第四章

【四】

 意識の遠くで誰かが楽しげな笑い声を上げていた。脳裏に過ぎるのは真っ白なワンピース。風に翻る様が克明に浮かぶようだ。
 木々の切れ間から零れてくる光に手を翳し、胸の奥が温かいことを感じる。冷たくもなく、熱くもなく、これは何だろう。
 この場所は、私がずっと望んでいた場所。
 アリカは口元に笑みを浮かばせながら、その場所から急速に遠ざかることを感じた。入れ替わるように近づいてくるのは闇。その中で聞こえてくるのは、鋭い音。
 一瞬にして闇に閉ざされた脳裏には、何かを打ち鳴らす高い音が響いてきた。包まれる低い気温に体を震わせる。
「あ……れ?」
 アリカは目を擦って何度か瞬かせ、ハッとして起き上がった。
 膝を抱えたまま焚き火の側で眠っていたらしい。気付いてみれば周囲はもう明るい。視界を奪うような霧が湧いていた。
 先ほどまでのは夢だったのか。アリカは泣きたいような笑いたいような、複雑な気分でかぶりを振った。
「おはよう、アリカ」
 石を踏む音と共に幼い声が近づいた。振り返るとパルティアが水を汲みに来たところだ。背後の泉は変わらず澄んでいて、清冽な空気のなか微かな肌寒さを伝えてくる。
「お……はよう」
 思い返せば、このように誰かから目覚めの挨拶をかけられたことはない。アリカは戸惑いながら挨拶を返す。パルティアは嬉しそうに笑う。それを見て、アリカは知らず緊張させていた肩の力をストンと抜かした。
 そして、自分の目覚めを促した音へと視線を向けた。
 先ほどからずっと続いている、何かを打ち合う激しいリズム。少し視線を巡らせればフラッシュとザウェルが剣で打ち合っているのが直ぐに分かった。
「朝練だって。毎日練習しないと腕が鈍るって言って」
 アリカの視線を追ったパルティアが、肩を竦めた。
 真剣に打ち合う二人の傍らではジュナンが見物している。真摯な表情で二人を見つめている。アリカもまたジュナンと同じく、目を奪われた。
 どちらが優勢であるのかアリカには分からないけれど、二人とも、迂闊に声をかけられないほど強い気迫に満ちていた。剣を繰り出す速度も素人が持ち得ないほど速い。
 しばらくするとザウェルが押されてきたのがアリカにも分かった。それまで隙を見せなかった彼が辛そうに顔を歪め、一瞬だけ左脇ががら空きとなる。フラッシュはすかさず左脇に剣を繰り出した。ザウェルは防ごうと無理な体勢で剣を盾とする。だが力強さが足りず、剣は弾かれて宙を舞った。ザウェルは勢いのまま尻餅をつく。
 それまで目で追うのが精一杯だった二人がピタリと静止した。そして同時に息をつく。
「また僕の負けか」
「当然だ」
 フラッシュは不敵な笑みを浮かべると、座り込んだザウェルを見下ろした。
 ザウェルはフラッシュの態度に声を上げて笑い、膝に力を込めて立ち上がる。
「さぁ、今度は俺の番だぞフラッシュ」
 それまで口を挟まず見物していたジュナンが待ちきれないように二人の間に割り込んだ。指輪から剣の形状をした武器を取り出して構える。
「いいぜ」
 フラッシュも構え、ザウェルに勝ったときと同じように楽しそうな笑みを浮かべた。戦うことが楽しくて仕方ないといった風情だ。
 ザウェルは励ましのつもりなのかジュナンの肩を叩き、その場から離れる。先ほど弾かれた剣はいつの間にか消えていた。あれらは彼らの意思でどうにでもなるのだった、とアリカは思い出した。そして、ザウェルがパン、と両手を打ち鳴らせたのを合図にして、対峙していた二人が試合を始める様を見守る。
「すごい」
 感嘆したアリカにパルティアは頷く。
