第四章

【八】

 夜が更けていった。賑やかだった食事は数時間前に解散している。皆は酔い潰れてそのまま眠り、意識を取り戻した者から順番に部屋に入っていく。皆の意識が役立たずになる前に部屋の割振りは決められていたので、ビトやライラを無理に起こすことなく寝台は確保できていた。
 とはいえ寝台が確保できているのは女性だけだ。もともとビトとライラしか住まわないこの家に、多数の部屋が用意されているわけもない。必然的に人数はあぶれ、男性たちはそのまま居間に打ち捨てられる結果となっている。
 一度寝台に行き、熟睡していたアリカは再び居間に戻っていた。
 居間にはまだ微かにアルコールの匂いが漂い、先ほどまでの賑やかな熱気が篭っている。しかし人の声はなく、照明も落とされ、漠然とした寂しさがあった。
 アリカは眠りこける男性たちを眺めて軽く笑みを洩らし、玄関に向かった。
 眠りを覚ます、誰かの声が聞こえた気がした。
 極力音を立てないようにして外へ出る。ひやりとした空気が体を包み、アリカは首を竦めた。空は相変わらず分厚い闇の雲が覆っていて、星は見えない。
 体を震わせて森の中に漂う霧を見つめた。少しだけ玄関を離れ、森の入口に向かってみても、何が自分の眠りを妨げたのか、よく分からない。森は相変わらずだ。皆で歩いてきたときと何も変わらない。呼ばれる声があったと思ったのは気のせいだろうか。
「アリカ?」
 かけられた声に驚いて振り返ると、そこにはフラッシュがいた。もしかして起こしてしまったのだろうかと申し訳ない気持ちが胸を占めた。
 フラッシュはアルコールの余韻を完全に振り払い、正気の瞳でアリカを見つめる。もしかしたら単に酔い覚ましのために出てきて偶然アリカを見つけたのかもしれない。それは分からないが、フラッシュは不審そうな表情を浮かべながらアリカに近づいてきた。
「どこへ行くつもりだ? 外に出るのは危険だと分かっているだろう」
 アリカは顎を引いて視線を逸らした。
「でも、誰かに呼ばれてる気がして……」
「誰か?」
 アリカの隣に立ったフラッシュは視線を巡らせた。
 森に潜むのは痛いほどの静寂。ときおり遠くから谷の声が響いてくるだけだ。それは人の声にも似ているが、呼び声には程遠い。バールたちが潜んでいるのかと気配を探るが、そういったことでもないようだ。
「気のせいじゃないのか?」
「でも……」
 背中を押されるようにして歩き出したが、気は進まない。後ろ髪を引かれて振り返るが、やはり何も見つからない。
 フラッシュの手前で強情を通すわけにもいかず、アリカは気のせいだと思うことにした。玄関に向かう。フラッシュは周囲を警戒しているのかアリカを前にし、後ろを守るようについてきた。そんな心遣いを嬉しく思う。これ以上彼の手をわずらわせないためにも早く戻ろうとしたアリカは小さな悲鳴を上げた。
 玄関の扉を開けた目の前に、パルティアがいた。
 アリカの悲鳴にフラッシュが素早く反応したが、彼もまた、パルティアの姿に驚いているようだった。
 パルティアは二人を一瞥すると外に踏み出す。その足取りはどこか不安に揺れている。
「パルティア?」
 アリカは彼女の腕をつかんで止めた。パルティアは一度足を止め、虚ろな瞳でアリカを見上げる。夢現のような仕草だ。けれどパルティアはアリカの手を振り解き、後ろにいたフラッシュをもすり抜けて森の中へ入ろうとした。
「おい?」
 フラッシュが驚いて手を伸ばそうとした瞬間、パルティアは鋭く振り返った。アリカに向けていた虚ろな視線とは一転して、そこには憎悪が込められていた。ギラギラと感情に輝く瞳は確かに現実のもので、フラッシュは怯むように腕を引いた。
「……姉さんが呼んでる」
 パルティアは確かな口調でそう告げた。
「姉さん?」
 フラッシュは驚いたように双眸を瞠り、アリカは意味が分からずに問い返し。パルティアはそれだけを告げると森に向かって走り出した。彼女を一人で行かせるわけにはいかず、アリカはフラッシュと共に追いかける。パルティアの足は子どもとは思えぬほど早かった。
「パルティア!」
 アリカが叫んでも、パルティアは一心不乱に走り去ろうとしてしまう。小さな体は木々に隠され、その姿はときおりアリカの視界から消えてしまう。それが怖くて、アリカは足元を気にする余裕もなく、ただひたすら追いかけた。
