第四章

【七】

 周囲は深い霧に覆われ、敵の気配も上手く感じ取れない。それなのに、なぜか『その気配』だけは敏感に感じ取ることができた。
 ジュナンは眉を寄せる。その内心は隣にいたザウェルにも伝わったようだ。彼も顔をしかめてジュナンを見やる。
「ジュナン……」
 人当たりの良い温厚なザウェルには似合わない渋い顔。
 彼がそんな顔をしてから数秒も経たず、その気配は姿を見せた。
「イザベル様ー!」
 やたらと嬉しげな声が霧の中に木霊する。
 どこから聞こえてきたのかと辺りを見回すアリカ以外は心当たりがあるのか、揃って背後を振り返った。
 アリカも遅れて振り返ったとき、霧の中から勢い良く飛び出してきた『何か』がパルティアに抱きついた。アリカが驚いたのも束の間、ザウェルが素早く引き剥がした。パルティアはよろめいてアリカに支えられる。舌打ちする。
「やっぱりいたか」
「パルティア?」
 いつも明るいパルティアの不穏な声音に、アリカは瞳を瞬かせた。
 地面に転がった『それ』はザウェルに剣を突きつけられていた。巨体の大男だ。
「いってぇなぁ! 何しやがる、リィー隊長!」
「それが上司に対する口の聞き方かい? 生きていたんだな、ビト」
 ザウェルの声は穏やかだった。しかしビトに向けられる刃に容赦はない。先ほどよりも間合いを縮めてビトの喉に迫る。ビトは頬を引きつらせて喉を鳴らせた。
「世界がこんな有様になっちまってからイザベル様はどうされてるかと、俺はずっとずっと心配してたんだ。そんな中、ようやく! ようやく、愛しいイザベル様の御身を確認できたんだから、抱きつくくらい許されるべきだ!」
 唇を尖らせながらザウェルを見上げる。アリカは絶句した。パルティアとザウェルの眉が大きく跳ねる。
「ビト」
「フラッシュ隊長!」
 パルティアたちの後ろにフラッシュの姿を見出し、ビトはザウェルを押しのけて駆け寄った。突きつけられた剣の存在など忘れたようだ。フラッシュの方が明らかに若いが、ビトはためらいなく跪いた。
「ご無事で何よりです!」
 ザウェルが剣を消しながらため息をつく。
「あーあ。なんで直属の上司よりフラッシュに敬意を払うかなぁ」
「俺は尊敬できる者にしか敬意を払わねぇことにしてるんだ」
 フラッシュとザウェルは苦笑した。
「彼は?」
 アリカの声にビトが顔を上げる。その瞳が大きく瞠られた。しかし、彼が口を開くより先に、ジュナンが割って入った。
「彼女はアリカ。異界からの召喚者だよ。トゥルカーナ救済の手伝いをしてくれている」
「アリカ……?」
 ビトは不審そうにジュナンを見る。だが、それ以上の説明はない。ビトはフラッシュやザウェルにも視線を向けたが、彼らから否定の声はなかった。ビトは疑惑の眼差しをそのままアリカに向ける。
「アリカ。こっちはビト。王宮の警備隊に所属している。ザウェルの部下なんだ」
 ビトの困惑など意に介さず、ジュナンはアリカに向き直る。ザウェルは王宮警備隊の隊長を務めているからね、と片目を瞑る。
「初めまして」
 アリカはビトの様子に戸惑いながらも握手を求めた。
 ビトはためらった後に応じる。最高礼を取りかけたが、フラッシュやジュナンの視線がそれを許さない。ただ簡単に「よろしく」と告げただけだ。それでもアリカは嬉しく微笑む。
 追及を許すまいとしたのか、フラッシュが割り込んできた。
「今までこの森にいたのか?」
 口を開きかけていたビトは慌ててフラッシュに向き直る。報告をするときのように畏まるビトに、ジュナンとザウェルの笑い声が上がった。ビトは気にしない。
「はい。ここは俺の生まれ故郷ですから。里帰りしている間に王宮が落とされたと聞きました。それからはずっとここにいます。本来なら直ぐに駆けつけるべきところ、私事で不忠をしました。申し訳ありません」
「他の者たちは……?」
「――はい。この霧が立ち込めるようになってから、異変は徐々に進行していきました。次第に殺し合いを始め、そのうちに赤い化け物も進出してくるようになって」
 ビトは拳を握り締めて俯いた。
