第四章

【一】

 渡された荷物は柔道着でも詰め込まれているかのような袋だった。日本を思い出しながら何となく可笑しくなって笑みを零すと、荷物を配っていたジュナンが視線で問いかけてくる。アリカは微笑みながら首を振り、そのまま黙って肩に掛ける。
「とりあえず食糧は限界まで詰め込んだ」
 渡し終えたジュナンがフラッシュに告げる。
 肩にかけていた荷物を確認してみると、替えの服や救急道具とは別に、食糧が透明な袋に詰め込まれている。パッと見た感じでは、そのほとんどが木の実らしい。
「じゃあルエ。私たちがトゥルカーナを救うまで、頑張って生き残っていてね」
 パルティアからの笑顔に、ルエは複雑な表情で頷いた。これが他の者の言葉だったらずいぶんと違う反応をするのだろうなと思いながら、アリカはルエ本体を見上げる。当初感じた自然の威圧感は消えていない。それだけ見ればルエが弱っているとは考えられないが、辺りに立ち込める闇は確実に増えていた。
「お前ら、言っておくが」
「分かってるって。俺たちでちゃんと護るから、お前はお前の心配だけしてろよ!」
 未練そうに低い声で唸るルエへ、ジュナンは鬱陶しそうに手を振って言葉を掻き消した。ルエは非常に不服そうな顔でジュナンを睨み、パルティアを見つめる。フラッシュはそんなやり取りに興味がないらしく、既に先頭を歩き出していた。パルティアとアリカがルエに最後の挨拶をして追いかけて、その後ろをジュナンとザウェルが追いかける。
 ルエはその後姿をいつまでも見送り、溜息をつくと姿を消した。
 ルエから離れて少し進んだだけで辺りの様子が一変する。サラ=ディンを助けようとイオの森に向かった道とは少々違い、荒野に出ることもない。アリカが最初に現われた、闇に犯された森でもない。
 気付けばいつの間にか立ち込めている霧。
 アリカは顔をしかめたまま、手で掬うような仕草を見せた。
「霧の中を進むのって、危なくないの?」
「そりゃ危険だけど他に道がないんだ。仕方ないだろう。ここにはもう危険じゃない場所なんてどこにもないんだぞ」
 後ろを置いていかないよう歩調を調節しながらフラッシュが振り返った。彼の表情には気負いが全く見られない。周囲への警戒はしているだろうが、そんな素振りも見せなくて、頼もしく思う。
 振り返った笑顔を見ながら、アリカは出来るだけの警戒は自分でもしようと決意を新たにした。足元に溜まる闇を蹴散らすように歩く。
 フラッシュが前へ視線を戻すのに合わせ、アリカは隣を歩くパルティアを覗き込んだ。大きな髪飾りが一番に視界に入り、視線を下ろしていくとパルティアは地図を覗いている。指針を失わぬように視線で現在地を確かめるように追っていて、こちらもまた頼もしく思った。
 アリカもその地図を眺めながらふと気付く。
「ねぇ、街ってないの? 森とか谷とかしか地図にはないみたいだけど」
「街?」
「あえて言うなら、王宮が街だけど」
 答えたのはパルティアとジュナンだった。返された答えにアリカは沈黙する。眉を寄せながら複雑に言葉を探す。
「トゥルカーナって、もしかして人口少ない……?」
「少なくはないだろう。正確に統計取ったことはないが、一億は越してるんじゃないか? 王宮一区画だけで千は越えるからな」
 枝を拾いながらフラッシュが振り返った。
 ルエを離れてからさほど経ったようには思えないが、振り返っても既にルエは見えない。真っ白な霧に覆われて視界が悪く、進むごとにそれは濃くなっているようだった。
「皆して好き放題に暮らしてるからな。奴らがどこにいるかなんて、さっぱりだよ」
 ジュナンが笑う。
 トゥルカーナに定住しているのは、王家に連なる者たちと、その身辺を護る者たちだけだ。後は思い思いに移住して暮らすのが実情であるらしい。
「それって、不便じゃないの?」
「でも、好きな所で好きなように暮らせるし。住んでいそうな場所は分かってるし、不便を感じたことはなかったなぁ」
 肩を竦めて気楽な声を出す。ジュナンにもまた気負いなどないようだった。
