第三章

【二】

 水晶の森はどこまで走っても果てがなかった。崩れた一角へ行こうとしても、方向感覚が合っているか分からない。同じ景色が延々と続く。自分の音以外は何も聞こえない。まるで世界に1人で取り残されてしまったかのようだ。
 アリカの胸に強い寂寞が押し寄せた。呼吸が早くなる。目の前にある綺麗な水晶に、拳を叩きつける。喉の奥からは何の悲鳴も出なかった。水晶に触れた拳が瞬く間に冷たくなる。
 強い孤独感に押し潰されそうだ。
 皆のいる、あの世界へ戻りたい――!
 自分がどこを走っているのか分からない。光に包まれて、視界は良好のはずだった。けれどアリカの瞳は何も映していなかった。暗闇に包まれて、泣きながら走っていた。
 強く、強く願う。
 トゥルカーナで出会った人たちが脳裏を巡る。
 彼らの元へ、帰りたい――!
 アリカは小さな水晶の欠片に足を取られた。そのままバランスを崩して倒れこむ。別の水晶にぶつからなかったのは幸いだ。
 倒れたまま涙を拭い、体を起こしたアリカは瞳を瞠る。水晶の森は、いつの間にか石畳になっていた。薄暗い石壁の廊下だ。そこに、アリカは倒れていた。
 景色が変わったことに安堵を覚え、起き上がろうとしたアリカは息を呑んだ。
 自分の体が半分ほど壁に埋まっていた。けれど痛みはない。静かに動かすと、抵抗もなく簡単に抜け出せた。
 アリカは床に尻餅をつきながら、片足ずつゆっくりと引き抜いた。最後のつま先が壁から離れ、床に投げ出される。まだ信じられなくて壁を見つめる。
「抜け、道……?」
 アリカが壁から這い出ても、壁に穴は空いていなかった。壁に手を伸ばしてみたが、今はもうただの壁だった。石壁の冷たい感触が返る。
「ただの、壁……」
 アリカは首を傾げた。試しにとつま先で壁に触れてみたが、突き抜けたりしなかった。どういう現象だったのだろうか。
 顔をしかめたが、トゥルカーナに来てから不思議なことばかりに遭遇しているため、これもその一環だろうと深く考えることはせず、薄暗い石廊下を進みだした。