「そうか。俺たちも数日前に結集したばかりなんだが……やはり生き残っている者たちは少数のようだな。今は王宮に向かっている。エイラ皇女が囚われたんだ。ビト、一緒に来てくれるか?」
 ビトの裏切りを責めることなくフラッシュは誘った。ビトはしばし逡巡し、やがて首を横に振る。
「警備隊として大変申し訳ありませんが……俺は一緒には行けません。ここには妹がいるんです」
「妹?」
「霧のせいでおかしくなった奴らに巻き込まれ、怪我をしています。回復はしてきましたが、まだ動かせない。置いて行くことはできません」
 フラッシュはザウェルと顔を見合わせた。ビトの直属の上司はザウェルだ。ザウェルに判断を任せる。ザウェルは小さなため息をついてビトの前に立った。
「分かった。一時的にビトが隊の任務から外れることを許そう」
「ありがとうございます」
 見守っていたフラッシュがため息を零す。
「俺らがトゥルカーナを救うまで、死ぬなよ」
「易々とこの身をくれてやるような優しさは持ち合わせちゃいませんよ」
 ビトはニヤリと笑って力強く頷いた。立ち上がる。
「家に来てください。ここから直ぐなんです。谷の近くにありますから、王宮までも直ぐです」
 彼の申し出に、フラッシュたちは顔を見合わせた。ゆっくりしている暇はないが、そろそろ休憩を取りたいと思っていた。更には、ユピテルの森で安全に野宿できる場所の当てはない。
 思案するフラッシュを押しのけてパルティアが前に出る。
「いいわ。案内してちょうだい」
 バールの襲撃を受けてから、アリカを少し休ませたいと思っていたための言葉。パルティアは『不本意だけど』と顔に書いてビトを促した。
 その言葉にビトは、顔を輝かせて快諾した。


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 ビトに案内されたのは丸太造りの一軒屋だった。
 これまでのことや家族のことをフラッシュに話しながら、ビトは心なしか足取り軽く、笑顔を見せる。彼の存在はこれまでの殺伐とした雰囲気を一掃して明るさをもたらした。大きな体に頼もしさも感じさせる。
 アリカはそう思ったのだが、パルティアは依然として不機嫌な表情を保ち続け、一度もビトと視線を合わせない。ビトは明らかにパルティアを気にしているのに、無視され続けている。さすがにアリカは哀れみを感じた。
「ライラ」
 家の扉を開けたビトは妹の名前を呼んだ。
 怪我をしているという話の妹だったが、応える声は明るく元気だ。軽い足音を響かせながら廊下を走ってきた。
「ビト!」
 満面の笑みでビトの足に抱きつく。ビトはそれを笑って抱き上げて、ただいま、と頬にキスを贈った。
「ビト。この人たちね?」
 ビトのキスをくすぐったそうに笑って受け止めて、ライラは視線をアリカたちに向ける。ビトは頷いてライラを下ろした。そして、入口で様子を窺っていたフラッシュたちを手招きする。
「中に入ってくださいよ。一応結界張ってますんで、この家はあいつらの目から逃れられるはずですから」
 ビトの言葉にパルティアが不思議そうな顔をした。視線が周囲を探る。
 パルティアにのみ分かる、聖の波動が家を包んでいた。とても微力だが、それは確かに結界の役割を果たしている。気配を絶ち、バールたちの目から隠れることができている。この結界があるからこそ、ビトたちはバールが徘徊する森でも生き延びることができたというわけだ。
 しかしビトは根っからの戦士で、結界を張るような力はなかった。トゥルカーナが危機に陥り、突然力に目覚めたというわけでもあるまい。
 パルティアは視線をライラに向けた。
「……貴女が?」
 年の頃はパルティアと同じ。くるりとした瞳に宿るのは好奇心だ。ライラはビトに抱えられながらパルティアを観察していた。嬉しげに首を傾げて笑う。
「貴女がイザベル様ね? 私はライラです。この森に強大な力が近づいてくると分かりました。そうしたらビトは凄い勢いで飛び出して行ったのよ。イザベル様に間違いないって。ビトのイザベル様贔屓には妹ながら赤面ものだわ。まさか私がイザベル様にお会いできるとは思ってもいませんでした。何もされなかったでしょうか? 大丈夫?」
