第三章

【一】

 エイラは暗い部屋の中にいた。石に囲まれた密閉空間の中で瞳を閉ざし、封じられた力を少しでも取り戻そうと奮闘していた。
 部屋に施された魔法のせいで意識は強制的な眠りへと誘われる。その誘惑に何度も負けては目覚め、負けては目覚めを繰り返してきた。エイラの体力は限界まで削られ、常ならば鋭敏な感覚は愚鈍なまでに落とされている。
 エイラは悪意的な魔法に囲まれた部屋の中で、近づいてくる気配に気付いて目を覚ました。かつてはトゥルカーナ全土の気配を知ることが出来たが、今では宮殿の周囲までを読み取ることで精一杯。それでもエイラは、現れた気配に胸を高鳴らせて笑みを浮かべた。

 強い星の守護を持つ者。
 光輝く最後の希望。

 エイラは頬を濡らした涙に気付いてそれを拭った。明るい栗色の髪が頬を覆って揺れる。脳裏には銀色を纏う少女の姿が思い描かれる。
 ――アリカがトゥルカーナに招かれたということは、二度とイリューシャに会えないことになる。
 全てを守って逃がした、勇ましい妹。二度と会えないけれど、約束を果たした妹。
 エイラは悲しむと同時に誇らしさを覚えて笑みを刻んだ。
「イリューシャ……」
 囁くように呟いて、瞼を閉じる。
 イリューシャは最後の力でアリカを召喚した。そしてもう一人の妹は、召喚されたアリカの側にいるはずだ。それが彼女たちの役目。アリカをトゥルカーナに招き、そして王宮へ連れて来ることが。
 エイラは遠い日の約束となってしまったことを思い出しながらゆっくりと顔を上げた。闇はエイラを飲み込もうと両手を広げたが、これまでにない強い意志を秘めて闇を払おうとするエイラの前では意味を成さなかった。まるで闇が怯えたようにエイラから離れる。
 エイラは自身の体が微かにトゥルカーナの光輝を纏ったことに気付いて見下ろした。
 アリカを招き入れる最後の皇女として、蓄えた力を解き放とうとした。
 けれど――エイラはふと、眉を寄せた。
 アリカの側にいるはずの、妹の気配がなかった。
 エイラは放とうとしていた力を霧散させ、意識をアリカに向けた。
 恐れる光が消え、闇は喜び勇んでエイラを飲み込む。そんな闇に邪魔されて状況を掴むことができない。喉を押さえて苛立ちを覚える。この喉ではすでに聖歌を歌うことも出来ない。
 エイラは喉を押さえたまま、鉄格子の扉を見つめた。
 今は甘んじて囚われているけれど。
「イザベル……。イリューシャ……」
 エイラは溜息と共に名前を紡いだ。その名前だけで勇気付けられるような気がした。
 この先に待つものが死しかなくても、この星が救えるならば、それは皇女に生まれたエイラの役目だ。
 エイラは腕を伸ばした。
 ――さぁ、早くその者を私の前に連れてきて。
 エイラは再び睡魔に襲われる。
 トゥルカーナの皇女たるエイラが余計なことを出来ないように掛けられた魔法。
 エイラは再びその魔法に意識を奪われながら、来る時の為に力を深く眠らせた。


