第二章

【六】

 汚泥のように濁った湖に背中を向けて、アリカとパルティアは再びイオの森を走っていた。
 ルチルが示した方向へ。一直線に駆けていく。コルヴィノ族が張った結界に触れないようにと祈るばかりだ。
「アリカの怪我は、もう平気なの?」
「ええ大丈夫よ。痛みも全部、消えたみたい」
 悲痛な表情で見上げるパルティアに、アリカは安心させるように微笑んだ。言葉に嘘はない。先ほどルチルが揮った癒しの力は、アリカを完全に回復させていた。しかしパルティアはどこか信じきれないように表情を曇らせたまま。
 アリカは彼女の気を逸らすためにも別の話題を持ち出した。
「さっきの……ルチルっていう、精霊? 彼女が言ってたバールって奴のことなんだけど」
「ルチルの言葉は本当だと思うわ。バールがこの森を占領し始めているのよ。じゃなきゃ、幾らなんでもディンがこんなに手こずるはずはないもの」
 話題変更には成功したもののパルティアの表情は晴れなかった。気の強さを全面に押し出した悔しそうな表情で奥歯を噛み締めている。
「早く、なんとかしないと……」
 呟くようなパルティアの声に胸が痛くなる。彼女が笑顔になるにはどうしたらいいのだろう、とアリカもまた表情を曇らせる。
 そのときだ。アリカは周囲の空気が違和感を伝えてきた気がして立ち止まった。
 手を繋いでいたパルティアも立ち止まる。しかし彼女はアリカが感じた違和感には気付いていないようで、首を傾げてアリカを見る。
「どうしたの?」
「いま、なにか聞こえなかった?」
「なにか?」
 耳を澄ませるアリカと同じようにパルティアも耳を澄ませる。しかし不自然な音は聞こえない。かぶりを振り、再びアリカを見上げようとし、パルティアは「あ」と双眸を見開かせた。
「あ、また」
 アリカも気付く。どうやら声のようだ。遠くから徐々に、風のように早く近づいてくる。誰かを呼んでいるようだと思った次には、それが自分たちの名前だと知る。
「誰っ?」
 木々を見上げるようにしてアリカは問いかけた。
 パルティアはアリカと手を繋いだまま顔を俯けた。繋いでない手で小さな拳を作る。
「そこにいるのか?」
 アリカは冷や汗を浮かべた。いまさらだが、声の主が敵だったらどうしようと思ったのだ。
 姿は見えない。遠ざかろうとしていた声は直ぐに戻り、確認の声を投げかける。
 ――応えた方がいいのだろうか。
 アリカが口を開く一瞬前に、眼前で空気が揺れた。蜃気楼や陽炎のように景色が歪む。それは徐々に色をつけ、やがて人影を作り出した。
 まるでバールたちのように唐突な出現。
 アリカは一瞬も視線を逸らせなかった。胸の奥底でなにかが激しく警鐘を鳴らしていた。現れた人物を凝視しながらパルティアの手を引いて背中に庇う。輪郭を曖昧にさせた人物は、直ぐに普通の人間と大差ない姿を取り戻した。
 構えようとしていたアリカは思わず目を瞠る。
 現れた人間は黒髪に黒瞳をしていた。凛々しく精悍な顔立ちをした青年だ。そして彼は、アリカを見て驚いたように双眸を瞠らせたのだ。バールたちと明らかに違う、人間らしい感情の揺れ。
「イリューシャ……?」
「え?」
 呟きに問い返したアリカだが、彼にはその言葉すら届いていないようだった。
 黒曜石の瞳がアリカを見つめる。酷く印象的な瞳だ。アリカは呪縛されたように動けない。ほんの僅かな時間にも関わらず、永遠に等しく感じられた。
 不意に視線が外されて、彼はパルティアを確認する。
「……アリカとパルティア、だな?」
「そうだけど、貴方は……」
「俺はフラッシュ。ジュナンとルエに頼まれて、お前らを捜しに来たんだ」
 知っている者たちの名前に、アリカは初対面であるにも関わらずすっかりと警戒心を解いて破顔した。
「ジュナン! 彼に会ったのっ?」
 無事を知った安心と、これで自分たちも外へ出られるという安心と。
 アリカは両手を打ち鳴らせて喜び、言葉を詰まらせた。深い安堵が込み上げる。アリカから笑顔を奪う。泣きたい衝動が湧いたが必死で耐える。しっかりと唇を引き結んだ。
 そんなアリカの様子を見ていたフラッシュは奇妙な顔をしたが、黙ったまま頷いた。
「ジュナンはルエに預けてきた。この森に関しちゃ俺の方が詳しいからな。ここはもう危険だ。ディンも連れて行く」
 ジュナンの無事に安堵していたアリカは『危険』との言葉に眉を寄せた。
「バールっていう影のこと?」
 声を潜めたアリカにフラッシュは面食らったような顔をし、そして頷いた。
「分かっているなら話は早い。そういうわけだから、急ぐぞ」
 アリカは腕を引かれて歩き出した。