 ライラは笑顔のまま早口で問いかけた。くるくると良く動く瞳はパルティアを上から下まで観察し、同年代の友人を相手にするように物怖じしない。他の者たちは呆気に取られた。
 ライラは気付いたように「あ」と声を上げる。
「ごめんなさい。私、いつもうるさいって言われるの。でも思ったことを口にしないと具合が悪くなるのよ。悪気はないの。気に障ったらごめんなさい」
「ライラ。お前はまだ熱があるんだ。寝台に戻れ」
 ビトはライラを抱えながらうんざりと告げた。
 最初こそ人見知りするようにビトの後ろに隠れようとしていたライラだが、既にその場の空気に馴染んでビトを押しのけようとしていた。廊下に降り、ビトの足にしがみつきながら身を乗り出している。その場はライラが中心になっていた。
「こんな豪勢なお客様がお見えになったっていうのに黙って眠ってなんかいられないわ。ビトに任せたら粗相ばかりでしょ」
「なに」
「ならビト。これからどうやってもてなすつもり? 私に納得がいくように説明して御覧なさいよ」
 うなるビトを見て、その場の誰もが笑い出した。
 ビトは苦虫を噛み潰したような顔をしてライラを抱き上げる。そのまま寝室に連れて行かれようとするのに気付いてライラが抗議の声を上げた。
「口で敵わないと思ったら実力行使なの? そんなんじゃイザベル様に呆れられても当然だと思うわ」
「うるさいな!」
 ビトはライラを抱えたまま寝室に消えていく。その後姿を見ながら、置いてきぼりにされた皆は顔を見合わせて笑い交わした。直ぐには戻ってこないだろうビトを思いながら、勝手に上がらせて貰うことにする。居間に移動し、ビトが戻るまで床や椅子で寛ぐ。しばらく後にビトが戻ってきた。
「うるさい妹で申し訳ない」
「いいや」
 恐縮するビトにフラッシュは肩を竦めて笑った。
「さて。ライラの言った通り、どうやってもてなしてくれるのか楽しみだな?」
 長椅子に腰掛けたザウェルが楽しそうに微笑んだ。ビトは嫌そうに睨むと台所に消える。そして直ぐに、豪勢な料理を抱えて戻ってきた。
 ジュナンは目を瞠った。
「材料はどうしたんだよっ?」
「保存食だ。皆が来るだろうと、俺が出て行ったあとにライラがあらかじめ作っていたらしい。まだまだ、大量にある」
「……できた妹だな」
「まったくだ」
 呆れ半分感心半分で料理を凝視するフラッシュに、ビトは同意しながら返した。
 料理を並び終えたビトは、パルティアの隣に座っていたザウェルを押しのけた。自分がパルティアの隣に座る。
「……ビト」
 男二人の静かな火花が散らされた。
 パルティアは馬鹿らしくなって、アリカとジュナンの間に席を移す。
 ザウェルは肩を竦め、ビトは大げさに嘆いて落胆した。覇気の消えた手を食卓に伸ばし、一升瓶を取る。トゥルカーナが危機に陥ってからは一度も開けていない酒瓶をあける。濃厚なアルコールの匂いが部屋に充満して、アリカは軽く咳き込んだ。
「ほら隊長。酒なんて久々でしょう?」
「未成年なんだけど」
 ザウェルはそう言いながらもコップをビトに向けていた。
 ビトは片手でザウェルに酒を注ぐ。
 その瞬間。
「あーっ!」
 食卓とは別の場所から大声が響いた。
 振り返ると、ライラが廊下から叫んでいた。寝付けなくて起きてきたのだろう。彼女は肩を怒らせてビトの手元を凝視している。無言のまま部屋に入ると、乱暴な仕草で酒瓶を奪い取る。
「目上の人に片手で注ぐってことはないでしょう、ビト! もしかして貴方、王宮でもそうやって無礼を働いていたのではないでしょうね」
「つっこむのはそっちかよ」
 怒り心頭のライラにビトはどう対処するのかと、完全に他人事として眺めていたフラッシュは料理に手をつけた。他の面々も、豪華な食事に手をつけ始める。久々の宴。
 酒瓶を奪われたビトはふと真剣な表情になってライラを見つめた。
「ライラ」
「なに」
「今日は無礼講だ」
「ビトはいつも無礼でしょう」
 ライラはあっさりと言い返す。そのやり取りは、慣れた日常生活を思わせて皆の笑いを誘った。ビトは返す言葉もなく黙り込む。
 ザウェルが助け舟を出した。