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 フラッシュはパルティアから離れて森の中を走っていた。
「アリカー!」
 漆黒の双眸には次元の歪みが映っている。サラ=ディンが残したコルヴィノ族の力の欠片だ。コルヴィノ族ではないが、フラッシュにはそれを見分ける能力が備わっていた。それを駆使してサラ=ディンの隠れ家に辿り着いてみたが、アリカの姿はない。
「逃がしたと言っていたが……」
 サラ=ディンの言葉を思い出して眉を寄せる。
 次に思い出すのはアリカだ。
 銀色の双眸に強い意志を湛え、それでもどこか頼りなさを感じる女性。
 危険が高まってきたトゥルカーナで、彼女一人でどこまで逃げ切れるものか。フラッシュは途方に暮れながら、そこで固定された道を見つけた。
「これを通って……?」
 その道は今まで通ってきた歪みとは全く違った。通常の歪みは森の中をただ漂うだけだが、目の前にある道はしっかりとその場に固定されていた。気紛れに揺らぐことはない。恐らくサラ=ディンが創った道なのだろうと思う。
 フラッシュは追いかけようと体を滑らせかけたが、その直後でパルティアの泣き顔を思い出した。
 パルティアはトゥルカーナの第三皇女イザベル。
 強く言い聞かせる。彼女は弱くないのだとかぶりを振る。
 パルティアがイザベルであることは出会った当初から朧気に感じていた。ルエが必要以上に敬意を払っていたことで違和感を覚え、そしてそれはパルティアを見たことで決定打となった。パルティアの髪飾りは、第二皇女イリューシャに贈られたものだった。同じ物は二つとして存在しない。
「イザベルなら……大丈夫だ」
 本当は、彼女の前に立つ勇気がないだけだ。
 トゥルカーナを守る戦士としてあるまじきことを浮かべながら、フラッシュは固定された道に足を踏み入れた。森を漂う歪みと違い、固定された道の移動は違和感を伴う。周囲の風景が消え、長い穴の中を通っている気分になる。気付かせないよう迷子にする森の歪みとは大違いだ。足元も固定され、かなり歩きやすい。自分がどこへ向かおうとしているのか、感覚としてはっきりと感じ取れた。しかしフラッシュにはその歩きやすさが逆に負担となり、進んでいると次第に眩暈に襲われるようになった。倒れてしまいそうな恐怖を覚える。自分でさえこれなら、初めてこの道を通ったアリカの負荷はどれほどだったのだろうかと顔をしかめた。もしかしたらアリカにはこちらの道の方が馴染んだのかもしれないが、それは可能性の範囲内で、憶測だ。
 つらつらと考えていたフラッシュは、景色がとつぜん森の外に変わったことに驚いて、双眸を瞠らせた。振り返るとイオの森が静かに刻を刻んでいる。
「こんな外にまで引っ張って……それじゃあお前の負担も相当なもんだったろうに」
 フラッシュは痛みを覚えて瞳を細めた。
 サラ=ディンの負荷は想像以上だっただろう。それでもイザベルのために空間を裂いた。それが結果として彼の命を縮める結果となり、イザベルを生かす結果となった。トゥルカーナはイザベルがいないと復活しないのだから、サラ=ディンは最終的にトゥルカーナを救ったことになる。
 フラッシュは一息ついて顔を上げた。気持ちを切り替えることにする。
 アリカはここからルエの元へ向かったのだ、と体を向ける。悲鳴が聞こえてから大分経っている。すでに手遅れなのかもしれない。早く見つけなければ、と焦りを覚え、そちらに走ろうとした。しかしふと、誰かに呼ばれた気がして立ち止まった。
 振り返った先には誰もいない。やはり静寂を湛えるイオの森があるだけだ。
 フラッシュは立ち止まって辺りを窺った。人の気配はない。それでも、妙な気持ちの悪さが消えない。脳裏に浮かんだのはイザベルの姿だった。
 サラ=ディンが最後まで命をかけて守ろうとしたイザベル。もしかしたらサラ=ディンが最後にフラッシュに呼びかけたのかもしれない。
 フラッシュはそっと瞳を細めて唇を引き結んだ。
 サイキ女王から正式な位を賜った戦士としての誇りがある。嫌われていようとも、個人の感情など関係なしに皇族を守ることが使命だったはずだ。それに、自分という存在を拾い、育ててくれた女王に恩知らずな真似はしたくない。
 フラッシュは言い訳するように思いながら一歩を踏み出した。
 ルエの元へ戻ったかもしれないアリカを闇雲に追いかけるより、イザベル皇女の安全を確保するのが先だ。
 自分勝手だということは重々承知していながらフラッシュは森へ戻った。
 副作用を伴う歪みは使わない。そのまま森に入り、従来の歪みを利用しながらパルティアの元へ急ぎ走る。
「バールが来ていなけりゃいいんだがな」
「あら。あいつらは来ないわ」
 歪みを抜けて呟いた声には返答があった。フラッシュは弾かれるように振り向いて息を呑む。目の前に、空気を切裂きながら円盤が迫っていた。持ち前の反射神経を生かしてなんとか避ける。獲物を逃した円盤は回転しながら持ち主に返っていく。円盤に触れた木々が音を立てて切倒されていく。切り口は鋭く綺麗なものだ。
