第三章

【四】

 エイラに触れられた場所が熱い。体全体が温かな空気に包まれたと思った途端に熱が消えた。
 風景は一瞬にして切り替わる。
 アリカはまたしても薄暗い場所にいた。
「エイラ、さん?」
 先ほどとは違い、壁には松明が掲げられていた。どこかの洞窟であるようだ。くり抜かれた通路は橙色に揺れている。
 エイラの応えは返らない。そのことにアリカは瞳を歪める。彼女の言葉を思い出しながら拳を握り締めて前を見据える。自分の力が足りないことは重々承知している。だから、一刻も早く皆のところへ戻る必要があった。エイラのことを伝え、今度は皆で助けに来る。
 アリカは歩き出しながら心に誓う。
 松明は揺れていた。身体には感じないけれど風が流れているのか。
 アリカは無感動に思いながら、風が吹いてくると思われる方へ向かい、ため息をついた。こうも暗闇ばかり続くと気が滅入る。そういえばトゥルカーナに来てから一度も太陽を見ていない。灼熱の太陽が懐かしかった。今まで一度としてそのようなことを思ったことはないというのに、不思議な話だ。これもトゥルカーナに来た影響なのだろうか。日本にいた頃より遥かに心は軽い。
 取り止めもないことを滔々と考えながらしばらく歩いていたアリカは表情を綻ばせた。進む先に光が見えたのだ。松明とは明らかに違う自然光だ。逸る心を抑えて足早に向かう。
 そうしながらアリカは、どうやって皆のところへ戻ろうかと考えた。この王宮がトゥルカーナのどこにあるのか分からず、ルエのところまで戻ろうにも道順が分からない。外に行けば地図が立っていないかと都合のいいことまで考える。
 アリカは不意に、視界を赤い影が過ぎった気がして足を止めた。表情を強張らせて立ち尽くす。
 洞窟の出口は目の前だというのに行くことが出来ない。
 立ち塞がるように現われていたのは、赤い髪をして角を持つ男だった。
「バール……!」
 アリカは絶望に呻く。
 洞窟の外からアリカを見つけたバールは嬉しげに顔を歪める。
 アリカの中に警鐘が鳴り響いた。恐怖に染められ逃げ出したいが、足は動かなかった。その間にもバールはアリカに突進してきた。
「っ!」
 爪を避けて尻餅をついた。
 アリカの背後に降り立ったバールは直ぐさま次の攻撃を仕掛ける。鋭い爪を振りかざす。
 荒い呼吸。早鐘を打つ心臓。
 アリカは地面に転がって二撃目を避けた。
 急いで立ち上がるが力が入らない。バランスを崩して後ろに傾いたアリカの背中に洞窟の壁が当たった。
 バールは二度の攻撃を避けられて不機嫌そうな表情をしていたが、どうせ逃げられないと知っているのか、気を取り直したように愉悦を浮かばせてアリカを振り返る。怯える獲物に笑みを洩らす。
 アリカの首を狙って繰り出された爪は再び避けられた。尖った爪が壁に突き立つ。首をひねってなんとか避けたアリカだが、バールに肩を押さえつけられて、もう逃げられないことを悟った。
 『死』という言葉が脳裏に浮かぶ。
 アリカは双眸を瞠らせた。銀の瞳に恐怖が宿る。トゥルカーナに来てからのことが走馬灯のように脳裏を過ぎる。バールの爪が振りかざされる。その動作をスローモーションのように見たアリカは、記憶の最後に残った誰かの微笑みを思い出していた。先ほど出会ったエイラのようにも、フラッシュのようにも、パルティアのようにも思えた。
 アリカは衝動のまま力いっぱい腕を振り上げていた。
 縛られていた時が動き出す。
 アリカの肘はバールの顔に当たり、緩んだ力からアリカは逃げ出す。転ぶようにしてバールから離れる。
「死なない……絶対、死なないから……」
 早い鼓動のせいで頭が痛い。その痛みは思考を圧迫して視界が暗くなる。胸を押さえて肩を怒らせる。
 一方、殴られたバールはよろめいて唸り声を上げた。
 その声に身体を竦ませたアリカは周囲に視線を投げる。
