第四章

【五】

 朝食を終えたあと。出発の準備に皆がそれぞれの行動に移っていた。そんななか、これからの行路を確認していたパルティアは、地図を睨んだまま呟いていた。
「カリュケの森を出ると、ユピテルの森か」
「それがどうかしたか?」
 彼女と同じく、焚き火のそばで荷物を整えていたジュナンが首を傾げた。パルティアの表情はどこか苦々しい。
「――なんでもないわよ」
 フラッシュとザウェルは偵察。焚き火を囲むのはパルティアたち三人。
 パルティアは唇を尖らせて地図を畳んだ。その態度にジュナンは腹を立てたが、関わらないことに決めたのか、パルティアから思い切り顔を逸らすと荷物に向き直った。
 様子を窺っていたアリカが恐る恐る口を挟む。
「その、ユピテルの森って、どれぐらいで抜けられるのかな」
「規模はここと大差ないわ。かかっても一日でしょうね」
 背中を向けたジュナンに不機嫌な表情をしながらも、パルティアは気を取り直してアリカに向き直った。畳んだばかりの地図を広げてアリカに渡す。
 アリカは飛び火しないよう気をつけながら地図を覗き、現在地を確認してみた。とはいえ、それほど『確かめたい』という欲求が強いわけではない。なぜか仲が悪いパルティアとジュナンを会話させるいい方法はないものかと、考えての言葉だっただけだ。
 興味なく地図を広げたアリカは眉を寄せた。
 ルエのところで一緒に作った地図。最初はパルティアとアリカが書き込んだイラストと文字だけだったが、行路の途中でフラッシュやザウェルが書き込みをしたのか、乱雑に書き殴った文字や印などがいたるところに見られた。記号のようなトゥルカーナ文字だ。当然ながらアリカには読めない。
 焚き火の近くに転がっていた炭を取り上げ、アリカは持ちやすいように足で割った。灰を軽く落として鉛筆の代わりにする。地図に日本語で地名を書き込んでみることにした。
「今いるのがここで、ここはカリュケの森。王宮がこれだから、ユピテルの森はこっちよ、アリカ」
 小さな指が地図の上を滑っていく。アリカは視線で指を追いかけながら、他の文字の邪魔をしない程度に書き込みをした。
 すべての仕度を終えて手持ち無沙汰になったジュナンが、二人の頭上から地図を覗き込んでくる。
「パルティア。この×印がついてるのって、なんだ?」
「……個人的なことだから言わない」
 カリュケの森のとある一部分に、赤い印が小さく存在を示している。アリカも先ほどから気になっていたので、問いかけるようにパルティアを見た。けれど返されたのは再び素っ気無い言葉だけ。
 パルティアは、その印を見るのも不快なように眉を寄せて横を向いてしまった。
 アリカとジュナンは顔を見合わせて肩を竦める。これ以上パルティアを問い質しても無駄だろう。
 パルティアが顔を上げて空を見上げた。
「ザウェルたちはまだ来ないの? あまり遅くなると、もう日が暮れるわね」
「ああ……確かにそうだな」
 朝食自体、昼食と言っても差し支えないような時間に摂ったものだ。空腹はまだ覚えないが、早く王宮に着きたいという気持ちと、追われて焦燥する気持ちが同時に混在していた。姿を見せない太陽は、すでに頂点を過ぎて傾いているようだ。
 ジュナンは気付いたように顔をあげ、同意した。じゃあ少しだけ見渡してみるかと立ち上がる。翼を広げて舞い上がると悲鳴が上がった。ジュナンが翼を広げたことで、焚き火が吹き飛ばされて灰が舞い散ったらしい。
「やべっ」
 ジュナンは小さく呟いたけれど、怒鳴り声を上げるパルティアのもとへ戻る気持ちは欠片もなかった。下界で彼女を宥めるアリカに、胸中で謝ってから視線を地平線に向ける。どうやら丁度いいタイミングだったらしく、遠くに小さく片割れの姿が見えた。
 フラッシュは地上部隊のため、空に彼の姿は確認できない。
「お待たせ、ジュナン。少し遅れてしまったかな。フラッシュはまだ戻っていない?」
「いや――ちょうど戻ってきたみたいだぜ」
 滑空してきたザウェルは息を弾ませていた。そんな彼に笑顔を見せてジュナンは片手を挙げる。パシンと小気味良い音を立てて二人の手が打ち鳴らされる。