「彼らはトゥルカーナで最も優れた戦士だからね」
「でも、真剣で打ち合うなんて……危なくないの?」
 あの気迫ではかすり傷で済みそうにない。眉を寄せたアリカに、パルティアは肩を竦めてみせた。
「木刀では彼らの力に耐え切れないもの。一度、王宮で公開練習をしたんだけどね。そのとき折れた剣が観客席に飛んでって、すごい騒ぎになったの」
 その場面は絵に描いたように想像できるような気がした。
「大丈夫よ。いま彼らが持っている剣は、指輪の力で刃を潰してるようなものだから。打撲はあるかもしれないけどね」
 それより、とパルティアは焚き火にかけていた鍋を外した。本物の鍋ではない。その中には沸騰したお湯と竹筒が入っている。
 パルティアは湯気を上げる竹筒を取り出すと、そのまままとめて泉の中に投げ込んだ。
「それ、なに?」
「私たちの朝食。あのまま触ると火傷するから、まずは冷やすの」
 直ぐに浮かんできた竹筒を拾い集め、パルティアは楽しそうに説明した。
「はい。これはアリカの分ね」
 渡された竹筒はまだ仄かな温かさを宿していた。蓋を取ると香ばしい何かが隙間なく詰められている。見た目は『おから』のようだった。
 それまで鍋代わりにしていたものを焚き火に投げ込むと、それはあっさりと燃え上がった。これまで火にかけていても燃えなかったのに、とアリカは唖然とする。
「力で補強させておいたの。だから燃えない」
 視線だけで問うたアリカにパルティアは面倒そうな様子を見せることもなく説明してくれる。理解不能な常識にアリカは眉を寄せたが、考えても詮ないことだと思い直して受け入れることにした。
 荷物からスプーンを取り出して人数分を並べ終える。スプーンは樹から削り出したもので、手に馴染む感触がアリカは気に入った。
 フラッシュたちを見ると、まだ打ち合っている。
「あら。ジュナンも頑張るわね。かなり上達したみたい」
 けれど優勢なのはフラッシュだ。ジュナンが荒い呼吸を繰り返しているのに対し、フラッシュは汗もかかずに余裕の表情を浮かべている。ジュナンの攻撃を軽く受け流しながらステップを踏むその様は、まるで踊っているようにも見える。
 それまで2人の練習を見ていたザウェルが不意に動いた。剣を具現化し、フラッシュに横から襲い掛かる。
「なっ?」
 フラッシュは突き出されたジュナンの剣を弾いてその場を飛び退いた。
 アリカは、彼でも驚くことがあるんだ、と不思議なほど意外に思った。
「ずいぶん余裕がありそうだね、フラッシュ。2人がかりでも構わないだろう?」
「そういうの卑怯って言わないかっ?」
 ザウェルは容赦なく剣を繰り出した。真剣にジュナンと打ち合おうとしないフラッシュを不愉快に思っていたのかもしれない。さすがは双子か、息の合った連携でフラッシュを追いつめる。それまで余裕だったフラッシュの表情が一変、苦しげなものとなる。連携して繰り出される剣を捌き切れずに追いつめられていく。
「……っの」
 フラッシュの瞳が細められ、雰囲気が一変した。鋭く尖った刃のように、張り詰めたものへと変化した。
 アリカは体を震わせた。自分の腕を抱き締めるようにつかんで見入る。肌がぞくりと粟立った。
 気圧されたのは双子も一緒か、フラッシュを攻撃する手がわずかに緩む。その隙をフラッシュは見逃さない。勝負を決める一撃を強く繰り出した。
「わっ」
 ジュナンの剣が叩き落され、次いでザウェルの剣も押さえ込まれてしまう。
「……参ったな……、上達しすぎだよ、君」
 両者とも荒い息をつきながら剣を消した。
 まさか2人掛かりでも敵わないとは思っていなかったのか、ザウェルは両膝に手をあてながら苦笑した。
