第二章

【七】

 とつぜん現れた腕に驚く間もなく攫われた。振り返るフラッシュやパルティアの姿は一瞬で視界から消える。世界が切り替わる。
 予備動作のない高速移動に息がつまった。重圧に内臓が悲鳴を上げる。息もできずに涙が滲み、その感覚に恐怖を覚える頃、アリカは唐突に投げ出された。まるで砲丸投げの砲丸になった気分だ。高い空にポンと放り投げられたような感覚だった。
 しかしそんな感覚は長く続かない。何かにぶつかる衝撃と共に、アリカは抱きしめられた。脇腹の痛みが強くなる。アリカは反射的に突き飛ばして離れた。
「うわっ」
 反作用と先ほどの感覚に足を取られ、アリカはその場に倒れる。それはアリカが突き飛ばした相手も同じだったようだ。ぐるぐると回る視界に気持ち悪くなりながら、どこかで聞いた声だと気付く。振り返れば、フラッシュよりもジュナンよりも更に小さな少年が尻餅をついて顔をしかめていた。先ほど浮かんだ姿と同じだ。
 彼は不満そうに唇を曲げて何か呟いている。その声が先ほど響いた声だと気付き、アリカは逃げようとしていたことを忘れた。
「……誰?」
「とりあえず、間に合って良かったと言っておこうかな」
 恐る恐る訊ねたアリカに気付き、少年は不機嫌なまま顔を上げてそんなことを言った。砂を払う仕草をして立ち上がる。気を取り直したように微笑みかける。
 揺れる緑の髪の毛は、葉を青々と茂らせる夏の大樹を連想させた。
 パルティアよりも少し成長した年代の背丈で、可愛らしい微笑みをアリカに向ける。
「俺がサラ=ディンだよ。遅くなってすまなかった。バールのせいで時間がかかっちまったんだ」
「貴方が、サラ=ディン」
「ああそうさ。あ、呼ぶときは『ディン』って呼んでくれよな。誰かさんみたく『サラ』って呼んだらぶっ飛ばすからな」
 第一印象の恐ろしさを覆す人懐っこさと明るさだ。人差し指を立てて不満げな顔をする彼に、アリカは笑った。
「ひでぇなぁ。俺、けっこう気にしてるんだぜ? なのにジュナンの奴、まだ一度も『ディン』って呼んでくれねぇし」
 愚痴を零しながら腕組みする姿は可愛らしくてアリカは再び小さな笑みを洩らす。だがジュナンの名前に我に返った。和んでいる場合ではないのだと思い直す。
「私たち、貴方を迎えに来たのよ。この森はもう危険なんだって。だから、一緒に行きましょう」
 サラ=ディンは表情を改めて頷いた。
「うん。分かってる。俺の力もそろそろ及ばなくなってきてるなって。フラッシュたちと一緒に出ようと思っていたんだ」
 サラ=ディンはそう告げるとアリカに向き直った。
「その前に」  と前置きして手を伸ばす。
 アリカは一瞬震えたが、黙って待った。サラ=ディンは一瞬だけ辛そうな目をしたのちアリカの脇腹に手を翳す。深い森の匂いが強く香り、アリカは視界が緑一色に染め抜かれたことを知った。温かな空気に包まれる。そのまま眠ってしまいそうなほど心地よさを覚える。どこまでも見渡す限りの草原を見つめ、アリカは振り返ろうとした。自分を呼ぶ誰かの声があった気がした。しかしアリカが声の主を見つける前に、幻は消える。現れたときと同じ速さで視界が戻る。
 目の前からサラ=ディンが体を離そうとしているところだった。
 何が起きたのか分からないアリカは瞬きをし、彼を見つめる。
「その怪我じゃ、これから色々と支障が出るだろ。俺じゃ簡単な応急処置しかできないけど、さっきよりマシなはずだ。落ち着いたらパルティアに治して貰えよ」
 サラ=ディンの視線がどこを向いているのか分かり、アリカは自分の脇腹に目を向けた。先ほどまで痛みを伴っていたそこは、僅かに赤く染まって鎮静している。完全に治っているわけではない。それでもアリカは格段に体が楽になっていることに気付いた。
 サラ=ディンがアリカに背を向けると大股で三歩、歩いた。そして茂みを足で蹴散らす。
 何をしているのだろうと覗き込んだアリカを振り返り、彼は口角を上げながら体を反らす。アリカからその位置が見えるようにした。
 蹴散らされたその場所には、小さな洞穴が口をあけていた。
「コルヴィノ以外の目に映るようにしたらこんなものかなと思ってさ。これで時間食ってたんだ。ここのは俺の力で固定してるから、変な場所に飛ばされる心配はない。アリカはこれで一足先にジュナンのところに戻っていてくれ」
