掛かったわけである。結果的にどちらも無事だったが、一歩間違えればジュナンは仲間の手により殺されていた。
 ジュナンは眉を寄せ、笑うフラッシュを軽く睨んだ。
「来いよ。手当てする。近くにいい隠れ家があるんだ」
「隠れ家……?」
 傷口を押さえて座り込んでいたフラッシュは首を傾げた。
 ――果たして、隠れ家と称されたルエを見たフラッシュの感想は。
「しぶとくまだ生き残ってやがったのか、ルエのじじいは」
 気配もなく背後に現れたルエに、隠れ家の中へ蹴り落とされた。