 やがて息も絶え絶えになってきた頃だ。
 木々の連立が途絶え、前方に視界が開けた。
 木を切倒した跡は見られない。自然の広場だ。なぜかその場所だけは霧が晴れ、夜だというのに明るさに満ちていた。
「パル、ティア」
 広場の中央でパルティアは佇んでいた。ようやく追いついたアリカは安堵して立ち止まり、激しい呼吸を必死で整える。背後ではフラッシュは息を切らせていたが、その呼吸はアリカよりもずっと静かだった。
「姉さん?」
 追いかけてきた二人を振り返ることもなく、一心に頭上のなにかを見上げていたパルティアが囁いた。その声は微かに震えている。
 アリカはまだ荒い呼吸のまま、パルティアに近づいた。
 三人が見守る前で、周囲を漂い、煌々と照らしていた光が一つに収縮された。太陽のように瞳を射るものではなく、月光のように優しい光。けれど冴え冴えとしたそれはどこか冷徹さも感じさせ、アリカはただ黙ったまま、その光が人型を作り出すのを見守っていた。
 周囲一帯に満ちる闇が払われた。
「イザベル」
 光で創られた人間が声を生む。意外なほどしっかりした肉声だ。
 パルティアは滲んだ涙を指で拭う。フラッシュは魅入られたように凝視する。そしてアリカは、目の前に現れたその人物を、声も出せないほど驚いて見つめていた。
 アリカと瓜二つの容姿を持ち、決してアリカではない意志と言葉で訴えかけてくるのは、トゥルカーナの第二皇女、イリューシャ。腰を滑り落ちる長い髪も、強固な決意が見られる瞳も、月光をそのまま凝縮したように鮮やかな銀色をしている。
 自分の姿を客観的に見たことがなかったアリカは心を別のところに飛ばしていた。このような銀の化身が日本にいたら、確かに異端視されても仕方ないだろう。外国人でもこのような光銀を持つ者は見かけない。鏡に映したような輝きで違うことと言えば、まとう服くらいだ。
 イリューシャの視線がアリカに向けられた。その銀の瞳を直視できずにアリカは視線を逸らす。
「アリカ」
 はっきりと名前を呼ばれ、顔を上げざるを得なくなる。嫌な気持ちを抱きながら顔を上げるさなか、その声がどこかで聞いたことのあるような気がして眉を寄せた。自分と同じ声だから聞いたことがあるということではなく、まったく別のことで。
「あ……もしかして、あの歌……」
 顔を上げてイリューシャの視線を受け止める間に思い出していた。
 トゥルカーナに来る前の暗闇に響いていた歌声だ。
 瞳を瞠ったアリカに、イリューシャは表情を変えずに「ええ」と頷いた。瞳は何かを訴えるようにアリカを見つめていたが、言葉は何も生まれなかった。唇は動くのだが、言葉を探しているうちに音が消えてしまう。
 イリューシャは憂うように半眼を伏せたあとフラッシュに視線を移した。
 その漆黒の瞳を少しも揺るがせることなく、フラッシュは真っ直ぐにイリューシャを見つめていた。あり得ない、と切り捨てることもない。ただ現実としてこの事態を受け止めている。けれど、その表情には複雑な感情が揺れていて、イリューシャは笑い出したいのを堪えるように瞳を細めるのだ。
「貴方が囚われることはない。私は……」
 イリューシャを守ることができなかったという罪悪感。
 王宮が混乱に陥ったとき、イリューシャを守ることができたのはフラッシュだけだった。一番近くにいて、一番力に溢れていた。けれどフラッシュはイリューシャを助けることができなかったのだ。
 イリューシャはフラッシュを見つめたまま何を言おうかと唇を動かした。先ほどアリカに向けたときと同じように、唇だけが動いて音にならない。言いたいことがありすぎて選べない。
 決して崩れることのない銀色の双眸が揺らぎ、つと涙が頬を伝う。
 フラッシュは決してイリューシャを選ばない。最後の瞬間まで、それは変わらない。身分も何もなく、ただ追いかけた日も、今は懐かしい。しかし思い出にするにはその記憶はまだ新しく、力が暴走して心を傷つける。溢れた涙は地面を濡らした。
「……イザベル」
 イリューシャは結局、何も言わないまま涙を拭い、小さな妹に向き直った。
 パルティアは真剣な表情でイリューシャを見つめている。イリューシャは白い腕を伸ばして彼女の髪飾りに触れた。以前、彼女に贈った髪飾りだ。それを外すと、パルティアは一瞬だけ光に包まれて形を崩し、小さな子どもの姿から高校生くらいの女性へ姿を変えた。アリカの「あ」と驚く声が溶けて消えた。
