第四章

【三】

 目覚めたアリカは自分がどこにいるのか把握できなかった。
 天井が低い位置にある。材質は布のようだ。肌に触れる空気は冷たいが、体温はそれほど落ちていない。毛布が防寒具として役立っているのだろう。
 体を起こすと毛布が落ちる。直ぐに冷気に包まれる。
 アリカは周囲を確認して顔をしかめた。どうやら張られた天幕の中に一人で眠っていたらしい。昨夜はフラッシュやジュナンたちと一緒にいたはずだが、途中から記憶が途切れていた。どこからが夢なのか判然としない。
 側に彼らの気配がないことに焦燥してアリカは手を伸ばした。幕の切れ目から顔を出す。辺りはすっかりと闇に包まれていた。外の空気は天幕の中と比べ、格段に低い。出した顔が凍りつきそうだ。白い息が溶けていく。
 周囲は完全に闇に支配されていたが、少し遠くに炎が見えた。その近くには誰かがいるようだ。動く小さな影が見える。
 アリカは天幕の入口で揃えられていた靴を履くと体を伸ばした。
 いま一度、周囲を確認して息をつく。
 アリカが眠っていた天幕の側には、他にも幾つかの天幕があった。どうやら置いていかれたわけではないらしい、と安堵する。天幕の数は五つ。ちょうど人数分だ。
 アリカはしばらく他の天幕を眺めていたが、誰かが起きている様子はない。近づいて起こすことも躊躇われる。小さな息をついて炎に足を向けた。距離は思ったよりも離れていて、散歩のような気分で近づいていく。闇にバールが潜んでいるかもしれないと恐れる気持ちはなかった。
 炎に惹かれて姿を現したアリカを、近くにいた人物が気付いて「ああ」と微笑みを向けた。
「起きたのか」
「……フラッシュは何をしてるの?」
「見張り番だ。さっきまではザウェルがやっていた」
 アリカが現れた瞬間だけは緊張したフラッシュだが、直ぐに相好を崩す。見張り、ということで神経を張り巡らせていたのだろう。フラッシュが焚き火をかき混ぜると炎は大きく火の粉を上げる。
「野獣はもういないと思うが、バールが来たら厄介だからな」
「火を焚いてたら狙われやすいんじゃないの?」
「だが真っ先に狙うのはこっちだろう? 休んでる奴らにまでは気付かない。俺が相手をしている間に逃げられるだろう」
「囮になってるって言うの……?」
 アリカが表情を強張らせるとフラッシュは首を傾げた。
「早い話がそうだが、俺一人だけなら負けないさ。アリカたちが安全な場所にいるっていうのが最大の強み」
 アリカは何も言えずに立ち尽くす。その様子にフラッシュは軽く笑った。
 話題を変える。
「早めに眠ったから、他の奴らより目覚めるのが早かったんだろう。そろそろ夜明けだが、あいつらはまだ熟睡中のはずだ」
「私、いつ眠ったの……?」
「俺らと話している最中だ。歩き通しで疲れたんだろう。荷物を勝手に開けさせて貰ったぞ」
 アリカが眠っている間に休む場所を整えてくれたのだ。
「……ごめん」
 謝るアリカにフラッシュはもう一度笑う。耳に心地良い低音だ。
「構わないさ。まだ寝てなくていいのか?」
「うん。眠くはないみたい」
「そうか」
 まだ立ち尽くしたままのアリカはフラッシュに招かれるまま焚き火のそばに腰を下ろした。フラッシュに火掻き棒を手渡され、見よう見まねで火をかき混ぜる。
 フラッシュはその様子を確認したのち立ち上がり、アリカの目が届く範囲で枝を拾い始めた。
 フラッシュが立ち上がった瞬間は怯えるように体を揺らせたアリカだが、彼が何をするのか悟ると肩から力を抜いた。立てた膝に顎を乗せてフラッシュの背中を見つめる。
 ――不思議な人だ、と言葉が浮かぶ。彼からはジュナンやパルティアとは違う雰囲気がする。漆黒の髪と瞳がそう思わせているのかもしれない。
 パルティアは黄色の髪で、ジュナンたち双子は明るい茶色の髪。けれどフラッシュだけは何にも染まらない漆黒。アリカが憧れ続けた日本人の色だ。けれどフラッシュは、日本人と酷似していながらアリカを排斥しない、初めての人。
「フラッシュ」
 呼びかけると直ぐに振り返る。
 それだけで嬉しくて、アリカは首を振って「なんでもない」と微笑んだ。
 フラッシュは怪訝な顔をしたが再び作業に没頭する。しかし幾らも経たずに「ああそうだ」と思い出したようにアリカの側に戻ってきた。集めた枝の半分を火にくべ、残りは脇に寄せる。そして懐から何かを取り出してアリカの隣に座った。
「木の実を割っただけで結局食べなかっただろ。パルティアが呆れていたぞ」
 アリカは首を傾げた。お腹に手を当ててみるが、空腹感はない。
「手を出せ」
 言われるまま手を差し出すと、フラッシュの手が突き出された。アリカの手の平に固い感触。見てみれば、木の実が一つ、乗っていた。ゴバの実とは違って表面がツルツルしている。栗のようだ、とアリカは思った。
「一日分の栄養と空腹感を満たしてくれる。脳にそういう信号を送るんだ」
 まるで何かの薬物のようだと思ったが、口には出さなかった。問い返されても説明できる自信がない。聞き流して木の実を割ろうとする。しかし硬い殻は、アリカが幾ら力を込めても割れそうになかった。やはりこれもゴバの実と同じなのかと睨む。
「貸せ」
