第五章

【一】

 いつもは衛兵があける城の正面玄関。今という非常事態に彼らはいない。イザベルが手を触れると重い音を立てながら両開きに開いていく。音は重いが、実際の扉は重くない。イザベルという正当な継承者の手にかかれば、城は喜んで自ら扉を開く。
 アリカは眼前に広がったエントランスに感嘆した。学校の体育館のように広い。西洋風の高級なホテルに来たような雰囲気が漂っている。修学旅行のパンフレットを思い出しながらアリカはそんなことを思う。実際にアリカは修学旅行へ行くことなく、パンフレットを眺めていただけだったが。
 アリカは口を開けてエントランスを眺め、声にならない声を出した。頬が紅潮しているのは興奮のためだ。けれど、視線を一巡させれば興奮は冷める。人の気配がなく、闇に支配されて寂寞が漂うその場所は、見ているアリカの心も腐敗させていく。
「誰もいないと、こうまで静かなんだな」
 かつての栄華を知っているジュナンたちは瞳を伏せた。誰もがやるせなさを抱えている。
「エイラ皇女は牢に囚われているんだろう? アリカ、それはどこだ」
 自分たちの良く知る城を早く取り戻したいと思ったのか、フラッシュが急かした。振り返ると強張った顔をしている。
「どこと言われても……私も、歩いて行ったわけじゃないから」
 アリカは眉を寄せた。覚えているのは荒れた庭園と、脱出に使った洞窟の様子だけだ。どこを通れば再びあの場所に辿り着けるのかは見当がつかない。
 フラッシュが困ったように眉を寄せる。
「そもそもこの城に牢なんてあったか?」
 ジュナンも首を傾げた。ザウェルも悩むように難しい顔をする。
 長らくこの王宮で暮らしてきた彼らだが、誰もが『牢』などという場所に心当たりがない。
 アリカは困惑してイザベルを見た。生まれたときから王宮で過ごしてきた彼女ならば知っているはずだ。
 イザベルは寂しげに城内を眺めていたが、アリカの視線に気付いて振り返った。直ぐに笑顔を見せる。心を他に捕らわれていても、大体のことは聞こえていた。
「今から行くのは牢じゃないわ。王座よ」
 エントランスに下りている両端の階段は、その二つともが二階へ繋がっているようだ。イザベルは二つのうち左側の階段に足を向けながら皆を促す。
「王座の間を抜けて引継ぎの間へ行くの。そこがトゥルカーナの中心部。トゥルカーナを救うにはそこへ行かないと駄目よ」
 顔を見合わせた皆にそう説明して階段を登り始めた。皆が着いてくるのを気配で確認し、イザベルは顔を上げる。王宮に入ったからには、こちらの行動は敵に筒抜けになるだろう。だから、邪魔が入る前に辿り着かなければいけない。
 イザベルはそう決心した端から疑問が生まれてくるのを感じていた。
 本当にそれだけだろうか。これほどに心が急くのは敵の存在だけによるものだろうか。意志をこれ以上揺らがせないためにこそ急ぐのではないか。
 イザベルは早くも歩調が乱れたのを感じた。
 振り返り、すべてを告げてしまおうかとも思った。
 振り返りかけたイザベルは、王宮の中を清涼な風が吹き渡ったことにハッとする。他の者たちも気付いたように顔を上げる。吹いた風はイザベルたちをすり抜け、一足先に王座の間へと滑り込む。
 ――トゥルカーナを守るために、迷うことは許されない。
 そんなことを言われた気がして、イザベルは残りの階段を駆け上がった。階段の一番上で息を弾ませる。わずかに開いている王座の間を見つめる。そこからは懐かしい光の気配が洩れており、イザベルを招いている。先ほど通り過ぎた風が待ちわびている。
「……姉さん」
