第四章

【九】

 アリカはイザベルに手を引かれながら、イリューシャが現われた場所から遠ざかる。ビトたちが待つ家に近づいて行く。残してきたフラッシュはまだ来ないだろうか。振り返っても木々に紛れて分からない。後ろ髪を引かれるような気分になったが、アリカは何とか前に向き直ると話題を探した。
「パルティア。その姿は」
「こっちが私の本当の姿。騙すつもりはなかったんだけど、ごめんね?」
 イザベルは視線だけをアリカに向けて微笑んだ。
 明るい笑みはイリューシャと永久の別れを交わしたばかりだとは思えないほど。それが彼女の強さなのだろうかとアリカは瞳を細めた。そして『本当の姿』との言葉に触発される。トゥルカーナに召喚された森の中で一番初めに出会ったのはイザベルだった。バールから救ってくれたのだ。イザベルはあれからパルティアに扮してずっと側にいてくれたのか。他の者たちは恐らく気付いていただろう。パルティアにイザベルと呼びかけているのを聞き、不思議に思ったことがある。
 アリカは嬉しい気持ちと、気付かなかったことに対する申し訳なさを覚えて唇を引き結んだ。
「ありがとうね」
 イザベルが振り返る。なぜお礼を言われるのか分からないように首を傾げる。
「トゥルカーナに来たとき、一番初めに助けてくれた。まだお礼を言ってなかったから」
 そう告げるとイザベルは「ああ」と納得したように頷いて微笑んだ。パルティアとなんら変わりない、純粋で嬉しげな笑顔だ。そのことにアリカの心は軽くなる。パルティアであってもイザベルであっても、彼女の心は変わらない。向けられる好意に偽りはない。
「お礼は要らないわ」
 それでもイザベルはどこか誇らしげだ。
 トゥルカーナに来た当初に比べ、アリカもずいぶんと変わった。とても前向きに、生き生きとしてきた。イリューシャが安心して託したのも頷ける。アリカをそのように変えたのがトゥルカーナの住民たちだということが、イザベルにはとても誇らしかった。
 アリカはつられるように笑みを見せた。しかし単につられただけではなく、笑顔の中には確かな安堵も含まれている。イザベルはふと表情を翳らせて視線を逸らせた。アリカが嬉しそうに微笑めば微笑むほど、イザベルの心には暗雲が広がっていく。
 アリカが変わったように、イザベルも変わる。当初の決意はどこへ行ったのか。今ではこんなに決意が揺らいでいる。
 トゥルカーナを救うことは皆の希望であるのに――イザベルは地面を見つめて唇を噛み締めた。
 木々の連立が次第に途切れ始め、間隔が広くなる。そろそろビトたちの待つ家が近いのだろう。
 そう思ったとき、アリカはジュナンの声を聞いた。
「帰って来たぞ!」
 森の中にアリカたちの影を見つけたのだろう。アリカが姿を捜すと、ジュナンが前方から駆けてくるところだった。我先にと、誰よりも早く。だがジュナンはアリカの隣にイザベルの姿を見つけ、足を止めて驚愕した。
「イザベル皇女」
 イザベルはジュナンに唇だけで微笑みかけて頷いた。アリカと共に立ち止まり、集まる皆を確認するようにゆっくりと視線を巡らせる。
 ジュナン。ザウェル。ビト。ライラ。
 全員がいる。誰一人として欠けていない。
 ジュナンの向こう側からビトが走って来た。彼は満面の笑みを浮かべている。イザベルは拳を握り締める。
「イザベル様! 心配したんだぞ! 今までいったい」
 アリカは思わずイザベルから離れた。なぜならビトがその巨体で飛び跳ね、イザベルに抱きついたからだ。イザベルは逃げもせず抱擁を受け入れたかに見えた。だがその刹那、ビトの鳩尾に容赦なく拳を繰り出す。ビトは咳き込んでイザベルから手を放す。
「……ビト」
 ビトを追っていたザウェルはすかさず彼の襟首を掴み、イザベルから更に引き離す。低い声で名前を呼ぶ。
「ザウェル。ビトから目を離さないで」
 イザベルは衣服を正すとザウェルを睨みつける。
 姿が変わってもまったく変わらないやり取りに、アリカは声を上げて笑った。
