第二章

【五】

 王宮の救護班から直接、応急処置の手解きを受けていたジュナンの手には迷いがない。怪我の具合を調べて手際よく薬草を調合し、極細の琥珀糸で編まれた包帯を巻きつけていく。魔法が織り込まれた特殊な糸だ。常より治りが早くなる。
 当の怪我人であるフラッシュはその手際の良さに感心して魅入っていたが、悲鳴を上げた。最後の最後でジュナンに包帯をきつく締め上げられた。
「もう少し優しくできないのか! 死んだらどうしてくれる!」
「それだけ傷負ってて生きてられるんだ。今更どうってことない」
「痛ぇ!」
 わざとらしく傷口を強く叩かれ、フラッシュは痛みに悶絶した。彼の隣にルエが舞い降りる。
「まったく情けない。フラッシュともあろう者がそんな怪我ぐらいで」
「ぐらいじゃないだろう。俺だって今回ばかりは死を覚悟した」
 フラッシュは喉の奥で声を低く押し潰すようにしてルエを睨んだ。怒鳴りつけたいところだが、やはりジュナンに叩かれた痛みが影響しているらしい。
「死にかけの奴なんか放っておけ。それよりもパルティアたちはどうしたんだ」
 フラッシュは抗議の声を上げたがルエには無視された。ルエの視線が辺りを一周し、ジュナンに戻って問い質す。訝りを示すように眉根は強く寄せられている。その視線を真っ直ぐに見返すことができなかったジュナンはうな垂れる。
「やはり、一度も戻ってきていないのか……?」
「なんの話だ?」
 ルエの顔が不機嫌に歪む。フラッシュは包帯を巻き直しつつ視線を向ける。
 ジュナンは苦々しく顔をしかめていた。
「パルティアたちとは、イオの森で逸れたんだ」
「なんだと?」
 ルエの声が強張った。真剣さはフラッシュに対していたときの比ではない。
「だから、ここに戻ってきたかもしれないと思って」
「だからノコノコ舞い戻ってきたって言うのか。この根性なしのヘナチョコめ!」
 ジュナンは言葉を詰まらせた。
「仕方ないだろ! イオの森ってのは次元が歪んでるらしくて、超面倒だっていうんだから! 俺だって、翼がなけりゃまともに抜け出すことすら不可能だったんだぞ。俺まで迷子になったら困るだろうが!」
「お前の行方不明なんざ、ちぃっとも困らんわ! お前でさえ困難なら、なんの力も持たないパルティアたちはどうなるんだ!」
 正論だった。凄まじい剣幕でまくし立てるルエに何も言えない。
「……心配ないだろ。パルティアはかなりの力の持ち主だし……」
 一度しか見ていない力だが、信用することに決めていた。心配なのはアリカだが、彼女だって素直に殺されるほど弱くはないはずだ、と勝手に太鼓判を押す。
 視線を逸らせながら苦し紛れに言い訳したジュナンだが、ルエには思い切り殴られた。
「この馬鹿! あの方に何かあったら許さんからな!」
 決死の形相で顔を真っ赤にさせ、まるで全身から湯気が昇りそうなほどの怒りに、ジュナンは思わず呆れた。
「あの方って」
「あの方だけはトゥルカーナから失くすわけにはいかないんだ! とっとと捜しに行かんか馬鹿者の唐変木!」
 興奮したルエはジュナンを立たせる。その尻を蹴飛ばして直ぐにも捜しに行かせようとする。凄まじい剣幕だ。
 それまで成り行きを見守っていたフラッシュが立ち上がった。
「フラッシュ。止め立てするならお前でも許さんぞ!」
 すっかりと口調が変わっている。
 フラッシュは苦笑しながらルエを手で宥めた。情けない顔をしながら途方に暮れるジュナンを振り返る。
「事情は良く分からないが、イオの森で見失ったんだな?」
「ああ」
「ならば俺が行こう。あの森はジュナンには荷が勝ちすぎる。お前はここで待機だ。俺らが逸れたら更に本末転倒だろう?」
 これから再び窮地に行こうとしているのだ、フラッシュは。口調は何気ないもので、ジュナンは何を言われたのか分からなかった。唖然と口を開いて彼を見つめる。