「ライラ、貸してくれないか。アルコールがあれば確かに寒さは感じないからね」
 ザウェルに手を伸ばされて、ライラは明るい笑顔を見せた。ためらうことなく酒瓶を渡す。自分はビトとザウェルの間に座る。そしてビトには大人びた態度で要求するのだ。
「ビト。私はジュースがいいわ」
 可愛い妹の頼みにビトは笑い、応えるべく台所へ立った。
「熱は大丈夫なのかい?」
「ええ。ビトが心配性なだけなんです」
 熱を測ろうと、ザウェルがライラの額に手を当てた。ライラは小さな悲鳴を上げて仰け反る。その過剰反応にザウェルは目を丸くした。
「あ、ごめんなさい。リィー隊長って、格好いいから女の子たちの間では人気なんですよ。だから、こんなに近くにいるとドキドキして……まさか触って貰えるなんて思ってもみなくて」
 ライラは赤くなってはにかんだ。
 ザウェルはどう返すべきかと思い悩んだが、そのやり取りをパルティアが窺っていると気付いて手を下ろした。ライラは赤い顔のまま立ち上がる。
「リィー隊長。好きなものあります? 私、取って差し上げる!」
 ライラは食卓に両手をついて料理を眺めた。ザウェルは微笑ましい彼女の態度に「そうだねぇ」と笑みを零しながら料理を眺める。
「ライラの手作りなんだろう? お勧めを貰おうかな」
「はい! じゃあこれ! 材料が足りなくて味が薄いかもしれないけど、ゴバの実炒め!」
 黙ってやり取りを聞いていたアリカが吹き出した。フラッシュの荷物に、ゴバの実が大量に入っていたことを思い出したのだ。フラッシュが先ほどから手をつけているのもその料理だった。好物らしい。
「ライラ。食べ終わったら眠れよ」
 台所から姿を見せたビトが困ったように諭す。ライラはジュースを手渡されると、上機嫌のままビトに頷いた。
「ここから王宮は近いか?」
 ビトたちのやり取りを横目で窺っていたジュナンは、フラッシュのグラスに酒を注ぎながら訊ねた。
「近いだろうな。谷の声が聞こえるし、さほど歩かないでも着くだろう」
 フラッシュはジュナンに注ぎ返して、横に座るザウェルを見た。彼はライラとビトとの会話に引っ張り出され、背中を向けている。久々に出会う仲間の存在に救われている部分があるのだろう。楽しげに続く談笑の輪から引き抜くことには躊躇いを覚える。
 フラッシュはシュウランを思い出して表情を曇らせた。考えても埒があかないとかぶりを振る。皆の様子を順々に眺めてアリカの様子に気付く。
「アリカ。大丈夫か?」
「え、ええ。大丈夫だけど?」
 突然声を掛けられたアリカは顔を上げて瞳を瞬かせた。なぜそのようなことを言われるのか分かっていないようだが、アリカの顔色は精彩を欠いて青白い。そのことに気付いたのか、ジュナンも心配そうにアリカを見た。
 二人からの視線に、アリカは訳が分からず首を傾げるだけだ。
「具合が悪くなったら直ぐに言えよ。足手まといになるんだからな」
「フラッシュ! そんな言い方はないだろう」
 アリカの表情が翳ったことに気付いてジュナンが眉を寄せる。
「大丈夫よ。足手まといになるのは分かっているから。具合が悪かったらちゃんと言うわ」
 アリカは笑顔をつくって二人に向ける。
 そしてふと、半分以上が空になった酒瓶に目を留めた。この場にいるのはほとんどが未成年であろうに、アルコールを入れてしまってもいいものか。トゥルカーナの基準ではどうなるのか分からないが、アリカはどうでもいいことに首を傾げた。皆が楽しめればいいかと思い直して周囲に視線を向ける。
 隣にいたパルティアはいつの間にかライラに連れていかれ、彼女の隣に座っていた。そんなパルティアの隣の席を巡ってビトがザウェルに言いがかりをつけ、ザウェルは淡々とビトをあしらい。けれど二人ともアルコールのせいで呂律がおかしかったため、パルティアもライラも遠慮なく笑い転げた。
 非常に楽しげな雰囲気にアリカも表情を綻ばせる。
 こんなに楽しく食事をしたのは初めての経験だった。胸を躍らせながら、どこかで痛みを感じる。
 いつまでトゥルカーナにいられるのだろう。
 その痛みは、想像される前に、深いどこかに隠された。