 止めていた足を踏み出して、イザベルは王座の間を開く。城の正面玄関と同じだ。力を入れずとも扉は勝手に開く。風に吸い込まれるようにして足を踏み入れ、部屋の中で待っていたエイラに涙を浮かべた。
「お帰りなさい。イザベル」
 柔らかな微笑みは、王宮に闇が君臨してから一度も見ることができなかったものだ。
 頼もしい姉の姿に、イザベルは挫けそうになってかぶりを振り、はにかんだ。
 エイラはしばらく微笑んだままイザベルを見つめる。そして、彼女を追ってきたアリカたちに視線を移した。
「貴方たちも……良く無事で、戻ってきてくれました」
 三人の戦士たちはエイラに近づき、そのまま跪いて頭を下げた。エイラは三人を愛しそうに眺めて微笑む。イザベルが三人の側を通ってエイラに近づき、隣に立つとアリカを振り返った。
 イザベルとエイラと、二人の視線を受けたアリカは緊張した。
「初めまして、アリカ。私はトゥルカーナ王位継承者第1の皇女、エイラ。貴方には以前もお会いしましたから『初めまして』は少しおかしいかもしれませんね。けれどあのような場所を対面の場としたくありません。改めて、初めまして、と申し上げます」
 エイラの声は覇気に満ちていた。黄金の巻き毛を足首まで伸ばした彼女からは相応の風格を感じる。王宮に戻ったイザベルを見つめる瞳にも、三人の戦士に向ける瞳にも、必ず深い慈愛が込められている。ただ自国の民であるというだけで与えられる無償の愛だ。アリカを見つめる瞳にも、まるで他国の王族にするかのように、礼儀正しく気品に満ちた光が湛えられていた。
 暗い牢にいたときとはまったく違う華やかさを感じた。ふっくらと柔らかそうな唇は紅を刷いたように艶やかで、アリカは見惚れた。確かに、彼女があのような薄暗い牢を初見にしたくないと言っても頷ける。彼女は光の中にいてこそ輝ける皇女なのだ。
 納得したアリカは、そのとき儚げに揺れたエイラを見て驚いた。しかしエイラは直ぐに実体を取り戻してかぶりを振る。視線だけでアリカを制する。目の前にいるエイラは、実体を伴っていないのだと漠然と悟った。エイラの本体はいまだあの暗い牢にいる。イザベルたちの到着を知り、意識だけが姿を伴ってアリカの前に現われたに過ぎない。
 ようやく現われた救世主に敬意を表して。
 アリカは眉を寄せた。そのような無茶をして、エイラは大丈夫なのだろうか。
 エイラは微笑んだ。
「アリカ。貴方はトゥルカーナに潜む闇を消滅せしめんと現われた光の愛し子。自らそれを望んで下さった。私たちトゥルカーナ王族は、貴方に永久の感謝を捧げます。危険な旅を経ても揺らがぬ貴方の強き光でお救い下されば、イザベルの御世は更なる平和と繁栄を約束されたも同然です」
 大げさなエイラの言葉にアリカは苦笑した。しかしエイラは本気のようだ。
 琥珀色をしたエイラの瞳がアリカを見つめる。その腕が振られた。
「さぁアリカ、引継ぎの間へ。今こそ貴方の光を解放するときです」
 エイラの手に促されてそちらに顔を向けた。
 自分が持つ光でトゥルカーナを救えば、誰もが平和に暮らすことができるようになるのだ。自分に光の力があるなど実感が湧かなくて、くすぐったくなるエイラの発言だが、アリカは自分にできることならすべてやろうと決めていた。
 エイラに示された方向を見て首を傾げる。
 王座が控える上座の向こう側を促されたのだが、そこには何もないのだ。
 アリカは戸惑ってエイラを振り返る。だが彼女は微笑みを浮かべているだけで、何も言わない。アリカは仕方なくそちらに歩いてみた。すると不思議なことに、何もなかったかに思えた壁に、薄っすらと扉が現われ始めた。アリカが近づけば近づくほど、その扉は姿を明瞭にして存在を強調する。