「イオにはまだディンがいる。パルティアって奴と一緒に連れて来るよ」
 ジュナンが止める暇もない。フラッシュは直ぐに上着を羽織ると腕を回した。
「だが、フラッシュ」
「イオは次元が歪んでるだろう? コルヴィノたちの得意技でさ。そのお陰でバールたちも迂闊には近寄れない。俺も今まではあの森を転々としながら怪我を治してきたんだ。だが、今はもう安全じゃない。トゥルカーナのほとんどを制圧したバールたちが侵略してきている。早く見つけないとやばい」
「……バール?」
「お前も今まで散々会って来たはずだ。赤い髪に角を生やした真紅の化け物。この怪我もあいつにやられた」
 フラッシュは忌々しげに吐き捨てながら腕の怪我を示す。
 ジュナンの脳裏に赤い影が浮かんだ。王宮を直接襲った奴らだ。
 阿鼻叫喚の中で彼らの狂気だけが鮮やかに蹂躙していく。苦い記憶と共に甦る。斬っても斬っても、彼らはどこから湧き出てくるのか、無限にその数を増やし続ける。
「あいつらは、バールというのか……?」
「そうみたいだ。ザウェルがそう呼んでいた」
 新たな衝撃にジュナンは双眸を瞠らせた。
「ザウェルに、会った、のか……?」
 震える声で訊ねるジュナンに、フラッシュは瞳を翳らせた。不吉な予感にジュナンは喉を鳴らせる。
「王宮を出るまでは一緒だった。だが、そこで逸れたっきりだ。今も無事かどうかは分からない」
 ジュナンの体が微かに震える。フラッシュから視線を外し、今の言葉を反芻する。自分で自分を抱き締めるようにして呟いた。
「大丈夫。大丈夫だ。あいつが死んだら、俺に分からないはずがないんだから……」
「双子というのはそんなことまで分かるものなのか?」
「さぁな。あいにく俺は双子に生まれたことがないんで分からん」
 茫然自失としているジュナンを見ながらルエが訊ね、フラッシュは肩を竦める。ルエの瞳からは先ほどまでの激情が消えていたが、様子はまだ不服そうだ。これ以上藪蛇にならぬよう、フラッシュはさっさと出ることにして梯子に手をかける。
「俺は行くぞ」
「あ、フラッシュ!」
 一足飛びに外へ出ようとしたフラッシュの服を掴んで、ジュナンが止めた。
「パルティアと一緒にアリカという女の子もいるはずなんだ。そいつも頼む」
「ああ。分かった」
 不安な瞳を向けられてどう思ったのか、フラッシュはジュナンの亜麻色の髪を撫でて笑いかけた。自信溢れるいつもの笑顔だ。ジュナンは安堵する。そうして外に出ようとしたフラッシュだが、気付いたように振り返る。
「忘れていた。そいつらの容姿はどんなだ?」
 分からなければ捜しようがない。もっともな質問に、ルエもジュナンも顔を見合わせた。
「パルティアはこれっくらいの子どもで……」
 ジュナンは自分の腹あたりを手で示した。必死にパルティアの姿を思い浮かべる。
 勝気な笑顔に生意気な言葉。勇気溢れる行動力。決して一つ所に留まろうとしない。
「髪は肩にかかるくらいの短さで、緑に近い黄色をしていた。髪を頭の両方で結んで、その宝飾品は青で……冒険者風の服装をしている」
 思い出しながら、呟くように告げるジュナンにフラッシュは笑った。
「つまりはガキを捜せばいいわけだ」
 ルエに蹴られる。
「それで、アリカは?」
 ルエを睨みつけながらジュナンを促した。怪我に響いたようだ。
 ジュナンは二人の様子を見ながら複雑に言い淀んだ。
「どうした?」
 訝しく訊ねるフラッシュを見上げたまま。ジュナンは沈黙する。
「アリカの髪は銀色で……」
 語尾を濁らせて視線を逸らし。そうして再びフラッシュを見上げた。
「アリカの特徴は、イリューシャだ。彼女はイリューシャの姿をしている」
 フラッシュが大きく瞳を瞠らせた。何かを言いかけるように口を開いたが、言葉が生まれることはなくて、そのまま視線を彷徨わせて口を閉ざす。ジュナンの瞳が微かに歪む。