 長らく他人と距離を置いて付き合ってきたため、人に触れることに免疫がない。掴まれた腕に驚いてフラッシュを見上げたが、彼には何ら不自然なところはない。慣れているからだろう。掴まれた場所に違和感を覚えながらもアリカはその手を振り解けなかった。先ほどから大人しいパルティアを振り返る。アリカと手を繋ぎ直し、パルティアは俯きながらついてきていた。
「パルティア……大丈夫?」
 先ほどまではフリだけでも元気な様子を見せてきたパルティアだったので、彼女のそんな様子はアリカの不安を煽る。心配で訊ねると、パルティアは直ぐに顔を上げて微笑んだ。しかしその顔は青白い。雰囲気もどこか違う。
 フラッシュが振り返った。
「ジュナンが言っていたが、お前は力を持っているんだろう? それは自分の体力を変換して行う類のものか」
「ええ、そうよ。だからあまり多用はできない」
 それなら今パルティアの顔が青白いのも、体力を欠いているためか。
 二人の会話にアリカは納得した。
「私は自分の身くらい自分でまもれるの。だから、フラッシュはアリカを一番に考えて」
 その言葉にアリカは眉を寄せた。硬い表情のパルティアに口を開こうとしたフラッシュだが、その前にアリカが口を挟んだ。
「あのね。私なんかよりもパルティアが優先なんだからね? 私はパルティアよりもずっと大人だし、幾ら力を持っていても無敵っていうわけにはいかないんだから。私の方こそ大丈夫よ?」
「アリカは何も分かってない……!」
 苛立たしげな言葉にアリカは胸を衝かれたような気がした。
「私が守らなきゃいけないのは、アリカだけなのに……!」
「え?」
 パルティアに睨まれたアリカは怯む。視線の意味が分からない。
「その話は後だ!」
 なんと返したらいいのか迷ったアリカは、フラッシュに抱え込まれた。
 疑問に思ったのも束の間。耳元で金属のぶつかる音がして首を竦める。
「アリカ!」
 パルティアの驚愕する声が上がった。
 フラッシュは最初の一撃をやり過ごしてアリカを解放する。立ち上がり、声に応えて現れた剣を構え直す。
「早速のご登場だが、退場も早めにして貰いたいもんだな!」
 どこか楽しげにフラッシュが叫ぶ。下ろされたアリカは立ち上がり、彼が対峙している者の正体を悟った。
 赤い闇をまとったバール。
 いつの間に近づかれていたのか、バールは構えた剣をフラッシュと交えていた。力強いフラッシュの剣は直ぐに押し返したが、バールの剣はさらに強い太刀筋をフラッシュに振り下ろす。どちらも剣豪と呼ぶに相応しい強さだ。
「アリカ避けて!」
 突然の交戦に呆然としていたアリカは、悲鳴のようなパルティアの声に息を呑んだ。本能のままにその場から離れる。次の瞬間には、その場に剣が突き立っていた。アリカは間一髪で危機を逃れる。
「もう一匹かっ?」
 背後の騒ぎにフラッシュが舌打ちしたが、彼は手一杯で動くことができない。打ち合いながらアリカの側に戻る隙を探っているようだが、相手のバールがそれを許さない。
「くっそ!」
 彼に助勢を頼むのは不可能だ。ここは自分でなんとかしなくては。
 決意を固めたアリカだが、その眼前にパルティアが回りこんだ。
「どいて!」
「パルティア?」
 アリカの前に回りこんで両手を前に突き出したパルティアは素早く力を発動させようとした。しかし間に合わない。バールが剣を構えて突進してくる。
「駄目!」
 アリカはパルティアを抱えて逃げようとしたが、それよりもバールが早かった。仕方なしにアリカは捨て身とばかりに体当たりする。目論みはなんとか成功し、バランスを崩したバールは大きく転がった。同じく転がったアリカに敵意を向ける。体勢を立て直すと剣を大きく振りかぶってくる。
「伏せて!」
 パルティアの怒号と共に放たれた青い光。
 アリカの鼻先を通り抜けた光はバールを直撃すると跡形もなく消え失せた。
 一歩間違えれば自分が消されそうだった。
 アリカは平常心を取り戻そうとして胸に手を当てた。しかし背後から聞こえた呻き声に顔をしかめて振り返る。これ以上なにがあるのかと、恐々と。
 返り血を浴びたフラッシュが仏頂面で佇んでいた。足元にはバールが倒れている。先ほどの呻き声はバールの断末魔だったようだ。
 アリカは周囲に危険がないことを確認してから安堵の息をついた。
「ったく」
 倒れたバールに視線を落としてフラッシュはため息をつく。剣を振って手の中で回すと、宙に溶ける。
「俺の剣は特別なものだからな。俺の意志で自在に操れる」
「凄いんだ」
 アリカの視線を受け、フラッシュは息を整えながら説明した。
 当然のように事実を受け止めている自分に驚きながら、アリカは羨ましく呟いた。自分にも何か力があれば良かったのにと思う。少しだけ悔しい。