 長年一緒の道を歩いてきた者の姿を見つめてイリューシャは微笑んだ。
「私はこれから母の元へ行くわ。それはエイラ姉さんも同じこと」
 唇を引き結んでいたイザベルの瞳が歪んだ。
「だから……いい? 迷うことは許されないわ」
「姉さん……っ」
 固く引き結ばれていた唇が、思わずといったように解けて悲鳴が零れた。それに合わせてイザベルの涙も宙に舞う。
「王がなすべきことは一つだけ」
 イリューシャの瞳は今や厳しくイザベルを捉えていた。甘やかな姉の瞳はすでにない。王を見つめる臣下のような瞳でイザベルを諭す。少しの訴えも退けるような響きがそこにはあった。
「私は……」
 イザベルは視線を彷徨わせた。彼女が再び口を開く前に、イリューシャはふと瞳を和らげて口を挟む。
「貴方なら……できると信じているわ」
 イザベルは顔を上げた。
 先ほどまでとは違った口調と声音に、姉が何を言いたいのか分からなくなった。
 見上げた先ではイリューシャが微笑んでいた。
 王の義務である『早期救済』を促す声ではなく、別の方法を模索して欲しいと示唆するように。しかし後者はいたずらに民たちの疲弊を促す結果になるかもしれない。だから、イザベルをその道に促すことは、王家に生まれた者の禁忌にあたる。
「……姉さん?」
 真意が分からず問いかけたが、イリューシャはその前に視線をイザベルから外していた。イザベルが見上げたときには姉の顔ではなくなっていた。星を統べる者の娘としての誇りがある。凛々しい表情を浮かべ、イリューシャはアリカを見つめていた。
 異界から召喚され、世界を構成する摂理も属性も知らぬまま翻弄された少女。
 イリューシャは選定者として、日本にいたときのアリカを観察していた。暴挙に晒されてなお反抗しようとはせず、それが自分の運命なのだと受け入れるように屋上から落ちた。泣き声を忘れて彷徨っていた。
 無駄にトゥルカーナに波紋を広げるだけの存在であれば、選定者として彼女を召喚することはできない。イリューシャはトゥルカーナを支える皇女として、個人の感情とは別に選定しなければいけない。
 イリューシャはアリカを観察して数日のち、彼女は駄目だと諦めようとした。
 自分と同じ顔をしながら、その心はまったく違う者。人が本能として持っている、生きようとする意志すら見せなかったアリカを、トゥルカーナに召喚するわけにはいかない。それでも気にかかり、皇女としての立場を忘れるほどどうしても目を逸らすことができず、あの日まで観察を続けていたのだ。
 屋上から落とされた最後に見せたアリカの意志は、目を逸らすことを許さないほど強いものだった。それまでアリカに抱いていた絶望も諦めも、帳消しにした。
 生きたいと願う意志。
 アリカがそう願ってくれたことが、なによりも嬉しかった。
 しかし強い歓喜と同時に後悔も生まれた。トゥルカーナに召喚したくないという、矛盾する思いが湧きあがった。今のトゥルカーナにアリカの存在は稀有過ぎるのだから。
 サイキ女王が選んだ者がアリカでさえなかったら、更なる選定者である自分がこれほど葛藤することもなかったはずなのに。
 イリューシャは視線をアリカに戻した。屋上から突き落とされたアリカを召喚し、トゥルカーナに導いて数日が経った。アリカは自分の身に起こったことをそのまま受け止め、今日まで歩いてきた。絶望に支配されたトゥルカーナのなかで、常に危険に晒されてきた。それを生き延びさせてきたのはイリューシャだ。アリカの内側に働きかけ、彼女を媒介として自分の力を発現させてきた。しかしそれも、アリカが生きようと心から思わなければ無駄な努力だった。
 イリューシャはアリカを見つめたまま手を伸ばした。
 アリカは怯えたように震える。イリューシャは伸ばした手を下ろした。
「貴方は……生きたいの?」
 問いかけるとアリカは動揺した。
 イリューシャはその問いかけを投げるためだけに現れた。それ以上のことをする時間が彼女からは失われている。サイキ女王の引継ぎをするために行かなければならない。アリカが危機に陥ってももう助けることはできない。だから、これだけは聞いておきたいのだ。イリューシャの助力がなくてもアリカは生きようとするのか。