 アリカの笑い声にその場が和む。ジュナンが頭をかきながらアリカを見た。
「三人してどこに行ってたんだよ? 皆でずいぶん心配したんだぞ」
 ジュナンは不満そうに唇を尖らせる。謝ろうとしたアリカだが、『三人』との言葉に訝って振り返り、フラッシュを見つけて瞳を瞠らせた。こちらに歩いて来るその姿に、なぜか慌てて視線を逸らせる。
「イザベル様ぁ。そんなに嫌わなくてもいいじゃないか」
「うるさいわね。いきなり抱きつくなんて不敬罪も良いところだわ。二度と王宮に立ち入りできないようにするわよ?」
 ザウェルに確保されたまま情けなく泣き出すビトを、イザベルは両手を腰に当てて睨みつけた。アリカは目の前で広げられた二人のやり取りに小さな笑みを洩らす。
「まったく。懲りないんだから」
「イザベルには誰か好きな人がいるの?」
 鼻息まで荒くして憤慨するイザベルに問いかけてみると、彼女は弾かれたように振り返った。全員の視線がイザベルとアリカに集中する。
「な、なな、なにを言ってるのよアリカ! 今はそんなこと言ってる場合じゃないでしょうっ?」
 イザベルは耳まで赤く染めて怒鳴った。足を踏み鳴らせ、逃げるように玄関に去っていく。その後ろ姿を見たアリカは「いるんだ」と呟きを零した。微笑ましい気分でイザベルを見送る。
「誰だろうね?」
 直ぐ側にいたジュナンに気楽な気分で問いかけてみると、ジュナンは複雑な表情で口を開いた。
「さぁ……イザベルと仲が良かったのはサラぐらいしか知らないしな」
「あ……」
 アリカは言葉を失った。
 コルヴィノ族のサラ=ディン。パルティアを庇って命を落とした少年だ。
「そっか……」
 沈んだ空気が流れてアリカは俯く。その場の雰囲気に気付いたジュナンが話題を変えた。
「イザベルになにかあったのか? 今までずっとパルティアの姿だっただろう。それに、アリカもなんか、いつもと様子が違うよ?」
 アリカは驚いた。ジュナンは覗き込むように見つめてくる。
「そ、そう? 別に、なにもないよ」
 アリカはまるで逃げるようにイザベルの後を追いかける。後ろ暗いところなど何もないはずなのに、なぜそうしてしまったのか自分でも分からない。
 ジュナンは追いかけられずに眉を寄せた。アリカが家に入っていくまでを見届けて、フラッシュを振り返る。
「なにがあったって言うんだよ? そんなんで明日は平気なんだろうな」
 まるで仲間外れにされたようだ。唇を尖らせるジュナンに、フラッシュは苦笑してみせた。
「王宮に近いわりに、空気が澄んでると思わないか」
 質問の答えとは全く異なる言葉に、ジュナンは瞳を瞬かせた。
「言われてみれば……昼よりは澄んでる、かな?」
「イリューシャが星の中心に渡ったんだ」
 周囲の霧を掬いあげるような仕草をしたジュナンは、続いての言葉に瞳を丸くした。信じられないとでも言いたげにフラッシュを凝視する。
「たった今、イリューシャの最後の思念体が現われていった」
「……会ったのか?」
 まるで恐れるようにジュナンは問いかけた。
 フラッシュは噛み締めるように静かに頷く。
「必ず救えと念を押されたよ」
 どこか吹っ切れたようなフラッシュの笑顔に、ジュナンは瞳を瞠る。
「明日は王宮だ。そこで全てに片がつく。負けるわけにはいかないからな」
 ジュナンの肩を手の甲で軽く叩き、フラッシュは通り過ぎて家に入っていった。ザウェルからようやく抜け出せたビトもそれに続く。ザウェルは残されたジュナンを振り返ってため息を零す。
「ジュナン」
「……ああ」
 なにを言えばいいのか分からない。
 ジュナンは空を見上げて瞳を閉じた。
 声が届いていないことを悟り、ザウェルは軽いため息を落として家に入っていった。


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 翌朝、アリカたちは旅立った。