「アリカの世界は? 平和だったんだろ?」
 ジュナンの言葉に視線がアリカに集まった。突然の集中を浴びたアリカは居心地が悪くて首を竦める。
「平和……」
 反芻し、日本を思い浮かべ、その言葉が持つ意味に違和感を覚えた。
 確かに自分の住んでいた場所は何事もなく平和だったけれど、と首を傾げた。
 黙り込んだアリカをフラッシュがもう一度視線だけで振り返り、確認する。
 ――異世界からの召喚――
 ジュナンから聞いた言葉を反芻させる。
 このトゥルカーナにイリューシャと瓜二つの容姿を持つ者がいたなら話題になっていたはずだ。そういう意味でアリカは確かに異世界から招かれた者なのだろうと納得できた。
 けれど、星が異世界から召喚する時は決まっており、この星の者ではどうにもならない事態に陥った時だけだという話だ。トゥルカーナとは全く別の意志でここへと来る者も、いることにはいたが、アリカに限ってはそれから外れる。
 ――トゥルカーナの者ではどうにもならない――
 フラッシュはその言葉を脳裏で反芻させた。
 ならアリカに課せられた役目は何なのだろう。飛ぶことも出来ず、高い所から落ちれば簡単に骨を折り、特別足が速いという訳でもない。まるっきりただの人間であるアリカに何が出来るというのだろう。
 その自問に答えは出ない。フラッシュは先程から拾い集めていた枝を抱え直して最後尾のザウェルを振り返った。
「カリュケはどれぐらいで抜けられる?」
「人の足で一日は掛かるんじゃないかな」
 そうか、と呟きながらフラッシュは辺りを見回した。枯木ばかりのこの森では自然食を期待できそうもない。ジュナンたちが詰めた保存食は早々に役立つだろう。
「カリュケにはルエが存在している限り消えない泉が点在していたはずよ。野営するなら、それ以外は駄目」
 二人のやり取りを聞いていたパルティアが、昔習った授業を必死で思い出しながら口を挟んだ。教科書にあった地図を脳裏に描き、現在地から一番近いのはどこだろうと思いを巡らす。けれどパルティアが答えを出す前に、フラッシュが思い出したように声を上げた。
「ああ。カリュケの泉なら、森の出口に一つあったな」
 先に言われてしまったパルティアは唇を尖らせて「ええそうね」と素っ気無く同意した。アリカは笑いを零す。
「何でそこ以外は駄目なの?」
「邪気が蔓延する中で野営なんかしたら、襲ってくれって言ってるようなもんだろ。あの泉なら聖気が吹き出てる。他の場所よりは安全に休めるはずだ」
「ふーん?」
 詳しいことは分からないが、そんな物なのかとアリカは軽く頷いた。
 パルティアは手にしていた地図を袋に入れて、アリカと手を繋ぎ直す。その小さな手をしっかりと握り締めながら、アリカも前を見据えた。


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 サアァ――という涼やかな音にアリカは表情を寛げた。久しぶりに綺麗な空気に触れたような気分である。ルエの大樹やルチルの大湖に似た清浄な空気がアリカたちを誘っているようだった。
「水の音……」
「もうすぐね」
 パルティアも安堵したように笑みを見せ、アリカに返した。
 しばらく歩いていくとその音は更に大きくなる。枝に遮られていた視界が急に広がった。
 霧は晴れ、翡翠の生気がその場で舞い踊っている。細かな飛沫を散らせる泉には幻想的な虹がキラキラと輝いて、皆を歓迎しているようだった。
「今夜はここで野宿な」
 誰にも否はない。
 皆はフラッシュの言葉に荷物を下ろし、泉の前に陣取った。
 アリカも同じくして泉に顔を映す。濁りなく底まで見通せる泉は、ルチルが護っていた場所を連想させる。どこかで彼女と繋がっているのかもしれない。清冽な気配を感じる。バールたちの侵入はないだろうと確信した。
 隣で弾けた割れる音に視線を向けると、パルティアが保存食の木の実を割っているところだった。
