第三章

【三】

 延々と続く石廊下。窓がないため薄い闇が立ちこめ、広さもないため妙な圧迫感で息苦しさを覚える。
 アリカは走ることをやめて歩いていた。
 最初こそ見つかることを恐れて慎重に進んでいたのだが、行けども行けども誰にも会わない。ときおり強く抜ける風がアリカの髪を攫い、その風にも人の気配を感じない。先ほど会った人物たちの方が夢だったのではないかと思うほど、何の気配もない。
「曲がり角すらないなんて」
 アリカは呟いた。
 水晶の森を抜け出してから今まで、分岐点もなかった。ひたすら歩いているだけで、進んでいるのか戻っているのかも分からなくなる。昏い焦燥が首をもたげようとする。長い時間をただひたすら歩き、アリカはようやく周囲の変化らしい変化に気付いた。
 足元が霞む薄闇に呑まれて歩いていたのだが、少しずつ明るくなっている。気のせいだろうかと思ったが、進むごとに周囲の闇は払われていく。
 希望と呼べる変化にアリカは顔を輝かせ、強い喜びに笑顔を浮かべた。
 前方に見えたのは四角い光。
 強く輝くそれは出口の光。
 遥か遠くにようやく見出せた一点の希望。それはまだ小さいけれど、アリカは息を弾ませてそちらに走った。
「やっと誰か」
 出口から飛び出したアリカは顔を曇らせた。