「分かった」
 フラッシュは神妙な面持ちで頷くと、今度こそ外へ出る。
「フラッシュ!」
 まるで悲鳴のような声がかけられた。
「心配するな。やばそうだったら、たとえ発見できなくても戻るさ」
 フラッシュの後を追って外へ出たジュナンに、フラッシュは振り返って片手を挙げる。笑みは浮かんでいるが、その表情は他にも何かを含んでいることが簡単に分かった。
 遠くなる彼の後ろ姿を、ジュナンは瞳に痛みを溜めながらずっと見送っていた。


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 アリカは瞳を閉ざしたまま意識を浮上させる。
 体全体を包む疲労感。脳裏で激しく渦巻く光は上下左右を朧にさせ、アリカを不安の渦に叩き込むようだ。早く目覚めなければと無意識下で思うのに、体が動かない。本当に自分の意思なのか、それとも他人の意識に紛れ込んでしまったのか、分からなくなる不思議な感覚に包まれていた。アリカはただ強く、逃げなければ、と脳裏に刻む。体が思うように動かなくて焦燥が増す。
 瞳を閉ざしたまま、アリカは指先に全神経を集中させて力を込めた。
 ぴくりと、時間をかけてようやく指先が土を掻く。それが覚醒のきっかけになったのか、アリカは瞳を開けた。辺りが酷く静かなことに気付いた。
 記憶は鮮明に残っていた。倒れたことも覚えていたが、地面に体がぶつかったと思った瞬間、まるでテレビの電源を落としたように意識が途切れたことも覚えていた。倒れてから今までに何が起こったのかは分からない。
 アリカは顔をしかめる。
 先ほどまで追われていたはずなのに、この静けさはどうしたことだろうか。自分は既に死んでしまったのか。
 腕に力を込めると全身に痛みが走った。拳を握り締めて痛みに耐える。慎重に体を起こす。貧血で目の前が暗くなったが、気力で回復させる。何とか状況を確認しようとしてパルティアに気がついた。直ぐ目の前に倒れている。
「パルティア!」
 慌てて呼びかける。小さな頬に手を当てると温かい。脈を探ると正常に刻まれている。死んでいるわけではないようだ。
 ひとまず安堵し、アリカはパルティアの頭を自分の膝に乗せながら周囲を確認した。
 敵は既に見当たらない。諦めたのだろうか。
 パルティアが倒したとは思いも寄らないアリカはそう補完した。周囲を探っていると遠くに明かりを見つけ、表情を輝かせる。木々の合間からキラキラと零れてくる光は、まるで絶望の中に見えた一筋の希望のようだ。出口かもしれないと心が躍る。
 パルティアを起こそうとしたアリカは躊躇った。幼い顔には明らかな疲労が宿っているため、無理に起こすのは可哀想に思える。かと言って抱えていくこともできない。安全を確認してから起こし、連れて行くのが無難に思える。
 出口とパルティアを見比べながらそう考えた。軽く呼びかけてみてもやはりパルティアは無反応で、相当に疲れているのだなと思わせた。試しにパルティアを抱えようとしたが、力を入れると痛みが走り、無理だと悟る。ため息をついて顔を上げた。
 近くにはパルティアを隠せそうな茂みがある。心の中でパルティアに謝り、苦労して彼女を茂みに隠す。パルティアが纏う外套を外し、畳んで枕とした。
 アリカは立ち上がると一人で光源に歩き出す。
「頭、痛い」
 頭の奥が痺れているような感覚だった。ときおり貧血が襲ってくるが、気力で耐えながらアリカは一歩一歩を踏みしめる。コルヴィノ族が仕掛けた歪みのことなど頭から抜け落ちていた。歪みに落ちることがなかったのは幸運と言えよう。
 光に近づいていくと、どうやら出口ではないようだと気付いた。次第に轟音も響くようになり、いつの間にやら辺りには冷気が立ち込める。闇の気配が濃厚となる。予期せぬ成り行きだ。アリカは背筋を伸ばして表情を固める。