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 アリカは硬い地面の上で目が覚めた。弾かれるように起き上がり、強張った四肢に力を入れる。
「な、に?」
 そこはとても綺麗で冷たい場所。目の前に銀色の髪をした少女が映り、アリカはギクリと硬直する。目の前にあったのが自分の姿だと気付いて息を吐き出す。高鳴った心臓を宥めるように胸に手を当てる。
 鏡のように姿を反射したのは青い水晶。それも、アリカの背丈よりも高く、両手を広げても包み込めない太さの水晶だった。そんな水晶が至るところに点在している。
 アリカは顔をしかめて立ち上がり、周囲の様子を確認した。
 樹木のように乱立する水晶に阻まれて、遠くまで見ることができない。まるで水晶の森だ。アリカが動くたびにアリカの影も動き、いちいち反応してしまう。
 アリカは首を傾げた。なぜこの場所にいるのか分からない。その脳裏に新しい記憶が甦る。サラ=ディンと別れた後のことだ。彼が特別に用意した亀裂に入り、アリカはルエの元へ帰ろうとしていた。
 今思えば、その道はどこかおかしかった。どこまで行っても先が見えなかった。最初は森の風景が上下反転したり歪んだりしながらアリカを先に導いていたが、進むにつれて真の闇になった。
 心細い思いに駆られ、戻ろうと考えたこともある。けれど、ここまで進んだのだ。あと少しかもしれない。それに、また同じ時間と距離をかけて戻るのは怖い。
 そう考えて、重たくなる足を必死で動かした。
 周囲に視界が戻り始めたときは安心した。もっと強い光を求めて走り出した。目の前に、終わりを示す穴が見えた。喜んで飛び込んだ先に――そう、この水晶群が待ち受けていた。
 徐々に記憶を取り戻してきたアリカの呼吸が浅く、速くなる。胸に寄せた拳を強く握り締めながら周囲を警戒する。
 水晶群の中に飛び込んで直ぐに、何者かに襲われた。
 気絶する一瞬前に見たのは、赤い影が腕を振り上げているところだった。
 アリカは鳥肌を立てて腕をさすった。赤い影に襲われたのだと思い出した。もう瞳を閉ざして瞼裏に蘇ってしまう。それほど強い恐怖を感じた。
 殺されなかったのは幸いだが、彼はどこに行ったのか。水晶の裏側で息を潜めているのではないか。そんな恐怖に襲われる。
「いった……」
 後頭部が痛みを訴えた。よほど強い力で殴られたのだろう。
「誰か、いないの?」
 恐る恐る声を上げてみた。その声は水晶に乱反射して、どこまでも響いて聞こえた。返事を待っても誰も来ない。
 アリカは体を震わせて自分を抱きしめた。
 思い出すのは孤独。誰もいない家で、誰かの帰りを待っていた、あの頃。
 トゥルカーナに来て間もないというのに、アリカは孤独感を過去にしていたことに驚いた。忘れていたそれが如実に迫る。アリカは思わずしゃがみ込んで膝に顔を埋めると小さくなる。
「ティー=ジュナン、パルティア、ルエ、フラッシュ、サラ=ディン」
 トゥルカーナで出会った者たちの名前を強く刻む。そうしないと自己を保っていられない。夢ではなく、これは現実だから、彼らにはきっと会えると。そう鼓舞して立ち上がる。
 姿見のように自身を映す水晶に触れる。濡れていた。放つ冷気が掌を刺して、痛みを訴える。顔をしかめて頭上を仰ぐ。
「どこから、水が……」
 そう疑問に思った途端、遥か遠くで爆発のような音がした。そちらを見ると、水晶の一角が沈み込んでいくことが分かった。砂煙ならぬ水晶煙をキラキラと巻き上げている。水晶が崩れたのだろうか。
 誰かいるかもしれないと足を向けようとしたとき、背後に流れた風を感じ、アリカは振り返った。
 人の姿があった。誰かいれば確実に気付くはずなのに、先ほどまでは確かに誰もいなかったのに、どこから現れたのだろう。眉を寄せたアリカは更に驚いた。現れた人物の足は地面から離れていた。ティー=ジュナンのように翼はないが、宙に浮いている。
 アリカは悲鳴を飲み込む。現れたのは女性だった。友好的な気配をまるで感じない。見下されている。どのような生き物なのかと、観察している。
 アリカは睨みつけた。女性が「おや」とでも言うように表情を変える。
「わ、私をどうするつもり?」
 得体の知れない相手に対する恐怖からか、声がうわずる。頬を赤く染めたアリカに、女は小馬鹿にするように軽く微笑んで見下ろした。その態度に腹を立てると表情が露骨に出たのか、女は嘲笑しながらアリカを見つめ、スイッと顔を近づけた。
「ずいぶんと強気な娘だこと。けれど、声が震えていてはただの強がりにしか聞こえないけどねぇ?」
 図星にアリカの頬は更に染まる。
「誰なの……?」
「おまけに躾も行き届いてないと思える。人に名前を訊ねるときは、まずは自分から名乗るものだよ?」
 アリカはもう口を開こうとは思わなかった。名乗ったところで誠意を返してくれる相手だとは思えない。からかわれて煙に巻かれるのが関の山のような気がした。唇を引き結んで女を見つめる。
 やがて女は飽きたのか、背中を伸ばして顎を引いた。
「まぁ、お前の名前は聞かなくても分かっているけれどね、アリカ。お前は有名だもの」
 瞳を瞠らせたアリカに、女は楽しげな様子で喉を震わせた。
「イリューシャが最後の力で喚んだ光の眷属。それに応えたのはお前だけ。ふふふ、なんて皮肉なんだろう。こんな助けしか来ないなんて、トゥルカーナも哀れさ」