 ビトやライラを残していくことはもちろん心配だったが、ライラの体調が万全になるまで待てる旅でもない。再び会おうと固く誓い合い、森に踏み入った。
 アリカたちは再び霧の中を歩いていた。
 昨日までに比べると霧は薄い。イリューシャのお陰だろうか。
 イザベルとザウェルはビトに悩まされることがなくなって、どこか安堵の表情をしている。そんな兄の様子を見て、ジュナンはおかしそうに笑いを噛み殺している。
 イザベルは相変わらずアリカの傍を離れない。遠くで聞こえる風のうなり声が大きくなるにつれて表情も引き締まっていく。風の声は、まるで誰かが大声で泣き叫んでいるかのようにも聞こえる。
「凄い音」
 アリカは眉を寄せながら呟いた。
 とうとう、耳を塞いでも聞こえるほど大きな音になっている。
「ヒマリアの絶壁。王宮は谷に囲まれていてね。その谷を通る音がこんな声を出しているのよ」
 アリカは王宮からザウェルと共に逃げたときのことを思い出した。
 ザウェルに助けられた王家の脱出口には、谷に続く階段があった。イザベルが言う『ヒマリアの絶壁』とは、あの谷のことだろう。果てが見えないほど深い谷だった。
 アリカは次なる疑問に眉を寄せた。
 橋がすべて落とされている、とザウェルは言っていた。だからこそアリカはザウェルに抱えられて谷を越えた。今回も同じ手段で谷を越えるのだろうか。確かに今回はジュナンもいるが、体格の良いフラッシュを運ぶのは、たとえ双子が揃っていたとしても、大変そうに思える。
 疑問は尽きることなく浮かんでくる。
 風がひときわ大きなうなり声をあげる。同時に、森へなだれ込む風の強さも増した。
 乱される髪を手で押さえながら、アリカは木々の合間から零れてきた光に目を瞠った。
「あ……」
 森を抜け、真っ先に視界に入ったのは、遠方に浮かぶ幻想の城。
 淡い光の膜に包まれた城は一瞬ごとに色を変えてきらめいている。アリカは魅了された。
「綺麗……」
 これほど幻想的な風景を知らない。お伽の国に迷い込んでしまったかに思える。
 今までで一番強い感動に包まれ、アリカは声を失った。
「荒れてるわ。エイラ姉さんの結界がなかったら、今頃はあの光も消えていたでしょうね」
 イザベルはため息を零しながら呟いた。
 城をかろうじて保たせているのはエイラの詠唱のようだ。本来の城はエイラの補助がなくても自ら輝いている。もっと美しく、燦然としている。
 それでも、横で見惚れているアリカに気付き、イザベルは微笑んだ。
 視線を周囲に移して道を確認する。
 ザウェルが報告した通り、橋はすべて落とされていた。王宮は遥か彼方だ。
 イザベルはため息をつきかけて飲み込んだ。ここに来て、まだ迷っている自分を感じている。
 どうなるか分からないけれど、とイザベルは唇を引き結んで王宮を見据えた。
 燦然と輝く孤島の城に腕を伸ばす。その途端、イザベルが立つ崖と、王宮の正面玄関に光が灯った。それは谷の上を駆けて中央で結ばれる。一本の道となる。イザベルの足元に輝く光道が現れた。
 不思議な光景にアリカが驚いていると、その視線の先でイザベルが光道に足を乗せた。ためらうことはない。道はしっかりとイザベルを受け止める。
「さぁ。もう直ぐよ」
 自らの魔法――というより、それは王宮が王家の血に反応して開く専用の道であるが――成功したイザベルは明るい表情で皆を振り返った。あともう少しだという思いが皆の心を奮わせた。
 率先して歩き始めたイザベルに続いてザウェル、ジュナン、と歩き出す。幅に余裕があるとはいえ、手すりもなく、道は微かに透けている。透けた向こう側に谷の深淵が見えている。
 誰もがためらいなく歩いていくが、アリカだけは足を踏み出せなかった。
 もしかしたらこの道はトゥルカーナの人間にしか渡れないのかもしれない。自分だけが落ちたらどうしよう。
 そんなことを思う。
 しかしいつまでも怖気づいている場合ではない。アリカと皆との距離は着々とあいている。