 出口はバールの背後にあった。しかし距離は短い。バールを掻い潜って出口に向かうことは困難だ。だが、できないことではないような気がした。バールに背を見せた瞬間に殺されてしまうかもしれない。それでも、皆の所へ戻らなければいけない。
 どうしようという言葉ばかりが堂々巡りする。
 どうしたら皆の所へ行けるのだろう。自分ではこのバールに決定打を与えられない。フラッシュのように剣を持っている訳ではない。パルティアのように不思議な力を操れる訳でもない。ただ逃げ惑うだけ。それにも体力の限界がある。
 逡巡しているうちに再びバールが迫った。
 アリカは息を詰まらせ頭を庇うように腕を上げた。偶然にも、ルチルから貰った腕輪に爪が当たる。アリカはその腕を振り上げた。爪の軌道を逸らせてバールを蹴り飛ばす。だがバールはアリカを警戒していたのか、今まで通り易々とはダメージを与えられない。防御力を増した硬い筋肉に当たっただけで、バールは直ぐに次の攻撃を繰り出す。速度は上がっていた。
 アリカは必死で避けながら考えるが、妙案など浮かんでこない。
 なんとかしなければいけないのに。
 アリカが苛立ちを覚えた頃だ。逃げ続けるアリカを追いかけていたバールが、不意に倒れた。
「え……?」
 アリカは突然のことに驚いた。荒い息をつきながら倒れたバールを見る。何の罠なのだろうと思ったとき、バールの背中に何かが突き立っていると知る。細長いそれは棒のようだ。バールはそのまま一度も動くことはなく、消滅した。
「消えた……?」
 アリカはその場に座り込んだ。一体何が起こったのか分からない。足に力が入らない。
 そのとき優しい声が聞こえた。
「大丈夫かい?」
 懐かしい声だった。
 アリカは驚愕して顔を上げる。
「良く頑張ったね」
「ジュナン!?」
 落ち着いた声音に多少の違和感は拭えないまでも、快活に笑う青年の姿を思い浮かべながらその姿を求める。けれど顔を上げた先に立つ青年は、ジュナンではなかった。髪の長い華奢な青年だ。アリカよりやや背が高い。
 一瞬、自身に向けられる瞳がジュナンを連想させたが、彼はジュナンではなかった。
 恐らく洞窟の外から入ってきて、襲われているアリカに気付き、助けてくれたのだろう。青年はアリカの声に面食らったような顔をした。
「ジュナンを知っているの? 貴方は――誰?」
 弓を手にした青年はアリカに近づくとしゃがみこんだ。そのさなか青年の瞳がアリカを探るように見ていたことに、アリカは気付かなかった。しゃがみこんで再びアリカに向けられた瞳は秘密を覆い隠す。
 この人は弓でバールを倒したのかと、アリカは息を整えながら思った。
「僕はリィー=ザウェル。貴方が知っているジュナンとは、ティー=ジュナンのことですよね?」
「はい」
「ティー=ジュナンと僕とは、双子なんです」
「双子……」
 それならば声が似ているのも、顔が似ているのも、納得がいった。
 アリカはようやく呼吸を落ち着かせて胸を撫で下ろす。ザウェルを見上げる。
「私は、アリカ。ジュナンとはルエのところで会いました。貴方のことをとても心配していました」
 アリカの言葉を聞くとザウェルは嬉しそうに、どこか泣きそうな表情で微笑んだ。
「無事、だったんだな」
 アリカは頷く。
「ええ。フラッシュも、パルティアも、サラ=ディンも」
 ザウェルの声に嬉しさが滲むことが嬉しくて、アリカは更に続ける。ザウェルは連ねられた名前に驚愕したように叫んだ。
「フラッシュ! 彼も無事なのか?」
「ええ」
 アリカはしっかりと頷き返す。
 ザウェルは微かに顔を上げ、瞳を歪め、その場に完全に腰を下ろした。瞳を固く閉じて微笑みを刻む。
「良かった……。あのとき大怪我して別れたっきりだったから、心配していたんだ」
 アリカは首を傾げた。フラッシュと初めて会ったときのことを思い出そうとしたが、回想に浸る間もなくザウェルに促されて立ち上がった。
「僕のことはザウェル、と」
「はい」