 木々の連立を抜け出せばいつの間にか周囲は夜に移行していた。
 細かな飛沫が飛んできて、アリカは顔をしかめた。
 一体どこから流れているのだろう。眼前に広がっていたのは、見渡す限り広大な川だ。遥か遠くにはもうもうと水煙を上げながら轟音を放つ滝がある。瀑布によって散らされる飛沫がアリカにまで届いていた。
 川と呼ぶより、湖と称すのが正しいのかもしれない。
「凄い……」
 思わず感嘆の吐息を洩らして見惚れる広大な自然。
 アリカは首を傾げる。
 こちらに届くほどの飛沫を上げながら滝が流れているというのに、アリカ近くの水面は静かだった。飛沫は確かに水面にも落ちているはずだが、その様子はない。静かな水面には波も立たない。静寂さだけを湛えてアリカの顔を映しこんでいる。水は澄み渡り、湖底まで見渡せる。
 アリカは不思議な気分になりながら、大した疑問には思わず、ここはそういう場所なのだと受け止めることにした。度重なる疲労で、正常な思考が働いていなかったのかもしれない。曇らない瞳で見渡せば、遠く見える滝と、足元に広がる湖面との間に、歪みを見ることができたであろうに。
 アリカは布切れのようになった制服を脱ぐとシャツを捲り上げた。血が凝固している場所もあったが、多くはまだ滲んでいる。水を掬いあげて、腕と足の血を洗い流した。澄んでいた水はあっと言う間に濁って地面に吸い込まれていく。
 手で届くところの血をあらかた洗い流すと安堵の息をついた。脱いだ上着はもう着る気が起きない。しばらくそのままで座っていて、落ち着いてから立ち上がる。心持ち、先ほどよりも体が軽い。これならばパルティアを抱えてこれるかもしれない。
 森の中で感じていた不安を忘れ、辺りを見回して危険もないと確認する。
 早くパルティアを連れてこよう。
 上着をそのままにして湖に背中を向けた、その刹那。
 ――我が聖域に穢れを運ぶ不届き者は誰?――
 湖面に響き渡るように声が降り注いだ。驚いて振り返ろうとしたアリカを衝撃が襲う。
「ぐっ」
 喉の奥で悲鳴が潰れた。横なぎに襲ってきた何かによって、アリカは吹き飛ばされる。地面に叩きつけられるとそのまま転がった。二転三転視界が回り、止まっても、アリカは痛みで起き上がることができなかった。背中が痛い。塞がっていた傷は簡単に開いて新たな血を滲ませる。
「我に断りもなく聖域に入り込む侵略者――立ち去りなさい。ここはお前のような者が来るところではない」
 空間全体に響いていた声は一つに集約し、唇から紡がれる。
 視線を向けたアリカは、そちらに一人の女性を見た。
 眩いばかりの翡翠の髪。同じ色を宿した瞳が厳しい眼差しでアリカを見下ろしている。美麗だが人間味を全く感じさせない姿だ。表情はまるで能面のよう。瞳だけが意思を宿している。
 動かないアリカに、女性は手にしていた杖を掲げた。アリカには聞き取れない言葉が放たれる。女性を中心とし、光が地面から沸き、それは徐々に輪を広げてアリカに迫る。
 綺麗な光景にアリカはただ魅入った。地面に倒れたまま、その光に腕を伸ばす。
 指先に光が触れた瞬間、アリカは体全体に凄まじい衝撃を感じた。気付かないまま遥か後方へと吹き飛ばされる。突然の衝撃に一瞬だけ息が止まる。甲高い悲鳴を上げながら森の中へ飛ばされ、太い幹に勢い良く叩き付けられる。背中の傷が悲鳴を上げ、アリカは目の前が赤く染まったのを知った。
「このトゥルカーナを汚し、この聖域までも奪おうとするか」
 衣擦れの音がゆっくりとアリカに近づいた。
「我ら光の象徴たる姿を借りてまでここへ立とうとするか、闇の者よ。今すぐにトゥルカーナから立ち去るがいい……!」
 言葉に込められた憎悪にアリカは震えた。