 火加減を調節しながらアリカの様子を見ていたフラッシュが木の実を取り上げた。指に力を込めると簡単に割れる。しかも片手だ。彼にとっては造作もないことなのだろう。
 アリカは複雑な顔で、割れた木の実を受け取った。
「あ」
 フラッシュが声を上げたのと、アリカが木の実を口にしたのは同時だった。
 アリカが「何だろう」とフラッシュを見た刹那、木の実の苦味が口の中に広がった。それは例えるならばコーヒーのブラックを一日煮詰めたような苦さだった。
 舌が痺れるような苦味に、アリカは口を押さえて涙を浮かべた。
「……すげーな」
 必死で耐えるアリカの横で、フラッシュが他人事のように感心している。
「もぎ立ての時はそのままの方が美味しいんだが、こう時間が経ってちゃ身がしまって苦くなるんだ。成熟してないしな。煮るか焼くかすれば苦味が消えて香ばしくなる。ほとんどの奴は吐き出すっていうのに」
 それならば生のまま渡さないで欲しい。渡されたから、てっきりそのまま食べれるかと思ったのに。
 そんな声は言葉にならない。
 アリカは必死の思いで飲み込んだ。食糧がない今、吐き出すなどという我侭な行為はできない。こんなに苦い木の実だって、貴重な食糧なのだ。とはいえ、木の実を食べたときの苦味が、『吐き出す』という選択肢自体をアリカの記憶から消していた、という部分が大きいが。そんな当然のことも忘れてしまうほどの苦さなのだ。
 忘れてた、の一言で許せる苦さではない。アリカは両手で喉を押さえながらフラッシュを足蹴にした。
「悪かったって!」
 アリカの攻撃を避けながらフラッシュは笑う。荷物から水筒を取り出してアリカに渡す。アリカは奪うようにして飲み干した。
「嫌がらせなわけ!?」
 水筒の水をすべて飲み干しても足りない。泉から直接すくって飲むと、泉の浄化効果か、わずかばかり苦味が和らいだ。何度か飲んで息をつく。
「私、トゥルカーナに来てからろくなもの食べてない気がするわ」
 アリカは不機嫌な表情を作って睨みつけた。
「悪いって。ほら。こっちは大丈夫だ」
 フラッシュはまったく悪びれない様子で笑いながら火をかき混ぜた。中から転がってくるのはゴバの実だ。殻が真っ黒に焦げていて、とても食欲をそそらない。見た瞬間、アリカは「炭だ」と思った。
 アリカが半信半疑で見つめているとフラッシュは苦笑した。水筒に水を汲んで、黒い塊にかける。湯気を上げていた殻は急激に冷やされ、たまらずひびわれる。中からは湯気の上がる白い実が顔を出した。先ほどまでと反対に、食欲をそそられる香ばしい匂いが漂ってくる。
 フラッシュは殻を半分つけたままアリカに渡した。
「……今度嘘だったら、泉に突き落としてやる」
「分かった分かった。いいから食べてみろよ」
 笑いながら促される。アリカはまだ半信半疑だったが、思い切って口にした。
「あ、おいしい」
「だろう?」
 焼きたての柔らかなサツマイモのような香ばしさだ。
 フラッシュはアリカの反応に満足気な笑顔を見せた。
 気を良くした彼は、続いて取り出した木の実にも水をかけていく。
「……いくつルエのところから貰ってきたの?」
 フラッシュは次々と炎の中から木の実を取り出していく。すでに結構な数が取り出されているのに、その数はまだまだ増えていく。
「あの袋に入るだけ」
「あれ全部っ?」
 示されたフラッシュの荷物は確かに重量を感じさせた。驚愕するアリカだが、フラッシュは飄々としてかぶりを振る。
「まさか。あれ全部に詰め込めるほど、ルエには生ってなかった。せいぜい半分がいいところだろう」
「かわいそう……」
 半分といえど、その量はかなりのものだ。出発間際、ルエがフラッシュを睨んでいた訳がようやく分かった。
「心配するな。少しは残してきたさ」
 さすがにバツが悪くなったのかフラッシュは言い訳する。
「少しって、どのくらい?」
 その問いに答えは返されなかった。
 アリカは小さく笑みを零し、他の木の実に手をつける。黒く焦げた木の実は、アリカがさほど力を入れなくても簡単に割れる。できたてのそれらは病みつきになるほど美味しかった。
 しばらくその味を堪能し、緊張もほぐれたアリカは軽く伸びをした。見上げると炎の明かりが雲に映りこみ、まるで夕焼けのような光が見えた。立ち昇る煙が静かに吸い込まれていく。
 アリカは瞳を細めてその様を眺め、フッと息をつく。フラッシュに顔を向けた。
「あとどれぐらいで出発するの?」
「もう少し明るくなってからな。寝るならまだ時間があるぞ」
「ううん。今から寝たんじゃ疲れが残りそうだもの。散歩して時間を潰したい」
「それくらいの時間なら大丈夫……じゃねえだろうが」
 歩き出したアリカを見送ろうとしたフラッシュは、はたと気付いてそれを止めた。
「単独行動は厳禁だ。一回攫われといて、まだ分からないか」
「え、あ、そうか。すっかり」
 ルエを発ってから襲撃もなく、頼れる仲間たちの存在に緊張も長く続かなかったため、すっかりと忘れていた。今は非常事態だったのだ。アリカは慌てて納得する。
「あのな」
 そんなアリカの様子にフラッシュは呆れて深いため息を零した。アリカは何も言い返せない。ただ黙ったまま、元の場所に腰を下ろす。
 空は白み、夜明けは近い。