「……生きる意志を持たない者には何も救えない」
 アリカを観察していた頃、彼女が常に抱いてきた絶望は消えていない。イリューシャにはそれが分かっていたが、アリカが次第に変わろうとしていることも分かっていた。しかしアリカが完全に変わるのを待つ時間はないのだ。最後に命取りになるような意志を、もしアリカが持ち続けているのなら、イリューシャはこの場でアリカを元の場所に送り返すつもりだった。
 そんなイリューシャの思惑を量ることはできなかったが、アリカは驚いたように瞬きをして彼女を見つめた。瞳は揺れているけれど、日本で過ごしていた頃の、何もかもが理不尽だらけの中にも関わらず抵抗を失うような様は消えている。これからはきっと、理不尽なら理不尽だと抵抗する。
 それを感じてイリューシャは僅かに緊張を解いた。
 ここでアリカを送り返すようなことになれば、トゥルカーナは救われるまで遠回りをすることにもなるし、余計な力を揮わなくても済んだ。
 それもまた矛盾した想いなのであるが、イリューシャは微笑んだ。
 トゥルカーナに住まう者たちが少しでもアリカを助けてくれたと思えるのなら、皇女としてこれ以上はない至福だ。
「貴方に夢を託す者もいるの」
 イリューシャの姿は徐々に薄れていった。彼女を形作っていた光が溶け出していく。
「負けないで」
 イリューシャは透ける体で呟いた。イザベルに向き直り、彼女を抱き締める。トゥルカーナでできる最後の逢瀬だ。力強く抱き締めて解放し、次にフラッシュに微笑みかける。
「私、いい皇女だった?」
 フラッシュは困ったように首を傾げて苦笑する。その瞳の中には優しく肯定する光が含まれていて、イリューシャは嬉しげに笑った。フラッシュの前に歩く。
 微笑みの中で僅かに頬を紅潮させて、少し沈黙した後に小首を傾げる。
「最後に……キスして? それで、忘れるから。私にはもう何もいないから。貴方が生きるこの世界を守ることができるから。頑張れって……言って」
 イリューシャの道が、この先フラッシュと交わることは決してない。瞳が熱くなることを感じながら必死でイリューシャは告白した。フラッシュの前に立てば皇女という身分は剥がされ、ただの女になる。そうなりたかった。
 フラッシュは微笑んで頷いた。
 イリューシャの前に跪いて彼女の白い手を取りその甲に口付けた。皇女のために捧げる、騎士の儀礼的な忠誠。
 もちろんイリューシャが欲しかったのはそんなものではない。
「トゥルカーナの繁栄を願っています」
 フラッシュは跪いたままイリューシャを見上げて告げた。イリューシャの頬を涙が伝い、その手にフラッシュの温もりを残したまま、彼女の体は消えた。
 イザベルもアリカも、ただ黙ってイリューシャが消えた場所を見つめた。
「……姉さんが星の中心に辿り着いたなら、エイラ姉さんの結界にも余裕ができるわ。きっと結界を強化してくれる。その間に、乗り込みましょう」
 沈黙を破ったのはイザベルだった。
 彼女を戒めていた『パルティア』という少女はもういない。髪飾りに偽装されていた宝石は、両腕を飾る宝飾として姿を変えていた。イリューシャに託された使命と力は静かにイザベルの中で昇華される。イザベルはイザベルとして、王宮へ戻るのだ。
「アリカ、行こう! 皆が待ってるわ」
 アリカは何か取りとめもないことを考えているように、ぼんやりとフラッシュを見つめていた。イザベルはそんなアリカの腕を取って歩き出す。パルティアのときとは違い、イザベルに戻ればアリカとほとんど変わらない身長だ。アリカは視界に入る鮮やかなイザベルの髪に思考を奪われ、そのことに戸惑いながら歩き出した。
 イザベルはフラッシュを振り返る。彼はイリューシャが消えたときの格好のまま、いまだ跪いている。そんな姿にイザベルは鼻を鳴らして前に向き直った。
「皇女の求愛を断るなんて贅沢な男」
 イリューシャがフラッシュに惹かれていたのは知っていたし、フラッシュが決してイリューシャに振り向かないことも分かっていた。それでもイリューシャはフラッシュを想い続けていた。
 長年彼女と一緒に育ち、彼女を尊敬して仰いできたイザベルだからこそ分かる哀しい事実。
「……馬鹿みたい」
 イザベルの目尻に滲んだ涙も声も、誰に向けられた物なのか。
 流した本人にも分からなかった。