 枯れた庭園。
 荒れた建物。
 風は冷たく景色は沈む。

 瞳に映るのは死に絶えた王国の姿だった。
「城……?」
 アリカは出てきた出口を振り返り、その全貌を見上げた。
 天高く聳える城壁。
 数歩離れて詳細を見渡す。教科書に載っているような、どこか古城のような様子。歴史を感じさせる建物。
 アリカは瞳を翳らせた。ここはもしかしてパルティアたちが暮らしていたという王宮だろうかと思う。サラ=ディンの道がそのような場所まで繋がっているとは思えないから、恐らく道は故意に歪められたのだろう。
 庭園を見渡して、何気なく中央へ歩き出す。
 庭の中央には、円を描いて一段高くなっている石の舞台があった。それを囲むように花々の残骸が落ちている。色とりどりに咲き誇っていただろうそれらは、今ではドライフラワーのように時を止めて花弁を散らせているだけだった。最後の観客が現れたと満足したのか、悪意的な風によって花は粉々に砕かれ飛ばされていく。
 この場には誰もいない。
 庭は広いがそれだけだった。囲むように高い塀が聳えており、他の扉はどこにもない。塀を越えていくなど到底不可能に思える。
 落胆した。再び廊下に戻って、反対側へと進む気力はなかった。
 アリカはしばらく抜け道を探していたが、疲れて石の舞台に腰を落とした。
 昔はどのような人たちがこの庭園を訪れていたのだろうか。荒れた今の景色からは想像もつかない。
 頬杖をつき、城を見上げる。
 すっかりと朽ちて今にも崩れ落ちそうな気配だ。城壁の一部には緑色の苔が隙間なく生していた。その上から覆うように、紫色に変色した蔦が伸びている。パルティアたちが城を脱出してから何ヶ月も経っている訳でもあるまいに、なぜこうも荒れ果ててしまっているのだろうか。
 アリカは石の舞台に仰向けとなった。
 広がるのは曇天。
 暗澹たる気配が立ち込めていて、王宮から見上げる空は、ジュナンたちと見上げた空よりも息が詰まる。
「異属間の忌み子」
 言葉に当てはまる意味をアリカは知らない。この場所からどうやってジュナンたちの所へ戻ればいいのか、方法が分からなくてアリカは瞼を閉じた。
 独りには慣れている。
 何の気配もなかった水晶の森に比べれば、ここには風の気配も闇の気配もある。
 家にいた頃は、食べて眠る以外に何もなかった。テレビは付ける意味を持たず、朝の登校時間を知らせるための時計と化している。トゥルカーナは確かに命の危険を伴う場所だけれど、何もないあの家よりは余程いいと、そう思っていたはずなのに、今は誰も隣にいない。時が止められたような王城の中。アリカは自分の時すらも止まっているような錯覚に陥った。
 そんな中で不意に体を起こす。
「……どこ?」
 呟いて辺りを見回す。何かに操られるように立ち上がり、出口とは別の城壁へ近づいた。アリカの腕に嵌められた腕輪が淡く光を纏っていたが、アリカはそれに気付かなかった。恐る恐る城壁に近寄って耳を澄ます。
「歌?」
 どこかで聞いたことのある歌声がアリカの耳に届いていた。
 それには“歌”と呼べるような旋律も音階もない。他の誰かが聞けば、老婆が掠れた声で囁いているとしか思えない程度の物だった。けれどアリカの耳にだけは、確かに本来の“歌”として届いたのだ。
「誰?」
 閉ざした瞼裏に女性の姿が浮かんだ。
 薄暗い部屋に一人で、座り込んで歌う女性。黄金色の髪は、光の薄い場所でもキラキラと輝いて、凛とした強さを伝えてくる。
 アリカは不思議に思うこともなく聞き惚れた。懐かしくさえ思えるその歌を自分でも口ずさむように歌い、ふと気付く。トゥルカーナに呼ばれる前に聞こえていた歌と同じなのだ。声は違えど旋律は一緒。
 誰だろう。この歌は何なのだろう。特別な意味を持つものなのだろうか。
 知りたい、と思ったアリカの体が淡い光に包まれた。瞳を閉ざしていたアリカはそのことに気付かないまま、アリカの姿は庭園から消える。
 アリカは突然バランスを崩したことに驚いて目を開けた。
「――わっ?」
 宙に出現したアリカは落下する。大した高さではなかったが驚きが大きい。周囲を暗闇に包まれていて目を瞠る。
「な、何これ? 何でいきなり夜?」
「誰?」
 驚愕したアリカの耳に掠れた声が届いた。
 混乱していたアリカは息を呑む。先程までは確かに誰もいなかったのに、一体誰なのか。
 闇の向こう側から姿を現した女性はアリカを認め、驚いたように瞳を見開かせた。
「イリューシャ……」
 緩く波打つ金の髪に白い素肌。纏う衣装は汚れていたが、凛とした態度は気品を漂わせていた。
「あ、の?」
 静かに泣き出されて困惑した。目の前の女性が、先ほど瞼裏に浮かんだ女性だと気付くまでかなりの時間を要した。
 イリューシャという名前をどこかで聞いたことがあると思って首を傾げ、思い出す。
 水晶の森に現れた男も言っていた。フラッシュとパルティアからも聞いた覚えがある。
 トゥルカーナ第二皇女の名前だ。
 黄金色の気配を纏った女性は涙に濡れた頬を軽く拭って微笑み、首を振った。
「イリューシャが喚んだのは貴方なのですね? 名を教えて下さい」
「アリカ……です」
「そう。ありか」
 女は何事かを思案するような表情となるが、直ぐに払拭させるとアリカに微笑みを向けた。
「私はトゥルカーナの第一皇女、エイラ」
 名を明かされ、驚いたアリカはそこでようやく、自分とエイラを隔てる鉄格子に気付いた。近づこうとしたら手をぶつけた。
 まるで牢屋の中である。
 第一皇女だという彼女がなぜこのような場所にいるのか、アリカは怪訝に思ってパルティアの言葉を思い出した。第一皇女は囚われたのだ、と。
「貴方が……?」
「ええ。せっかく訪れてくれたというのに、このような世界でごめんなさいね」
 優しい言葉に胸が詰まった。向けられた微笑みが儚くて、アリカは必死でかぶりを振る。
「どうすればそこから逃げ出せますか? 私、貴方を連れて行かなくちゃ。みんな、貴方を心配していたんです」
「みんな?」
 アリカは鉄格子に縋りついて訴えた。首を傾げたエイラに何度も頷く。
「そう! ジュナンも、ルエも、パルティアも、フラッシュだって! トゥルカーナにはまだ彼らがいます。諦めるのは早いのよ」
 エイラの瞳には昏い光が宿っていた。その光をアリカは知っている。それは絶望という光だ。
「絶対、トゥルカーナを救うから」
 アリカの言葉にエイラは双眸を瞠らせた。強制されている訳ではないアリカの言葉に、エイラは再び涙を零す。
 意図せずアリカはイリューシャに似ていた。姿だけではなく、言動までもがそっくりなのだ。常に希望を与え続ける強い存在。エイラは断じるアリカにイリューシャの影を見て顔を歪めた。
「――ごめんなさい」
 その言葉の意味が分からず、アリカは首を傾げてエイラを見た。しかしその意味を考えるよりも先に、エイラを出してあげなければと身を乗り出す。
「私はどうすればいい? どうすればそこから出られますか?」
 けれどエイラは首を振った。
「ここからは出られない。私がここを出てしまったら、トゥルカーナは直ぐに滅ぼされてしまう」
「……え?」
 エイラはそれまでの儚げな雰囲気を覆す、強い光を宿してアリカを見つめた。
「あの男の力はとても強大で、この王宮から出さないようにするだけで精一杯なのです。私がここを動いてしまったら、あの男は直ぐに自由を取り戻す」
 エイラは持てる力全てであの男をこの王宮に封じ込めているのだと告げてアリカの手を取った。
「これが私の役目なのです。だから、アリカと一緒には行けないわ」
「でも……」
「私の心配は要りません」
 微笑んだエイラに泣きたい衝動が胸を衝いたけれど、許されない。置いていけと言われることが辛かった。
 アリカの心情を察したのか、エイラは困ったように苦笑した。
「私の結界なんて本当は効いていないのかもしれない。あの男にとっては遊びにしか過ぎないくらい、あの男の力は強大なのです。私を生かしていることも、きっとただの気紛れに過ぎない。けれど、そうやって私たちを侮っているからこそ、貴方たちは自由に動くことが出来るのです。さぁ行って。彼らを助けてあげて。私がここを動いてしまえばあの男も動き出す。そんな気がするから」
 エイラの手が宥めるようにアリカの額に触れた。優しいその手に、アリカは何も言えなくなる。
「貴方一人では何もできない。けれど……貴方は、もう独りじゃないでしょう?」
 アリカは双眸を見開かせた。
「パルティアに伝えて。トゥルカーナに住む者たち全てが私たちの誇りだと」
 エイラは不思議な表情で微笑んだ。痛みを穏やかさを内包する瞳で。
「アリカ。彼らはきっと貴方を助けてくれるわ」
 そう言うとエイラは表情を改め、声音を硬くさせた。
「さぁ行きなさい。出口まで私が導きます」
 口を開いたアリカの言葉を待たず、エイラは力を揮った。
 アリカの姿が牢獄から消えるとエイラは瞼を閉じる。
「どうか……」
 その先に何を願うのか。
 エイラは緩くかぶりを振った。