「味はしないけど栄養はいいから。食べておいた方がいいわよ。王宮まで何があるか分からないしね」
 言われたアリカは荷物袋を漁って木の実が入った透明な袋を取り出す。
 ルエの樹に生っていたゴバの実だ。けれどもパルティアは何の苦労もなく次々と硬い殻を割り、中から白い実を取り出しては脇に避けている。いつの間に用意していたのか、皿替わりにしていたのは大きな緑の葉っぱだった。
「どうかしたの?」
 袋を持ったまま立ち尽くすアリカに、パルティアは首を傾げる。アリカは小さなパルティアの手元をジッと見つめていた。微かに眉が寄っている。
「ルエの所を出てくる前に、フラッシュに渡されて割ろうとしたことがあったの。彼は簡単に割ってたように思えたんだけど、凄く硬くて、私の力じゃ割れなかった」
 少し唇を尖らせながら告白する。パルティアの隣に座り込んで再び彼女の手元を凝視するが、パルティアの小さな手にはまるで力など入っていないかのようだ。彼女の手の中で実が回転すると、もう割れている。何かコツがあるのだろうか。
 パルティアが小さく笑いを漏らした。
「そうね。力技で割れるのはフラッシュくらいなものだと思うわ。私にはそんな力ないから、道具と魔法で補ってるだけよ」
「道具と魔法?」
 パルティアは割っていた手のひらをアリカに開いて見せた。彼女の親指には銀色の小さな刃がついていた。
「アリカの袋にも入ってると思うわ。これを親指に嵌めて、実の一番割れやすいところに押し当てて回すの。あまり力を入れ過ぎると怪我するから慎重にね」
 ゴバの実の天辺に刃を当ててパルティアは実を回す。次にはもう実は二つに割れており、中から白い実が覗いている。とても簡単そうに見えた。
 アリカは自分の袋を漁る。折り畳まれた布に気づいて取り出すと、中にはパルティアが持っているのと同じ指輪形式の刃があった。アリカの指には少し大きいが、実際に嵌めると指輪は大きさを変えて指にくっ付いた。刃が滑ることはなさそうだ。
 説明されたまま刃を実に当てて割ろうとしたが、手の中で実が滑り、危うく手の平を傷つけそうになる。また、パルティアは魔法で力を補っていると言っていたが、アリカにはそのような力などなく、どうしても力が必要になる。力加減を慎重にしながら実の亀裂に刃を食い込ませる。
「やった!」
 殻は硬いが亀裂に刃を入れると手ごたえがスッと消える。そのまま実を回転させると、パルティアが割っていたように、アリカも綺麗に実を割ることができた。嬉しさに歓声を上げる。
「そういえば昔、フラッシュが力技で割ってたのを見て、ジュナンが何とか自分も力技で割ろうと躍起になってたことがあったわ」
 アリカの声に笑いながらパルティアが思い出す。
「力技で割れるのって私が知る限りフラッシュくらいなの。ジュナンも初めて見たんだと思うわ。それで、戦士にはゴバの実も力技で割れるようになるくらいの力が必要なんだと思い込んで――というかフラッシュに張り合ってね。顔が真っ赤になるくらい力を込めたり、踏み潰して割ろうとしたり、石で割ろうとして反発した実がジュナンの顔に跳ね返ってきたりね」
 そんな場面は容易に想像できた。アリカも笑う。
「1週間くらいだったかしら? あまりにも指に力を入れ過ぎて、ジュナンは剣も持てないくらいに手を壊してしまって。ザウェルにはそのことを隠してたみたいなんだけど、もちろん気づかないザウェルじゃないでしょう? ジュナンとは所属している部隊が違うんだけど、ジュナンが訓練中に剣を取り落したっていう話を聞いて、その時は私と話してたんだけど、挨拶もなしに無言で離れて。そのままジュナンを叱りつけたそうよ」
「よっぽど怒ったのね」
「そうだと思うわ。それからしばらくはジュナンも落ち込んでいて、覇気がなかったもの。ザウェルも顔が険しいままだったし。フラッシュだけよ、涼しい顔してたのは。憎らしいわね」