 アリカは黙って光道を見つめ、恐る恐る足を踏み出した。しっかりと足がその場に着いたが、まだ安心できない。崖に残っている足から、光に着いている足へと、慎重に体重移動しなければならない。ここでもし光に着けている足が抜けても、残っている足でなんとか頑張ろう、という妙な決意を固める。
 最後尾を務めていたフラッシュが振り返り、アリカの様子に気付いた。笑いながら戻ってくる。
「心配しないでも沈まねぇよ。なんなら手を貸してやろうか?」
「要らないわ」
 アリカはムッとしてその手を払い除けた。意地になって、一息に両足を光道に着く。危惧していた落下はない。両足で光道に立つことができた。
 アリカは安堵してフラッシュに微笑みかけた。足場を確かめたらもう怖がることはない。フラッシュを追い抜かし、背筋を伸ばして歩き出した。
「でも不思議ね。前に来たときは、こんなに綺麗な建物だとは思わなかったのに」
 アリカはイザベルに追いつきながら城を見上げる。
「イリューシャ姉さんが星の中央に辿り着いたのよ。それで光が一時的に活性化しているんだわ」
 イザベルは眩しそうに瞳を細めて城を眺めた。その瞳には幾ばくかの寂しさが滲んでいる。
 イザベルは城に向けた視線をアリカに移した。城を見上げるアリカは無邪気な笑みを浮かべて楽しそうにしている。だがイザベルのひたむきな視線にはさすがに気付いたようで、振り返る。
「どうしたの?」
 イザベルはかぶりを振って視線を逸らした。葛藤を抱えて足を早める。
 城を包む結界の光は確かに活性化していた。イリューシャの功績が大きい。だがイリューシャは死人となってから星の中央に辿り着いた。サイキ女王よりもずっと早く、イリューシャの力は尽きてしまうだろう。だからその前に、エイラとイザベルはトゥルカーナを復活させなければならない。そうして強められた光で闇を払うのだ。
 あれほど多くの死を見てきて、決意をしてきて、今更なにを迷うのか。
 イザベルは唇を引き結んだ。
 この星を救って安定させるためには強大な光が必要だった。だから、イリューシャは命がけでアリカを選定し、召喚した。
 イザベルの役目はアリカを王宮まで導くことだった。アリカがトゥルカーナを救った瞬間、イザベルはトゥルカーナの王となる。トゥルカーナに闇が降臨した瞬間に定められていたことが、ついに現実となる。
 エイラの役目は王宮でアリカを待ち、アリカの光によってトゥルカーナを救うこと。
 イザベルは緊張で乾いた唇を舐めると視線を落とした。
 目前に迫った城を見上げる。森の中で消えたイリューシャを思う。矛盾した想いを抱えたまま城門に触れる。
 門は静かにゆっくりと開かれていく。
 まるで、これから始まる英雄譚の序章のように。


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 ――来た。
 長い間、暗闇のなかで瞳を閉ざしていたエイラはそう感じた。待ち焦がれた存在の出現に表情を綻ばせた。
 祈りを詠唱し、結界を紡ぐ聖歌を織りながら、エイラは脳裏に王宮の全貌を描いた。遠視能力は遺憾なく発揮された。王宮は惜しみなくエイラに情報を与えた。
 城のエントランスに足を踏み入れるイザベルが見えた。彼女が伴うのは三戦士。彼らに護られた、アリカの姿。
 エイラは歓喜しながら立ち上がった。これでトゥルカーナは救われる。
 最後のときのために溜め込んでいた力に、更なる力を加える。これまで展開させていた聖歌すら中断させ、その力も一点に集中させる。
 エイラの意識は肉体を離れて精神体だけになる。刹那の時を経て愛しい妹に駆け寄る。長い間この状態を保つことはできないが、目的達成のためには充分な時間のはずだった。
 エイラは王の間に向かうイザベルたちの傍を通り抜けた。
 微笑む。


 さぁ。
 アリカ。
 イザベル。
 貴方たちの力で、トゥルカーナを甦らせて。