 持ち主の姿を認めたフラッシュは双眸を見開かせた。
「なんのつもりだ、シュウラン」
 武器を手にした女はフラッシュに問われて薄い笑みを刷いた。瞳は楽しげに細められている。
「なんのつもりって? 貴方を倒すつもりよ」
 シュウランは再び武器を構えて投げつける。木々が倒され視界が広がった中で、まるで生気を得たように大きく弧を描いて迫ってくる。
 フラッシュは軌跡を見極め、避けながら怒鳴りつけた。
「ふざけるな! なぜ俺がお前に倒されなきゃいけない!」
「へぇ。私のことをそんなに見くびっていてもいいの」
 避けただけで攻撃をしてこないフラッシュに笑いかけると、シュウランの表情がスッと消えた。彼女の姿もその場から消える。眉を寄せたフラッシュの眼前に現われる。
「な……」
 息を呑み、驚愕するフラッシュにシュウランは笑い声を上げた。
「お前……?」
「力を手に入れたのよ。これで私は、トゥルカーナよりも大きな星に行くことができる」
 楽しそうに、満足そうに。
 これまで異質な力の片鱗も感じさせなかったシュウランの変貌に、フラッシュは言い知れぬ嫌悪感を覚えて睨みつけた。彼女は王宮で共に働く戦士として信頼していた仲間だ。自分と競えるほどの腕の持ち主。いま見せたような力を隠していた、ということではないだろう。彼女は変わったのだ。何かを捨ててしまった。
「力、だと?」
 理解不能な言葉に、フラッシュは声にも険を含ませて問いかける。シュウランから離れると自分の剣を呼び出して構える。シュウランはそんな行動に笑いを滲ませて頷いた。
「そう。そんな剣などよりも、もっと強大な力。貴方の大事なお姫様を殺して、手に入れたの」
「お前が、イリューシャを……?」
 シュウランの言葉に凍りつく。パルティアからイリューシャの死は聞いていたが、このように楽しげに言われるとまた違う。思わず呆然と問い返していた。
「直接手を下されたのは闇のお方だけれどね」
「――寝返ったのか」
「どうせ私たちは一生誰かに隷属して生きなければならない。ならば、より強い者に従うのが自分のためでしょう」
 まだ呆然としていたフラッシュだが、嫣然と笑みを零す彼女に沸々と怒りが湧きあがってきて、表情を険しくした。
 濡れた輝きを宿す衣装に、艶めく表情を浮かべる女性。
 シュウランはそのような考え方をする者ではない。質素を好み、フラッシュだけではなく、他の分隊やジュナンたちとも気さくに交流していた。
 それを狂わせた者。イリューシャを手にかけた者。
「残念ねフラッシュ。イリューシャの身代わりであるアリカも、もはや我らの手の内。この世界は滅びるわ」
「アリカは身代わりなどではない!」
 怒鳴りつけながら斬りかかるが、寸前でシュウランの姿は消えて空振りした。
「身代わりでしょう? あれほどイリューシャに生き写しで! 何も思わなかったというの?」
「アリカはアリカだろうが!」
 繰り出された円盤を避け、頭上に現われたシュウランを仰ぐ。彼女が手に入れた力とやらは重力すらも無視するらしい。
「トゥルカーナを滅ぼすなど、俺が許さない」
「お前があの方に敵うわけがないでしょう」
 おかしそうに笑うシュウランを、フラッシュは柳眉をつりあげて睨んだ。再び投げられた円盤に自分から走る。その円盤を足がかりとしてシュウランの元まで跳んだ。それはシュウランの予想外だったようだ。狼狽して逃げようとするが、剣が届く方が早かった。左肩から胸にかけて鋭い裂傷が走る。
「ちっ」
 シュウランと共に落下しながらフラッシュは体勢を立て直して着地した。シュウランはフラッシュの攻撃を受けると共に消えていた。
「シュウラン……?」
 緊張を解かずに周辺を窺ったが、彼女の気配は残っていない。逃げたのだろう。現われたときと同じように、一瞬で遠くへ移動したのだ。
 フラッシュは剣を消して拳を握り締めた。
「アリカが囚われたか」
 シュウランとは部下と上司の間柄だったが、他の隊員に比べて格段に仲が良かった。彼女も気を許してくれていると思っていた。あの襲撃を生き延びていてくれたのだと、本当に嬉しく思った。しかしそんな喜びは一瞬にして裏切られた。
「イリューシャ……」


『私は神殿の方に行くから、フラッシュは離れの方に!』
『お前一人でかっ? 無茶言うな!』
『人手が足りないなら私が行くしかないでしょう!』


 返事を待たずに駆け出した銀色の姿を見送った。なぜあの時に追いかけなかったのかと、悔やんでも悔やみきれない。
「アリカとイリューシャでは、全然違う」
 幾ら姿が同じでも、雰囲気や言葉遣いや、生きてきた経験が全く違うはずだ。
 フラッシュは心が揺れることを恐れるように強く言い聞かせた。そして顔を上げる。
 周囲はシュウランの攻撃ですっかりと見通しが良くなっていた。バールは来ない、という言葉を思い出して表情を険しくさせる。シュウランが来たからこそバールたちは来ないのだろう。その安心がいつまで続くか分からないが、ひとまずは好都合だ。今のうちに第三皇女を迎えに行かなければいかない。報告する義務がある。
 フラッシュは新たな決意を胸に、走り出した。