 アリカはもう一度エイラを振り返った。彼女の瞳が優しく微笑んで頷き、その扉こそ使命の場所であると教えてくれる。跪いたままのフラッシュたちも顔をあげてその様子を見ていた。現われた扉を見て驚いた顔をしている。彼らも知らなかったことなのだろう。
 アリカは扉に近づこうとしたが、イザベルだけがエイラの側で俯いていることに気付いた。いつもの彼女であれば、ここで励ましてくれそうなものだが、イザベルはアリカと視線を合わせようとしない。
「イザベ」
「さぁアリカ」
 口を開きかけたイザベルと、呼びかけようとしたアリカの声を遮って、エイラが促した。
 アリカは急かされるように扉へ向き直る。足を進める。王座を通り過ぎ、あと二歩進めば扉に手が届く位置に来た。けれどなぜか、アリカの足はそこで止まってしまった。
「アリカ?」
 不思議そうなフラッシュたちの声が聞こえたが、アリカは扉から目を逸らさぬまま立ち尽くしていた。この扉の向こう側に行けばトゥルカーナが救われることは間違いないというのに、どうしても足が動かない。本能的な何かが、この扉に触れてはいけないと叫んでいた。
 アリカは戸惑って扉を見つめた。
 いったい何がいけないのだろうと、探るように扉を見つめる。
 アリカの足を止めたのは、幼い頃にかけられた暗示。アリカに普通の人生を望んだ人の祈り。アリカがトゥルカーナを救えばその存在は明るみに出され、平穏な人生など望むことはできなくなるから。
 けれど、そんな祈りをアリカは理解できなかった。
 あの扉を開ければトゥルカーナは救われる。そのためにこそここに来たのに。それなのに、なぜ動けないのか。苛立ちが溜まっていく。戸惑う背後の気配もアリカを焦らせ、額に汗が滲む。
 まとわりつく不快感を無理に払って、アリカはなんとか一歩を踏み出した。エイラが満足気に微笑む。それだけでアリカは安堵した。やはりこれでいいのだ、と確信する。自分に微笑みを向ける人の期待を裏切るわけにはいかない。
 アリカは震える手を扉に伸ばそうとした。
「アリカ」
 小さな声に、アリカは振り向いてしまった。視線の先では、俯いていたイザベルが顔を上げていた。真っ直ぐにアリカを見つめる。
「アリカ」
 泣きそうに弱弱しい声。
「イザベル?」
「わ、私」
 イザベルは震える声で必死に言葉を紡ごうとする。いつも快活に話す面影はない。言葉を生むのに多大な努力を要しているようだ。
 トゥルカーナに属し、トゥルカーナを守るためだけに生まれた、自分の存在意義を否定する言葉。
「私は、アリカに、裏切りを重ねている」
「イザベル」
 エイラの声が上から圧し掛かった。イザベルの肩が怯えて震える。
 エイラもイザベルと同じだ。トゥルカーナを守るためだけに生まれた存在。だから、裏切りなのだ。イザベルがこれから告げようとすることは。
「そっちに行っては、駄目」
 やっとのことで絞り出した声は、今にも消えそうだった。異変に気付いたフラッシュたちが眉を寄せる。
 エイラは無言のままイザベルの側を離れた。イザベルを止めることができないと悟ったのか、自らアリカに近づく。
 重圧が離れたイザベルはもう言葉を止めることなく吐き出した。
「引継ぎの間は、王族が命をかけて星を守ることを約束する場所。アリカがその部屋に入れば、アリカは約束させられてしまう」
 アリカは首を傾げた。この世界にアリカが分かることなど限られているが、今回の言葉は更に分からない。
「イザベル?」
 何を言いたいのか良く知ろうと、イザベルに足が向いた。戻ろうとしたアリカだが、その腕をエイラが掴んだ。意識体だけの彼女には体温がない。腕を掴む手は、まるで氷のような冷たさだった。アリカは悲鳴を上げそうになる。