 ジュナンはちょうど、森の一端から姿を見せたフラッシュを指して笑いかけた。
 ザウェルの後を追いかけて地上に戻る。パルティアが無言で睨んで来ていたが、素知らぬふりで視線を合わせなかった。
「ここら辺は大丈夫だな。静かなもんだ」
「そうだね。バールたちに会わないで済むに越したことはないけど――妙かな」
 早速偵察の情報を交し合う二人に他の者も混じる。難しい顔で考え込むザウェルの背中をジュナンが叩いた。
「相変わらず心配性だな。いないならそっちの方がいいだろう。霧もまた出てきたようだし、今のうちに通り抜けさせて貰おうぜ」
「……いいけどね」
 楽天的なジュナンを支えるのはいつもザウェルの役目だ。
「では、出発しましょう」
 パルティアの声を合図に立ち上がる。
 焚き火の跡まで完全に消して立ち上がった。
 パルティアはアリカと手を繋ぎ、昨日のように歩き出した。


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 ルエが住まうカリュケの森を離れ、ユピテルの森に足を踏み入れた途端。アリカには辺りの空気が一変したように感じられた。泉を離れると瞬く間に霧に包まれて視界が悪い。だが、アリカが感じた空気の違いはそのようなことではない。肌が粟立つような寒気に襲われる。
 闇が一段と深くなった。前を歩くフラッシュも、手を繋いで歩くパルティアも、すべてが霞んで見えてしまう。
 誰も、何も言わない。このような不安を抱いているのは自分だけなのかと、アリカは背中を冷たいものが撫でているような気になりながらフラッシュの背中を見つめていた。辺りの空気が徐々に嫌なものに変化していくような気がして落ち着かない。視線を辺りに彷徨わせ、喉を鳴らせる。
 そんなアリカの様子にパルティアが気付いた。不思議そうにアリカを見上げ、同じように周囲を確認する。
 手を繋ぐパルティアの力が不意に強まって、アリカは唇を引き結んだ。自分が不安になれば彼女も不安になるのだと気付く。ここには皆がいるから大丈夫のはずだ、と念じ直してパルティアに声を掛けようとした。
 そのときだ。
 視界の端に赤い影が浮かんだような気がして息を止めた。素早く振り返ったが、そこには何もない。自分の気のせいだったのかと胸を撫で下ろすアリカだが、直後に走った悪寒に、本能的にその場から飛び退いていた。
「アリカッ?」
 繋いでいた手を解かれたパルティアが声を上げた。次いで、アリカに襲い掛かるようにして隣に現れた赤い影に息を呑んだ。
「パルティア!」
 バールがパルティアに意識を向けようとしているのを悟ってアリカは叫ぶ。体当たりしようとしたが、避けられた。事態に気付いたフラッシュが振り返り、倒れかけたアリカの体を支えた。後ろ手に回して庇う。
 すかさずパルティアがアリカの腕を引くと、フラッシュは前に出て剣を取り出した。
「ちっ、こいつ!」
「フラッシュ?」
 霧と闇に阻まれて事態に気付いていなかったジュナンたちがフラッシュを呼ぶ。バールの姿を認めると一転して瞳を険しくさせた。
「気配がなかった!」
 ジュナンたちを一瞥したフラッシュは剣を振り上げた。バールの爪を弾いて腕を斬りつける。
 アリカは邪魔にならぬよう、パルティアを庇うようにしながら後退しようとしたけれど。
「アリカ、後ろ!」
 ジュナンの警告に振り向くより先に、アリカはパルティアにぶつかるようにして横に跳ねた。パルティアごと地面に転がって振り返る。
 そこにいたのは二匹目のバールだ。長く伸びた爪から赤い血を滴らせている。
 アリカは瞳を瞠った。庇ったはずのパルティアが青白い顔をして腕を押さえていた。避けたつもりだったが、避けきれていなかったのだ。バールはアリカよりも先に、パルティアに目を向けた。焦って止めようとしたアリカだが、次の瞬間、バールの体には何本もの矢が突き立っていた。射たのはザウェルだ。バールは声もなく赤い闇に体を還す。