 痛みで顔を上げることもできないが、杖が振り上げられたのを察した。何が起きているのか分からない。しかしこのままでは死んでしまうのも確かなこと。逃げたい、と思いながら痛みが意識を奪っていく。次なる痛みに襲われる前に、アリカは意識が遠ざかっていくのを悔しく感じていた。視界が暗転していくそのさなか。
「やめてルチル!」
 幼い子どもの声を聞いた気がしたが、アリカの意識は闇に沈んだ。


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 目覚めたら闇の中に横になっていた。起きると顔にガサガサとした沢山の何かがぶつかってきて、更に混乱した。立ち上がると視界が開けて納得する。茂みの中に寝かされていたらしい。
「どこ?」
 呟きながら思い出す。
 アリカを助けようとして赤い化け物を退治したこと。
 自分の許容範囲を容易く超えてしまうような強大な力を使ってしまったこと。
 記憶が途切れていることを踏まえれば、恐らく倒れたのだろうと推測することができた。
 パルティアは周囲を見回す。
 危険はないようだと悟ったが、あれほど必死で守ったアリカがいなかった。足元に視線を落とすと外套が落ちていて、不審に思いながら拾い上げる。綺麗に畳まれていたそれは人の手によるもの。自分の体に負担がかからないようにしてくれたに違いない、とパルティアは納得しながら改めて外套をまとう。この茂みへ隠したのはアリカのはずだが、彼女はどこへ行ったのだろう。まさか自分を置いて遠くへは行かないだろうと思ったが、不安は消せない。嫌な動悸を覚えながら改めて辺りを見回し、遠くに見えた光に眉を寄せた。脳裏に地理を思い浮かべる。
 神殿の近くにあるもの。
 トゥルカーナを守護する精霊の一人である、ルチル。イオの森の、真の統率者ともされる彼女の聖域。それが今、開かれている。
 なぜかパルティアはそこにアリカがいると確信した。
 次元を歪ませてトゥルカーナを迷走し、王家の者でさえルチルに会うには多大な力が必要だというのに、アリカは会えたというのだろうか。
 そのとき、聖域から凄まじい量の光がほとばしった。
 誰かの悲鳴が木霊する。パルティアの視界に入っていた樹の一つが大きく揺れて葉を落とす。その樹にかすかな銀光を見た気がして、パルティアは走り出した。
 幾らも走らないうちに現場が見える。
 二人の女性が目に入る。一人はアリカ。もう一人は翡翠色の髪を持つ女性。
 アリカを睥睨する彼女は、唯一の武器である杖を高々と掲げていた。その杖先に高まる強い魔力。攻撃の力。
 パルティアは青くなって叫んだ。
「やめて、ルチル!」
 杖が振り下ろされる前にかけられた制止の声はひとまずルチルに届き、怪訝そうな瞳が振り返る。その隙にアリカの前に回りこんだパルティアは安堵の息をついた。アリカには意識がないようだが、殺されてしまったわけではない。
 幹についた血と、地面に広がっていく赤いもの。
 ルチルは困惑したようにパルティアを見下ろす。
 常であれば直ぐさま侵入者を追い出す彼女だが、パルティアを前にして躊躇ったようだ。しかし杖にはいまだ攻撃の意志が宿っている。
 パルティアは瞳をかすかに歪めた。
「私が、分からない?」
 幼い声には確かな落胆があった。
 ルチルが治める湖はトゥルカーナで最も清浄な場所だ。命を育む光が星の中心に向かって放たれている。循環した光は大地を潤し、穢れを洗う水となってルチルの元へ還って来る。その守人であるルチルが気付かないとは、すなわちトゥルカーナがそこまで汚染されているということに尽きる。
 パルティアは歯噛みしてルチルを見つめた。
 視線を外さないまま両の髪飾りに触れた。
 力を込められず、ただ外れた髪飾りは本来の力をパルティアから消す。媒体の力から解放されたパルティアはその姿を大きく変貌させた。小学生低学年ほどの背丈をぐんと伸ばし、中学生ほどの少女になる。少し大きかった服が丁度よくなる。パルティアだった者は青い外套を翻す。アリカがトゥルカーナに来て、初めて出会った女性だ。