 説明を黙って聞いていたアリカは目を瞠らせた。
「アリカがいたらパルティアもフラッシュも戦闘に集中できないんだ」
 口を開こうとしたアリカを制してサラ=ディンは続ける。
「だから、彼らが安心できるように、アリカは先に戻っていてくれ。全速力で走れば、ルエまではきっと直ぐだから」
 足手まといだと遠回しに告げられてアリカは俯く。確かにそうだ、と自分でも感じる。これまでできたことと言えば、本当に体を張ってパルティアたちを守ったことだけだ。他に何ができるわけではない。かなりのバールに囲まれてしまえば、守るどころか邪魔になるのが関の山なのだろう。
 アリカは悔しさに顔を歪ませながらサラ=ディンを見た。
「貴方は一緒に行かないの?」
「俺にはまだ仕事が残ってる。彼らをここに呼び寄せなきゃいけない。さっきは本当に急いでアリカだけここに移動させたから、副作用ばかりだっただろう?」
「ええ……」
 確かに妙な具合の悪さは残っていて、アリカはためらいながらも頷いた。
「幾らパルティアたちが強いからと言って、一人であのバールの群れに残して無事で済む保障はない。二人一度に、副作用なくここに移動させるには、ある強度を保った道が必要なんだ。それを造るには時間がかかる。だから、アリカだけで先に行くんだ」
 促されるように腕を取られて引っ張られる。
 気が進まないまでもアリカは外へ続く道に近寄った。
「あとで、ちゃんと来る?」
 心細さに訊ねるアリカの前で、サラ=ディンは力強く頷いた。
 アリカはそれでも信じきれずに動けない。
 置いていかれた記憶。他者を信じることのできない弱さ。唇を引き結び、今にも涙が溢れそうだ。
 そんなアリカをどう思ったのか、サラ=ディンは笑って彼女の肩を叩いた。気安いクラスメイトのようだ。年下の少年だが、その仕草には力強い何かを感じる。
「心配するなって。俺はコルヴィノで、いざとなったら空間転移で逃げることができる。フラッシュは最高位の戦士で強い。パルティアだって負けないさ。アリカは自分の心配だけしていればいい。さぁ、もう行くんだ。ぐずぐずしてるとフラッシュたちが危なくなる」
 そうまで言われてアリカは瞳を翳らせた。一瞬だけ沈黙し、気持ちを切替えて笑顔を作る。顔を上げてサラ=ディンを見た。
「分かった。あとで絶対、ね?」
「ああ。絶対だ」
 サラ=ディンはアリカを抱き締めると安心させるように背中を叩いた。
 アリカはその感覚を記憶するように瞳を閉ざす。頷いて離れる。
 サラ=ディンが造った、森の外までの道に体を滑らせた。彼が見守る前でアリカの姿は消える。それを見届けてからサラ=ディンは軽く腕を振る。アリカが通った道は一瞬にして隠された。何の変哲もない森の風景だけが変わらず広がっている。もちろん道は完全に消えたわけではなく、誰の目にも映らないようにしただけだ。これで後を追える者はいないだろう。あとは、フラッシュやパルティアと合流して、共に森を抜ければいいだけだった。
 故郷に訣別しなければいけない。
 サラ=ディンは諦めのため息を吐き出した。直ぐに意識を集中させる。腕を大きく振って空間を裂く。その扉が森の流気に攫われぬよう引きとめながら、フラッシュたちのいる場所に意識を飛ばす。コルヴィノ族なら森の中にいる者の位置を特定することができた。フラッシュたちの様子を、第三の目で見つめる。彼らはどうやらバールたちのほとんどを倒し終えたようだ。その場に残るのは数体のみとなっていた。
「パルティア。フラッシュ。そちらに扉を造るよ」
 コルヴィノ族は自分の領域内なら誰に対しても声を送ることができる。
 そうしてフラッシュたちと連携を取りながら、サラ=ディンは慎重に彼らまでの道を造り始めた。


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 脳裏に直接響いた声に驚いたものの、パルティアは誰の声か理解して微笑んだ。
「アリカは無事ね?」
「先にジュナンのところに向かわせたよ」
 パルティアは安堵して胸を撫で下ろした。そして再び意識をバールたちに集中させる。パルティアの術とフラッシュの奮闘により、バールたちはもう数人を残して倒れている。
「おい! やるんなら早くしろよな! 俺にだって限界はあるんだぞ!」