 この人と一緒に皆のところまで行こう、と。アリカは微笑んで頷いた。彼に導かれるまま歩き出し、洞窟の出口へ向かう。
 待ち望んだ外だ。
 けれど洞窟を抜けたアリカは、眼前に広がった光景に愕然として絶句した。
 断崖絶壁。
 それ以外に表す言葉をアリカは持たない。
「これ……」
 道はどこにも続いていなかった。深い谷に取り囲まれ、風の唸り声が静かに響いていた。谷はどこまでも深い。暗い闇が漂って、底が見えない。
 アリカは周囲を見渡し、自分の位置が、城の地下にあたる部分なのだと理解した。城は孤島のようになっている。遠くには薄っすらと陸が見えている。
「ここは王族の脱出路になっているんだ。常なら橋が張り巡らされているんだが、襲撃があった日にみんな落とされてしまってね。ご覧の通り、今は見晴らしがとてもいい」
 苦笑したアリカは近くに階段を見つけた。遥か谷の下まで続いているようだ。
「これって、どこまで続いているの?」
 階段を指して問うと、ザウェルは考え込むように顎に手を当てた。その様はジュナンを連想させるもので、アリカはふと瞳を細める。知らぬ悲しみが胸を衝いた。
 アリカはザウェルから視線を逸らすと階段に定めた。階段の幅は狭い。谷は深い。できるだけ下を見ないよう努めながら壁に体を寄せる。谷から吹き上げる風が体を攫っていってしまいそうだ。
「かなり深かったな。下に着くまで一日かかった」
「いち……っ」
 アリカは絶句した。
 なんて気の長い話だろう。
 飛び降りれば一瞬で済むのにと考え、冗談ではないとかぶりを振る。
「ここから脱出したのは誰もいないみたいだった。一応下まで行って確かめて、今登って来た所だったんだ」
 ザウェルはアリカの様子に軽く笑いながら階段に腰掛けた。いつの間にか彼が手にしていた弓が消えている。フラッシュが手にしていた剣も自由に取り出しが出来ると言っていたから、彼の武器もそうなのかもしれない。
「アリカ。僕は王宮からほとんど離れてないから外の状況が良く分からない。教えてくれないか?」
「ええ」
 アリカは戸惑いながらも、同じように階段に腰掛けて頷いた。
「誰が生き残っていた?」
「私が会ったのは――ジュナンにルエ、パルティア、フラッシュ、ルチル、サラ=ディン」
「うん」
「最初にジュナンに会って……私はルエのところに連れて行かれたの。そしてそこで、皆を捜そうということになった。そのときパルティアがルエを訪れた。彼女はイオの森から来たと言っていて、そこではサラ=ディンがまだ生き残っているから……彼と合流するついでに、他にもまだ生き残りがいないか確かめようとイオの森に行ったのよ。でも途中で私とパルティアはジュナンと逸れてしまった。そして私たちはバールに襲われたの」
「……パルティア」
「ええ。凄く元気な女の子でね、綺麗な宝石の髪飾りでツインテールにしていて、凄く……強い女の子」
 アリカの言葉の途中でザウェルは笑みを零した。アリカが不審に思う間もなく先を促す。
「私は途中で倒れちゃったからどうなったのか分からないんだけど、気付いたらバールはいなくなっていて、そしてルチルっていう精霊に会ったの。トゥルカーナの聖気が薄れたせいで姿を保てなくなって、彼女は消えてしまったんだけど……次はフラッシュに会った。彼はジュナンと合流したって言ってた。ジュナンは無事なんだと思う。でも、そこでまたバールたちに襲われて、ええと、サラ=ディンには会えたんだけど、私は先にジュナンのところまで戻るように言われてサラ=ディンの道を通っていたんだけど、バールに襲われたみたいで。ここに、連れて来られたみたい」
「連れて来られた……?」
 ザウェルの瞳が不審を含んだが、アリカは気付かず視線を落として頷いた。そして続きを思い出そうと唇を開いたが、不意に顔を上げるとザウェルに体を乗り出した。
「私、第一皇女のエイラさんに会ったのよ!」
 大声で告げた。