「なにを……」
「お前がどう思っているのかなんて知らないけど、お前なんかにトゥルカーナは救えないよ。ここに降臨されたのは高貴なる闇のお方だからね。お前のように薄汚れた光しか持たない者には、敵いやしないのさ」
「なにを、言っているの?」
 理解できずに眉を寄せて睨んだ。馬鹿にされているのだけは間違いない。不愉快さを感じて奥歯を噛み締める。
「ただの気まぐれに殺すなと言ってみたけれど……お前、目覚めるのが早いんだもの。ちっとも観察できなかった」
 残念、と右頬に手を当てながらため息をつく。その瞳が再びアリカを映す。
「コルヴィノ族の道をねじまげるのは、存外力が要ったのにねぇ」
 その独り言で、アリカは自分が予定外の場所に導かれたことを知る。この場所は、サラ=ディンが導いた場所ではなかった。恐らく目の前の女性――敵によって誘導された、危険な場所。だからこんなに冷たく寂しいところなのだろう。
「あのまま殺させてしまった方が、楽しかったかもしれないね?」
 女は楽しそうにアリカの首に手を伸ばした。逃げようと後退するアリカだが、水晶が背中に当たり、逃げ場を失った。女に背中を見せたくなかったため立ち尽くす。女の手が自分の首にかかるまでを凝視した。
 女は強張るアリカの表情を見て、おかしそうに笑う。親指に力を込める。喉が圧迫されて血が止まる。呼吸が細くなる。苦しくなる。
 アリカはうめいて女を蹴飛ばした。
「あっ」
 思わず手を放した女を突き飛ばして逃げようとした。けれど髪をつかまれた。ビンと張られた痛みに悲鳴を上げて、髪を押さえる。
「調子に乗るんじゃないよ。お前を殺すことなんて簡単なんだ」
「ならやればいい! お前なんか怖くない!」
 アリカの挑発に、女は簡単に乗る。握りつぶそうと腕を伸ばしてくる。アリカは力いっぱい蹴りつけた。すると女は今度こそ憤怒に染まってアリカを睨みつけた。
「この……!」
「やめろ」
 アリカが腕をかざして衝撃に耐えようとしたとき。他者の声が響いた。
 どこからか響いたその声に反応して、女は膝をつく。頭を垂れた。
 その様子を見ながらアリカは声の主を捜した。全身に鳥肌が立っている。できることなら今すぐこの場所から逃げ出したいと思うほど、禍々しい気配だ。
 女が頭を垂れた方向の空気が歪みを為したように思えたのも束の間、次にはそこに人が現れていた。
「誰……」
 髪の長い男だ。どこか昏い表情をする男をアリカは凝視する。
 男は無表情だったが、アリカに向けられた瞳は表情を裏切り、強い力で束縛する。逃げ出そうと思っていた意志を奪う。もう逃げられない。足が縫いつけられて一歩も動けない。男から視線を逸らすこともできない。
「なるほど、イリューシャに生き写し。だが……」
 ゆっくりとした動きで近づいてくる。“イリューシャ”の言葉にアリカは我に返り、反射的に逃げた。決してつかまってはいけない、と内なる者が叫んでいた。その一瞬、男の表情が痛みを含んだものに変わったように思えて心臓を高鳴らせる。けれど、次に浮かべた男の表情はとても剣呑で恐ろしいものに思えた。息を呑む。
「逃げればいいさ。どうせこの星からは逃げられまい。最後の独りとなったときに戻ってくればいい。仲間の亡骸と共にな」
「みんなは死なせない!」
 アリカは反射的に叫んでうろたえた。強気な発言が信じられない。けれど後悔はしていなかった。言ったからには実現させなければと眼差しを新たにするアリカの前で、男は昏い笑みを湛えるとそのまま消えた。気付けば最初にいた女も消えている。
 アリカは妙な圧迫感が消えたことに安堵した。そして確信する。今の男が、ジュナンやパルティアが言っていた“侵略者”なのだと。
「あいつをトゥルカーナに落としたのが、私の責任……?」
 トゥルカーナに来る直前、闇の中から聞こえていた声を思い出した。それは忘れずアリカの胸に留まっていた。しかしアリカには全く身に覚えのないことだ。
「なんなのよ……」
 説明くらいして欲しい、と頭を抱えながらアリカは唸る。この状況に大分慣れてきたとはいえ、分からないことだらけなことに変わりはない。
「私が何したっていうの」
 呟いて否定した。
 『忌み子の証』という言葉を思い出して唇を噛む。罪を犯したのは両親なのだろうか、と。闇の声は言っていた。犯した罪は死で償う、と。
「そんな馬鹿なこと……あってたまるか」
 アリカは怫然と呟いた。元々会うつもりだったが、その気持ちは強まった。会って一言くらい文句をつけたい。死んでいるなど絶対に嘘だ。自分だけは信じていようと強く念じる。
 アリカは瞼を閉ざして唇を引き結んだ。
 ――仲間の亡骸。
 ふと男の言葉が蘇った。
 もしかして彼らはジュナンたちを手にかけるつもりなのだろうかと思って体が震えた。ルエの仲間たちを腐敗させたように、トゥルカーナ全土を不毛の地にするつもりなのか。
「させない……。絶対、殺させるものですか……!」
 アリカは拳を握り締めて決意も固く言い切る。力を込めて地を蹴った。
 水晶の森を駆け抜ける。
 先ほどから男たちが消えたり現れたりしているのは、コルヴィノ族と同じような力を彼らが有しているからかもしれない、と思う。
 アリカは自分に力がないことを悔しく思いながら声を張り上げた。
 ほぼ無人に等しいトゥルカーナで誰かの助けを求めるなど無謀だ。アリカにも分かっている。それでも必死で水晶の森を駆け抜け、助けを求め続けた。