 再び歩き出そうとした三人だが、アリカは目を瞠った。
 視界を掠めた赤い色。いつの間にか別のバールが目の前にいた。その剣先がフラッシュに届くまで、幾秒もない。
 一瞬の選択のあと、アリカはフラッシュを突き飛ばした。同時に走る鋭い痛みに悲鳴を上げる。腕を押さえてしゃがみこんだ。
 突き飛ばされたフラッシュは鮮血に目を瞠った。素早く剣を手にする。アリカを刺し貫こうとするバールを薙いで蹴り飛ばす。うずくまるアリカに駆け寄った。
「他人助けて自分が死ぬような真似、するわけないでしょう」
 脂汗を浮かばせたアリカは脇腹を押さえながら笑う。まるで自嘲のように。
 フラッシュはその表情に息を呑んだ。なんとも言えない、壮絶な気配がした。
「でもアリカ!」
 パルティアが泣きそうな声を上げてアリカに縋りつこうとしたが、その動きは途中で止まった。何かに気付いたように素早く辺りを見回す。
「そんな……」
 絶望に満ちた声。アリカたちも事態を悟る。
 周囲を赤い闇に囲まれていた。輪郭はあいまいな距離だったが、確実に取り囲まれている。彼らはその輪を縮め、迫ってくる。
 フラッシュは舌打ちした。
「さっさと遠距離系の攻撃しろよ? 近距離に持ち込まれる前にな!」
 わずかな呆然も許されない。パルティアは慌てて呪文を詠唱し始める。
 アリカはゆっくりと顔を上げてフラッシュを見た。彼はどこか挑戦的な笑みを湛えながら周囲を確認している。その表情にアリカは恐怖を覚えた。最初に彼を見たとき覚えた、妙な不安感が込み上げる。警鐘が頭の中で打ち鳴らされていた。
「大盤振る舞いだな。俺に悟られぬよう上手く隠していたか」
 フラッシュの言葉に我に返り、アリカも視線を巡らす。脇腹の痛みに顔をしかめる。
「お前は無理をするな」
「大丈夫よ、これくらい。慣れてるもの」
 ボタボタと音を立てながら落ちる血を見ながら呟く。そんなアリカを驚いたようにもう一度見て、フラッシュは眉を寄せる。
「そういう問題じゃねぇ。前がどうであれ、ここには今パルティアも俺もいるんだ。黙って守られていろ」
 聞き慣れない言葉にアリカは瞬いた。自分を守るのは常に自分しかいない。その言葉には違和感と反発を覚える。守るために私を置いて行ったくせに、と見知らぬ誰かに言葉をぶつける。守られることが孤独と同じならば、そんな平穏など要らない。
 フラッシュやパルティアに言っても仕方ないことだ。それでも、そんな守られ方しか知らないから、アリカは必死でかぶりを振る。
「自分で守れる!」
 ルチルに治療されたとはいえ、それまで流れ出ていた血の不足分まで補われたわけではない。大量出血に頭が揺れる。それでも必死に立ち、フラッシュを睨むように見据える。
 だから――置いていかないで。
 パルティアの力が大きく膨れ上がって前方一帯のバールたちを蹴散らした。しかし充分ではない。消しきれない闇は前線に出たフラッシュ目掛けて襲い掛かる。
「やらせるかよ!」
 一匹一匹確実に仕留めながらフラッシュは周囲を確認する。仕留めきれなかったバールは、フラッシュが時間稼ぎをしている間に唱え終わったパルティアが確実に仕留めていく。
 アリカは荒い呼吸の中で自分の無力を呪った。自分にも何かできないかと考える。戦闘の音が徐々に大きくなり、自分だけ取り残されてしまったようだ。
 唇を噛み締めたとき、アリカは不思議な声を聞いた。
『こっちだよ』
 頭の中に響く声。驚いて辺りを見回すが誰もいない。パルティアもフラッシュも戦闘に集中している。どうやらこの声はアリカにだけ聞こえたようだ。
『早く、こっちに!』
 焦れたように叫ぶ声はなぜか信用に足る物に思えた。脳裏に少年の像が勝手に浮かぶ。知らない者の姿だ。しかしアリカには彼がこの声の主なのだとすんなり思うことができた。脇腹の痛みも忘れ、まるで操られるように一歩を踏み出した。
「アリカ?」
 パルティアが詠唱を中断してまで大声を上げる。アリカがバールに向かって歩き出したからだ。無防備な彼女に標的が移る。フラッシュを大きく外れたバールがアリカに向かって剣を振りかぶったとき、何もない空間から二本の腕が伸びた。それはアリカを抱えて瞬く間に消える。目標を失ったバールは宙を薙ぐ。
 フラッシュとパルティアは目を瞠り、しかし直ぐに意味に気付いて微笑んだ。
「サラ=ディンか」
 彼がようやく扉を作ることに成功したのだ。
「おい、パルティア。大丈夫か?」
「当たり前でしょう。誰に口聞いてるのよ」
 剣を構え直しながら問いかけると尊大な答えが返ってきた。
 フラッシュは笑う。
 心配の種だったアリカは安全なところにいる。二人はもう自分のことに専念して戦えばいいだけだった。