「こいつら、いつの間に!」
 次から次へと姿を現すバールたちに、吐き捨てるようにしながらジュナンが舌打ちした。弓を構えていたザウェルも、その武器を細身の剣に変化させて近くのバールを斬り払う。
「いったいどれほどいるんだ!?」
 濃い霧に阻まれてバールの数を把握できない。見通しが利かないため、精神的に辛い。いつしか追い込まれている。
「……アリカ?」
 ふと、フラッシュはアリカの姿が見えないことに気付いた。そばにいたはずのパルティアすらいない。
「アリカ! パルティア! 聞こえるかっ?」
 剣戟の合間に叫んだが返答はない。フラッシュの叫びに、遅まきながらジュナンとザウェルも気付いて顔を見合わせた。二人も周囲を確認するが、アリカたちの姿はない。
「霧が……!」
 重苦しく体にまとわりつく。剣で払ってみてもどうにもならない。
 アリカたちの安否に不安を抱いたときだ。
 パルティアの鋭い悲鳴が、遠くから聞こえた気がした。フラッシュは相対していたバールを蹴飛ばしてそちらに向かう。
「パルティアッ?」
 駆け出したフラッシュを、霧の向こう側から放たれた、鋭く眩い光が襲った。
「……なっ?」
 腕を翳し、思わず足を止めてそれをやり過ごす。向こう側で何が起こっているのか、瞳を細めて見定めようとしたが何も見えなかった。光に包まれた体全体が発熱するような痛みを宿す。フラッシュは唇を引き結んだ。直ぐ近くにいたバールたちが声もなく体を光に溶かし、消えていく様を見た。
「なんだっ?」
 背後でジュナンとザウェルの声が聞こえた気がする。定かではない。耳の機能が麻痺しているようだ。
 光は名残惜しそうにフラッシュの体をなで、やがて消えた。
 フラッシュは瞳を瞬かせる。何が起こったのか分からない。腕を振って、痛みを振り飛ばそうとする。
 改めて視線を向けると、やや晴れた霧の中にパルティアの姿が見えた。表情を強張らせて座り込んでいる。どうしたわけか動こうとしない。訝しく走り寄り、直ぐに気付いた。パルティアの前に倒れていたのはアリカだ。意識がないのか瞳を閉ざし、服は泥にまみれて汚れている。
 呆然と視線を漂わせていたパルティアはフラッシュが近づく気配に体を震わせ、我を取り戻したように瞬きを繰り返した。そうしてからぎこちなくアリカに手を伸ばす。
「アリカ」
 揺するとアリカは直ぐに目を覚ます。顔をしかめて頭を押さえ、緩慢な動作で起き上がる。その様子を観察しながらフラッシュは辺りを窺った。敵の気配が完全に消えている。
「なにがあった?」
 バールは先ほどの光に灼き尽くされたらしい。
 フラッシュは眉を寄せ、アリカの前に膝をつく。
「無事だな?」
「え、ええ……なにが……?」
 目覚めたばかりのアリカはどこか焦点があっていなかったが、フラッシュを見つめる瞳に正気の色が戻る。戸惑うように瞬きを繰り返す。そしてパルティアに視線を移した。彼女はまだ強張った表情で不安そうにしている。
「さっきの光は?」
 ジュナンが辺りを窺いながら近づいてきた。ザウェルも、まだ警戒するように剣を携えて後に続く。
「光――わ、分から、ない」
 わずかに震える唇でパルティアは否定した。分からないと言うわりに、アリカを見つめる双眸には何かが含まれている気がした。フラッシュは眉を寄せる。だが、彼女から何かを聞きだすのは無理そうだと諦める。
 アリカが不思議そうに瞳を瞬かせる。そんな様子から、アリカもまた何かを聞きだせる状態ではないと完結し、フラッシュは立ち上がった。
「無事ならいい。急ごう。霧がまた濃くなる前に、さっさとこの森を出るんだ」
 もちろん皆に否はない。
 フラッシュはアリカを立ち上がらせて、その斜め前を歩き出した。今までよりも更に近い距離だ。アリカは不思議そうに首を傾げた。
「私、何かした……?」
 不安そうな問いかけに、フラッシュは返す言葉を持たない。無言のまま進む。アリカはパルティアにも視線を向けたようだが、彼女も口を閉ざし続ける。
 アリカの気配が徐々に落ち込んでいく。
 フラッシュはきつく前を見据えた。