「あっちー……」
 やはり今回は余裕がなかったのか。フラッシュは汗を振り落としながらその場に座り込んだ。
「アリカ。おはよう」
 ようやくアリカの存在に気付いたのか、フラッシュは振り返って片手を上げる。ジュナンとザウェルも笑いながら「おはよう」と声を掛けた。
「お疲れさま」
 少し離れた場所にいるため、パルティアは声を張り上げながら微笑んで、竹筒を掲げてみせた。3人は朝食の準備が出来上がっていると知ると顔を輝かせる。かなりの体力を消耗したのか、一目散に近づいてきた。
 3人は嬉々として食卓に着こうとしたのだが、パルティアはそれを止めて手招きする。不思議そうな顔をする3人を泉の側に並ばせた。手でも洗わせるのだろうかと思っていたアリカの前で、パルティアは子どもらしく、可愛らしく微笑んだ。
「あのね、3人とも。ちょっと後ろ向いて」
「なんだよ?」
 3人は訝りながらもパルティアに従う。そして背中を向けて。
「――っ!」
 小さな手に突き飛ばされた3人は、それぞれ悲鳴を上げながら泉の中へ飛び込んだ。
 派手な水飛沫が上がる。
 アリカはとっさに水がかからないように避難した。
 いち早く水面に顔を出したフラッシュが「おい!」と声を荒げながらパルティアを睨む。
「そんな汗臭いまま私たちの側に寄らないで。ちゃんと洗ってから上がるのよ」
 抗議も無視して容赦ない。
 突き落とされた3人は眉を寄せたが、どうせずぶ濡れならこのまま汗を流そうと諦めたらしい。ついでとばかりに泳ぎ、水をかけながら遊び出す。
「てめぇ、沈め!」
 ジュナンに大量の水をかけられたフラッシュは笑いながら沈めにかかり、ジュナンはザウェルに助けを求めながら笑って負けじと応戦する。フラッシュは双子攻撃から逃げ回りながら振り返り、指輪の力を駆使してまで妨害を図った。2人もまた、妨害を受けながら指輪で応戦する。
 ――被害は徐々に拡大する。
「まったく子どもなんだから」
 最初こそ呆れ顔で頬を緩めていたパルティアだったが、その笑顔は次第に消えていった。水飛沫が食事にかかりそうになったところで立ち上がる。
「いい加減にしなさいよ!」
 こちらは宝石の力を駆使しての攻撃だった。泉の水をすべて彼らの頭上に掲げ、勢いよく叩きつける。これには3人ともひとたまりもなく泉の底に沈んだ。
 浮かんできた3人が情けない顔をしていたのを目撃し、アリカは声を上げて笑った。楽しそうで、その仲間に入りたいと心底思った。
 3人は渋々泉から這い上がる。水気は力で弾き、乾いた服を袋に入れる。
「これで文句ないだろ?」
 ジュナンが少しだけ頬を膨らませてパルティアの前に立った。
「ええ。文句ないわ」
「よし」
 やっとご飯だ、と席に座る。皆が座ってからアリカも竹筒を手にした。いい匂いのするそれは、少し乾燥していたが、今まで食べた何よりも美味しく感じられた。
「美味しー……」
 呟いたアリカを、皆が怪訝そうに見つめた。
「え?」
 視線の意味が分からずに首を傾げる。
「これ、非常食で味より栄養優先な食材なんだけど……」
 ザウェルが竹筒を見た。
 実際、彼が食べたとき、味覚はあまり働かなかった。お腹に溜まればいい、という感じだ。
「よっぽどろくなもん食って来なかったんだな」
 フラッシュが呟くと他の皆もアリカを見つめて納得したように頷いた。
「何よっ?」
 理不尽なものを感じて一応の抗議はしたが、皆はそれぞれ思い思いに食事を再開する。アリカは浮かせた腰を下ろして頬を膨らませた。納得がいかない。それでも、幸せな気分が崩れることはなかった。