 パルティアと同じくサラ=ディンの声を聞いていたフラッシュは怒鳴った。彼の息は上がっている。剣を振るう腕からも力強さが抜けており、疲れが目に見えていた。それでも渾身の力を込めてまた一人、バールを闇に返したフラッシュは、剣を地面に突き立てると呼吸音を荒くして整える。
「くっそ」
 肩が激しく上下する。数秒にも満たない休憩のあとは再びバールに剣を向ける。
「繋がった!」
 サラ=ディンの嬉しげな声。
 フラッシュは最後のバールたちを薙ぎ払いながら「ようやくかよ」と呟いた。視線を向けるとパルティアの側が歪んでいるのが見える。そこがサラ=ディンの通過点だ。歪みは徐々に大きさを増し、その向こう側にサラ=ディンの姿がゆっくりと浮かび上がる。
 アリカを抱えて去ったときのように、体力を大幅に削るような荒業ではないため、ゆっくりした移動になるのは仕方ない。
 元気そうな彼の姿に頬を緩め、パルティアは純粋に喜んだ。思わず意識をバールたちから外してしまう。
 そのことに気付いたのか、別の要因があったのか。
 フラッシュが仕留め損ねた最後のバールが、満身創痍になりながら立ち上がった。パルティアに向かって突進していた。
「避けろ馬鹿!」
 疲労と安堵が許した一瞬の隙だった。
 走っても間に合わないと判断したフラッシュは剣を投げる。勢いよく飛んだ剣はバールの足を掠りはしたが、勢いを止めることはできなかった。
「あ……」
 意識をサラ=ディンだけに向けていたパルティアは、フラッシュの怒号に振り返り、置かれている立場を知った。それでも、何もできずに立ち竦んでいた。金縛りのように動けない。剣を持たないバールの爪が振り上げられる。それを間近で見たパルティアは双眸を瞠らせた。
 甦る血の記憶。
 今度は私の番なのか、と。
 バールの爪が鈍色に光る様を、まるで他人事のように見つめていた。
「イザベル!」
 鋭い声と共に、パルティアの視界が塞がれた。
 直後に視界に広がったのは、自分のものではない鮮血だった。
 パルティアを庇う盾となったのはサラ=ディン。そして彼の背中にはバールの爪が突き出ている。内臓に損傷を与えて貫通したのだということは、パルティアにも分かった。
「いい加減にしろよな!」
 直後にフラッシュが叫び、バールにとどめを刺した。バールはサラ=ディンを貫いた爪ごと闇に還る。パルティアが膝をつくのと、サラ=ディンが倒れるのは同時だった。
「どうして……」
 目の前ではサラ=ディンの腹部が赤く染まって流れていく。毒々しい色だ。鼻につく温かな匂いに眩暈がする。
 フラッシュは駆け寄ろうとしたが、サラ=ディンは手当てを拒むように片手を挙げた。戦慣れしていないサラ=ディンだが、それでも彼自身、良く分かっていた。これは致命傷だ。
「……イザベル」
 地面に視線を落としていたパルティアは弾かれるように顔を上げた。体を震わせてサラ=ディンを見る。
 地面に倒れたままパルティアを見上げる瞳は穏やかだった。そのことが却ってパルティアにあらぬ記憶を甦らせる。震える手を伸ばして彼の手を掴む。
「行かないで。貴方まで失ったら、私は……っ」
 姉を目の前で失ってから、まだ幾日も過ぎていない。それなのに今度は彼まで連れて行かれてしまうのか。
 握る手の平から流し込む癒しの力だが、それでもサラ=ディンの傷は深く、塞がる前に血が流れ出してしまう。彼の命を留めるものが残らない。
「イザベルが無事なら、いい」
「よくない!」
 勝手な言い分に腹を立てて怒鳴ると、サラ=ディンは微かに笑ったようだ。喉の奥から詰まったように血が吐き出され、パルティアは顔を曇らせる。伸ばされた手を必死で掴む。声にならない声が胸の奥で嵐のように渦巻いている。感情すべてで彼の命を引きとめようとする。
 サラ=ディンはパルティアの頬に手を伸ばした。
「イザ……トゥル……−ナを」
 サラ=ディンが大きく痙攣した。
「いや、嫌だ!」
 縋りついて抱き締める。応えるように、サラ=ディンはパルティアの背に手を回して瞳を閉ざした。もう魔法は届かない。
「ディン……」
 動かない彼を強く抱きしめてパルティアは絶叫した。その傍らでフラッシュは瞳を翳らせる。下ろした拳に込められる力は強い。奥歯を噛み締める。トゥルカーナがこのような状態になってから何度も死を見てきた。そのどれもが心に重く圧しかかる。悲しみと共に強い怒りが込み上げる。