「エイラ皇女……生きて、いたのか?」
「ええ。もちろんよ!」
 ザウェルの瞳がまた驚愕に見開かれるのを見ながらアリカは力強く頷いた。
「牢のような場所に捕らわれていた。一緒に逃げようと言ったんだけど、結界を張ってるから彼女は動けないと言って……私だけ、この洞窟にいたの」
「……結界。そうか。なるほどね。それで納得だ。なぜバールたちしか動かないのかと思っていたけど、エイラ皇女が食い止めてくれていたんだ」
「ええ。でも時間がないの。エイラさんは、自分が無事でいられるのはあの男の気紛れだって言ってた。これは単なる遊びなんだって」
 だから早く、あの男とやらの気が変わる前に、エイラを皆で助けに行かなければいけない。
「ふん。ならそうやって油断させてる間になんとかしないといけない訳だ。分かったよ」
 立ち上がったザウェルは剣呑な声で呟いた。ジュナンと同じ栗色の瞳には怒りがきらめく。仲間が殺されていくのを遊びと言われてしまえば、怒りが湧くのも当然だろう。
「早くフラッシュたちと合流しなくちゃいけないわけだね」
 立ち上がり、砂を払いながらアリカは頷いた。
「ええ。行きましょう」
 しかし階段を下りようとするアリカを、ザウェルは呼び止める。
「まさかその長い階段を下りていくつもり? 時間の無駄でしょう」
「え、でも、他に道なんてない……でしょう?」
 橋は落とされたと聞いたばかりだ。道は階段しかない。他は絶壁ばかりだ。それとも洞窟に戻り、他の道を探すというのだろうか。
 問いかけたアリカを、ザウェルは訝るように見返した。
「僕のこと、知らないの?」
「え?」
 首を傾げたアリカの目の前で、純白の翼が広がった。
 アリカは瞳を瞠る。
 ジュナンの背中に一度だけ見た翼と同じ。大きな翼だ。それは人一人抱えて行くくらいなんともないような力強さを感じさせた。
「飛んでいくに決まってるでしょう」
 ザウェルはアリカの手を取って微笑んだ。
 ジュナンと双子だという彼なら翼があってもおかしくなかったのだ。アリカはすっかり失念していたことを思い出し、腕を引かれるまま彼に抱き上げられた。一度大きな羽ばたきが聞こえたと思った瞬間、強い重力が体にかかった。その圧力に息を詰める。固く瞳を閉じる。その圧力はすぐに消え、瞳を開けたアリカは瞬かせる。すでに天空高く舞い上がっていた。遥か遠くに城が見える。眼下に聳える大きな城は、どこか黒く、かすんで見えた。
「ルエ――カリュケの森だね」
 ザウェルは独り言のように呟いて翼を大きく動かす。空気を孕んだ羽毛の一枚一枚が柔らかく膨らむ。充分な風をまとったところで、ザウェルは勢いよく風を切った。
 衝撃が少ないように抱えられたアリカだが、それでもかかる風圧に瞳を閉じて息を詰める。ザウェルも黙っているため、アリカの耳には風の音しか聞こえなかった。耳鳴りのような高い音が脳裏に木霊している。
 耐えるように瞳を閉じていて、だからアリカは気付かない。ザウェルが微かにため息を零し、腕に抱くアリカを見つめていたことを。
 ――最初に見たときはイリューシャだと思った。
 ザウェルはアリカを見つめながら独白を胸中に零す。
 ――けれど身に纏う衣装と逃げ惑う様子、そしてジュナンの名を呼んだときの表情から『違う』と疑った。『アリカ』だと名乗り、出会った人々を嬉しそうに、顔を輝かせて説明するその様子から、ザウェルの胸には「イリューシャではない」という確信が生まれた。
 イリューシャが死んだことは伝え聞いていた。
 この少女は誰なのだろうと、ザウェルはアリカに視線を落として瞳を細めた。そしてその視線を再び前に向けた。トゥルカーナに広がる森を、残像すら残らぬ速度で飛んで行く。
 ジュナンは無事だろうか。
 別れたっきりの姿を思い浮かべて思う。
 ――もうすぐ貴方に会える。双子の片割れ。
 遠く見えてきたカリュケの森にその気配を感じ取り、ザウェルは軽く微笑んだ。