 ルチルは双眸を大きく見開かせて息を呑んだ。目が覚めたように膝をつく。敬意を払って頭を下げる。
「イザベル皇女……!」
「ええ、そうよ。私よ。アリカは敵ではないわ。むしろ救いをもたらす者。お願い、分かって」
 パルティアは正気に戻ったルチルに安堵しながら訴える。しかしルチルは戸惑うように瞳を揺らせる。
「しかしその者の姿は……」
「災いではないの。今のトゥルカーナにとっては誰よりも必要な者よ」
 イザベルは悲痛に顔を歪めて説得する。
 ルチルは釈然としないような面持ちで視線を彷徨わせたが、やがては瞳を伏せて頷いた。彼女がもう一度杖を掲げると、優しい光が杖先から零れてアリカを包む。アリカが負っていた傷は見る間に塞がって消えた。
「ありがとう」
「貴方が信じる者を、我らが疑うこともないでしょう」
 イザベルは淡く微笑む。
「アリカは今、トゥルカーナに最も必要な者なの」
「畏まりました」
 ルチルが再び頭を垂れると、イザベルは外していた髪飾りをつける。一瞬の後に、イザベルは再び姿をパルティアに戻した。まるでそれが合図だったかのようにアリカが身じろぎする。ぼんやりと開かれた銀の双眸がパルティアを映す。
「アリカ」
「パルティア……?」
 虚ろにパルティアを見上げたアリカを見て、立ち上がったルチルは踵を返した。その気配にアリカは弾かれたように起き上がり、パルティアを素早く抱えてルチルを見る。
「ア、アリカ?」
 突然抱きしめられたパルティアは戸惑った。背後の声にルチルは振り返り、敵意を示すアリカに微笑む。
「私はルチル。すでに攻撃の意志はありません」
「え……?」
「ここはもう安全な場所ではありません。早く離れるといいでしょう。バールと呼ばれる者たちが次々と進出してきております」
「バール?」
 緩んだ腕から抜け出して、パルティアは眉を寄せた。
「貴方がたも出会っているはず。赤い闇をまとう不浄の影を」
「そうです。早くお逃げなさい。この先でコルヴィノの生存者が道を開こうとしています」
 森の奥を指して微笑むルチルに、アリカとパルティアは思わず顔を見合わせた。
「ありがとうルチル! アリカ。行こう!」
 手を引かれたアリカは驚いた。
「あの、ルチルさんは」
「私はトゥルカーナを守護する道の精霊。聖気が途切れない限り、私は生き続ける。気にすることはありません。お急ぎ下さい」
「精霊……」
 アリカはルエを思い出した。彼は大丈夫だろうか。あの腐敗した森はどこまで進んでしまったのだろう。
「……アリカ」
 物憂げに表情を曇らせたアリカに、ルチルは腕を伸ばした。
「え?」
「貴方にトゥルカーナの祝福を」
 ルチルが触れた場所に冷たい空気が凝った。それは形を成して、アリカの腕にはまる装身具となる。
「お持ちください」
 はめられた腕輪は淡い金色をまとい、アリカの顔を反射する。
「貴方からは闇の気配が感じられます。ゆめゆめ、惑わされることのないように」
「ルチル?」
 不安げに呟いたのはパルティアだ。
 アリカは腕輪を見て困惑し、ルチルを見上げたが「あ」と声を上げた。ルチルの体は透き通って消えかけていた。
「ご無事をお祈りしております」
 ルチルはそのまま姿を消した。そしてその直後、アリカの瞳には、澄んでいた湖がどす黒く染まる様が見えた。輝きが消える。水はまるで泥のように濁って沈む。
 アリカとパルティアは絶句した。
「あいつさえ、倒せば……」
 このトゥルカーナに清浄な気が再び満ちれば、ルチルは戻ってくることができる。
 パルティアはアリカの腕を取った。
「はやく、サラ=ディンに会おう」
 ルチルに示された方向に足を向ける。ここで立ち止まっていても仕方ない。
 アリカもまた、葛藤しながらも頷き、パルティアに従った。