「……して」
 サラ=ディンに打ち伏せていたパルティアから小さな声が洩れた。
 フラッシュが顔を上げると、彼女は涙に濡れた瞳でフラッシュを睨み上げている。姿は違えどその瞳は、長年フラッシュが見守ってきた皇女と同じ瞳だ。
「どうして、助けてくれなかったの……?」
「イザベル……」
「その名前で呼ばないで!」
 パルティアは火がついたように怒鳴りつけた。
 トゥルカーナの第三皇女イザベル。
 第一皇女エイラを敵の手中に落とし、第二皇女イリューシャを殺され、イザベルはただ逃げるのみ。弱い彼女はどこにもいてはならない。その名前を取り戻すのは、まだ先でなければいけない。サラ=ディンを守れもしなかった自分には、その名前を名乗る資格がない。
「貴方が……、貴方が、殺したんだ!」
 立ち上がって絶叫する。八つ当たりだが、フラッシュは顔をしかめただけで何も返さなかった。イザベルはトゥルカーナが混乱に陥る前から、サラ=ディンと親しい間柄だった。そんな彼が殺されれば誰だって心穏やかではいられないだろう。
 フラッシュが視線を逸らすと、パルティアは近づいて彼の顔を覗き込んだ。
「サラ=ディンも、イリューシャ姉さんも。貴方さえいなければトゥルカーナは平和だったのよ」
 イリューシャの名前にフラッシュの双眸が見開かれた。肩が僅かに揺れたが、それでも彼は何も返さず黙って聞いている。
 パルティアは涙を零しながら叫んだ。
 平和なトゥルカーナにおいて、サイキ女王のもとに禁忌だったその言葉を。
「貴方なんか……闇の眷属のくせに!」
 フラッシュは大きく肩を揺らしてパルティアを凝視した。
 トゥルカーナは光満ちる星。そこでサイキ女王に拾われ、生きることを許された闇の落とし子。幼い頃から周囲との違いをサイキ女王に諭され、また自分でも実感を伴って知っていたフラッシュはその言葉に胸を抉られる。
「貴方が殺したんだ。姉さんも、ディンも……貴方さえいなければ……」
 フラッシュは傷付いた心を表面に出さぬよう努めながらサラ=ディンに近づいた。
 仲間が死んでいく場面は何度も見てきた。王宮から逃げ延び、数え切れないほどの死に直面した。いまさら動揺しようはずもない、と思いながらも心は沈む。
 埋葬しなければと近づいたフラッシュを、パルティアは悲鳴のように叫んで止めた。
「ディンに触らないで!」
 まるでフラッシュから守るように、サラ=ディンの亡骸を背にして両腕を広げる。きつい双眸が彼を見据える。
「これ以上……光の者たちに触れないで……!」
 憎悪が込められた声は容赦なくフラッシュを苛んだ。
 どうしようもなくて、フラッシュが拳を握り締めたそのとき。パルティアから視線を外した遠くで、別の声が聞こえたような気がした。
「……アリカ?」
 呟いて顔を上げる。
 サラ=ディンによって安全な場所に移されたはずのアリカ。その絶叫が遠くから聞こえたような気がした。
 パルティアをその場に残していくことは躊躇われたが、フラッシュは踵を返していた。身を守る手段を何も持たないアリカの方が心配だと言い聞かせて。
 けれどそれは口実で。
 本当はパルティアの側を離れたかっただけなのかもしれない。
 パルティアは遠ざかるフラッシュをぼんやりと見送った。その場に膝をついて視線をサラ=ディンに向ける。彼の死でいっぱいのパルティアには、アリカの悲鳴など入る余地もなかった。体をひねって向き直り、再び涙を零す。瞳を閉ざし、呼吸も止めた彼の頬に手を伸ばす。パルティアはそっと口付けを落とした。
『イザベルが創るトゥルカーナを見たかったな』
 最後の言葉をパルティアは深く心に刻み込む。
「見せてあげる。闇に侵されない、光の世界を。だから、お休み」
 髪飾りを外すとパルティアの姿はイザベルに変貌した。
「大好きだったよ」
 髪飾りをサラ=ディンの胸に並べ、その上から両手を翳した。
 力は髪飾りを媒介として彼に伝わる。サラ=ディンの体が透け始める。
「お還り。光へ」
 イザベルの囁きとともにサラ=ディンの肉体は発光し、蛍のような光の粒子となって舞い消えた。転がった髪飾りを拾い上げる。イザベルは泣きながら胸に抱きしめた。