 パルティアの言い方がおかしくて、小さく吹き出す。フラッシュには出来て当然のことなのだろう。ルエの所でも誇示することなく自然体でいた。周囲と自分の力の差も正確に理解していたようだった。けれど、彼には周囲を自分の力のレベルまで引き上げようという積極的な気持ちはなく、周囲が努力してもしなくても、どちらでもいいという雰囲気だった。
「訓練つけてる時は絶対に妥協しないのに、日常ではどうでもいいみたい」
 確かに、フラッシュもゴバの実を素手で割る訓練などつけたくないだろう。基礎体力を底上げするのとはワケが違う。手を壊すほど練習するくらいなら、割るために別の手段を身に着けた方がいい。
 フラッシュが真剣に誰かにゴバの実を割る訓練をつけている様子を想像してしまい、それがおかしくてアリカは声を殺して笑う。
「アリカ。怪我しないでね」
 パルティアが心配そうに忠告してきた。それでもおかしくて、アリカは笑いながら頷く。
 しばらくは二人並んで他愛無い話をしながらゴバの実を割っていく。
 ふと、アリカは視界の端に炎を見た気がして視線を向けた。拾い集めていた枝に、フラッシュたちが火を点けているところらしい。
 この世界ではどのように火を熾すのだろうか。
 アリカはパルティアに断って作業を一時中断し、フラッシュたち三人に近づいた。
 彼らの手元を覗き込んで目を丸くする。
 ザウェルの指が宙に円を描くだけで炎が生まれた。生まれた小さな炎は一度地面に落ちるが消えることはない。そのまま飛び跳ねて枝に抱き付き、次第にその勢力を大きくしていく。
 顔をしかめて凝視しているアリカに気づき、フラッシュが振り返った。
「どうした?」
 アリカは何と言っていいか分からず首を傾げる。
「いえ……どうやって火を点けているんだろうと思って……」
「どうって? “力”でだけど」
 当然のように返されて言葉に詰まった。どう説明したら良いか分からず困惑するアリカと、そんなアリカを訝るように見つめるフラッシュと。二人の様子を見たザウェルが楽しそうに笑い声を上げた。
「異界に僕らの概念は通用しないんじゃないか、フラッシュ」
 フラッシュは怪訝そうにザウェルを振り返った。
「異界には“力”がないってことか? でもそれじゃあ不便だろう。どうやって火を点けるんだ」
 だがその答えをザウェルは持たない。軽く肩を竦めてアリカに視線を向ける。意図せず集中を受けたアリカは焦りながら答えた。
「どうって、マッチとか、ライターとか……」
「なんだそれ?」
 フラッシュの好奇心をますます刺激したようだ。彼だけではなく、ジュナンやザウェルも好奇心を満面に浮かべてアリカを見つめる。詳しい説明などできないのだが、アリカは身振り手振りで何とか彼らに説明する。そうしながら今後は口を滑らせないようにしようと思う。詳しい仕組みを聞かれても答えられない
 そんなアリカたちを遠くから見守っていたパルティアは、作業をすべて終えると空を仰いだ。
 アリカを王宮まで導けばすべてが復活する。トゥルカーナは救われ。元通りの日常が刻まれ始める。イリューシャもサイキ女王も戻らないけれど、エイラがいれば新たな道を進むこともできる。
 パルティアは拳を握り締めた。
 イリューシャと瓜二つの容貌をしていたアリカ。彼女を発見したときは恐怖した。あまりにもイリューシャに酷似していて。しかし、恐怖と同時に強い歓喜を覚えた。それは、今度こそ守れると思ったからだ。二回目のチャンスを貰えたと思った。
 パルティアは声もなく「ねぇ」と問いかけた。すでにトゥルカーナにはいない存在に向けて。
 心の中で呟いた問いかけに、答えてくれる声はなかった。
 パルティアは一通り木の実を選別して割ったことを確認し、立ち上がった。
「見回りに行ってくるわ」
「じゃあ僕も行こうかな」
 パルティアの後にザウェルが続いた。
 パルティアは一瞬、複雑そうな顔をしたが、ザウェルは気にしない。いつもと同じように穏やかな笑みでパルティアに従属する。
「気をつけろよ」
 二人の背中にジュナンたちが声をかけた。アリカも少しだけ表情を曇らせながら、彼女たちの背中を見送った。