「アリカはこの世界を救うと言った。自分から。その言霊は守らなければいけない」
 エイラの力は強い。アリカは解くことができなくて困惑する。
「あの」
「イザベルのことは心配ないわ。長い旅で心が疲れているだけよ。貴方がトゥルカーナを救えば回復するでしょう。そのためにも、貴方は一刻も早く引継ぎの間へ入らなければ。あの闇がここに来てしまったら、手遅れになってしまう」
 強引なエイラに、アリカはなぜか背筋を凍らせた。エイラは優しい。それなのに、なぜ『怖い』と感じてしまったのか。それは彼女に対する裏切りのようで、アリカは慌ててかぶりを振った。
「さぁアリカ。トゥルカーナを救って」
 エイラの声に合わせて引継ぎの間へ繋がる扉が開かれた。まるで待ちきれないとでも言いたいように、扉は誰が触れることもなく、自らその口を開けた。
 ぽっかりと開いた深淵の闇。
 アリカは我も忘れてそこから飛び退こうとした。けれど闇がアリカに襲い掛かる方が早かった。闇はアリカに襲い掛かる寸前、少しだけ震えるとその体積を何倍にも増やし、アリカを飲み込んで包めるようにその両手を広げた。アリカは闇に飲み込まれる。アリカを飲み込んだ闇は扉の中に引き込もうと、じりじりとアリカを引きずって行く。
 アリカは本能的な恐怖に夢中で暴れた。
「アリカ!」
 様子を窺っていたフラッシュたちが全員立ち上がった。
「動いてはなりません」
 エイラも一緒に飲まれたかに思えていたが、闇はアリカだけを選び取っていたようだ。もしかしたらエイラは意識体だったから、闇が認識しなかったのかもしれない。
 直ぐにもアリカを助けようとした三人はエイラの命令に足を止めた。三人が王宮に属する戦士である限り、皇女であるエイラの言葉は絶対だ。そんなやり取りが繰り広げられる間にもアリカは引きずられ、闇の中で絶叫を上げ続ける。不思議なことにアリカが闇に飲まれてからというもの、闇の中からは光が零れるようになっていた。触れるたびに生まれる光。それは、闇に抵抗して生まれる光。
 エイラは足元に転がってきた光を見て微笑んだ。
「これで救われる」
 それまで呆然としていたイザベルは、アリカがとうとう引継ぎの間の扉に触れたところで体を竦ませた。扉は強引に閉まろうと、今か今かと待ち構えている。その扉が閉じられてしまったら、二度と開かない。王たる資格のある者が幾ら望もうと無駄なことだ。引継ぎの間は一度に一人しか受け入れない。引継ぎの間の中で、アリカの力が尽きない限り、扉が現われることはない。
 イザベルはアリカの絶叫を耳にしながら呆然と目を見開いていた。
 闇に飲まれようとするアリカの姿はイリューシャの姿と重なった。
 闇の剣に刺し貫かれたイリューシャ。彼女はそのまま絶命し、サイキ女王の魔法となってアリカを召喚した。そうして召喚されたアリカを、今度は自分が殺すのか。
「私は」
 震えた唇が閉じられた。自分の腕で自分を抱き締めて視線を逸らす。
 早くこれが終わってしまえばいいのに。自分ではどうすることもできなくなってしまえばいいのに。
 イザベルはアリカから視線を逸らしたまま願った。
 留められているフラッシュたちが、何かを言いたげにイザベルを見ている。それを感じながらもイザベルは命令を下すことはできない。ただひたすら、早くアリカがトゥルカーナを復活させてくれることだけを望んだ。
 ――ひときわ高く、アリカの悲鳴が上がった。
 それまで震えていたイザベルの方から力が抜けた。まるで抜け殻のように虚ろな顔を持ち上げる。闇に飲まれたアリカを見つめ、扉が閉まるのを見つめ、嫌だと叫ぶ。声にならない声で、全身を震わせて、イザベルはアリカを求めた。