第五章

【二】

 アリカから必死で視線を逸らせていたイザベルは、アリカが全身全霊で叫んだ生への執着に顔を上げた。アリカが生きる意志を持つことを何よりも喜んだイリューシャが脳裏を過ぎる。トゥルカーナの住民たちがアリカを変えたのだと、誇らしく思ったのはそれほど遠い過去ではないはずなのに。
 アリカは今、足の先までが闇に飲まれて引継ぎの間に引き込まれたところだった。
 扉は嬉々として閉まろうとする。アリカを取り込み、その力を我が物にするため、決して開かせないようにする。
 その姿を見た途端、イザベルは嫌だと叫んでいた。
 あの者が目の前から失われてしまうのはもう嫌だ。アリカだけではなく、他の全てが。トゥルカーナに住む者たちが失われてしまうのが嫌だ。
 イリューシャを目の前で失ったあの絶望を味わうのは絶対に嫌だ。
 それは魔法。イザベルがまだ自由に扱えない聖歌と同様に、未熟な魔法が彼女の全身から放たれた。引継ぎの間に働きかけて扉を止める。その隙にアリカを奪い返そうと腕を伸ばす。
 イザベルが感情的に発生させた魔法と同時に、それまでただ歯噛みしながら見守っていたフラッシュが飛び出した。イザベルが自分に視線を向け、命令を下したような気がしたからだ。
 イザベルの命令なら、それはエイラの命令にも匹敵する。
 フラッシュは直感のまま走り出したが、走りながら「いや」と否定した。たとえイザベルの命令がなくても、このような悲鳴を上げる者をどうして放っておくことができるというのだ。
 そんなフラッシュの憤りは、彼の後ろに控えていたジュナンやザウェルも同じだった。フラッシュが床を蹴ったと同時に彼らも行動を起こした。
「エイラ皇女。あまり近づいては危ないでしょう」
 フラッシュは空気を切るように床を滑り、走りながら剣を生み出す。エイラを背中で庇うように、アリカから遠ざける。もちろんわざとだ。
「フラッシュ!?」
 非難の声がその場に響く。
 フラッシュはエイラをその大きな背中で庇いながら動きを封じ、その間にイザベルがアリカを引きずり出した。アリカを奪われたことに気付いた闇は再び触手を伸ばそうとしたが、ジュナンとザウェルが切裂いた。闇は痛みを覚えたように扉に戻る。
「イザベル!」
 闇の悔しげな声を代弁するかのようにエイラの怒声が響き渡った。
 トゥルカーナがまだ平和だった頃、皇女の教育係はエイラだった。年長者ということで、教官よりも鋭く厳しくしつけるエイラの声は、今でもその迫力を衰えさせることなくイザベルの心臓を掴み上げる。けれどイザベルはもう誤魔化し笑いもできず、ただ鋭い糾弾を見返すだけだった。首を振ると、零れた涙が宙に舞った。
「エイラ姉さん――私」
「トゥルカーナを滅ぼすつもり……?」
 引継ぎの間へ繋がる扉が音を立てて閉じられた。アリカを引き込めずに、悔しげに唸り声を上げて、再び開かれるのを待つように。
 閉じられた扉を見たエイラはイザベルを睨んだ。
 イザベルは必死でかぶりを振る。
「別の方法があるわ。アリカを王にしなくても救える方法が」
「不確かなその方法に頼るより、今できる確実な方法を選ぶべきよ。トゥルカーナを一番に考えなければ王は務まらない」
 王宮の奥から滅多に出ることないエイラの怒声など、フラッシュたちにとっては聞き慣れない珍しいもの。イザベルにとっては日常茶飯事だったが、フラッシュたちが目を丸くしていることに気付いたエイラは口を噤んだ。激情を宥め、何とか冷静になろうとした。けれど上手くはいかない。険しい表情をフラッシュたちに向ける。
「貴方たち、王宮を守る第一人者でしょう。トゥルカーナの命運と、一人の命と。どちらが大切かは分かりきっていることでしょう!」
 アリカは闇に飲まれたショックで意識を失っていた。その体をイザベルは抱き締める。フラッシュたちが守るように取り囲む。フラッシュたちが離れてしまえば、エイラは再び先ほどの方法でアリカを闇に飲ませようとするだろう。
 イザベルは泣きながらエイラを見上げた。
「私、もう誰にも死んで欲しくない。目の前からまた、誰かがいなくなってしまうのは嫌だ」
「アリカが星の王になればトゥルカーナは救われる。貴方の選択によって、これからさらに人が殺されていくのよ」
 なぜ分からないのだと悲痛に叫ぶエイラの声に、アリカの意識が浮上した。自分を抱えているイザベルに気付き、緩く腕を動かして彼女の頬に触れる。そこは涙で湿っている。
 アリカが意識を取り戻したことに気付いて皆の視線が集まった。
「あの中に私が行けば……どうなるの?」
 叫びすぎたのかアリカの声は少し枯れていた。イザベルは涙を拭いながらアリカに答える。
「あれは……本来なら、王が入るべき扉」
 しっかりとアリカを抱き締めた。その肩に顔を埋めて告げる。アリカの顔を直視することができない。
「役目を終えた王が、星を内から支えるために身を捧げる場所」
 地上で星を統治した王は、継承者を成したのちに今度は星の内から支えるべく身を捧げる。そうやって、子が人を統治し、親は星そのものを統治して支えていく。二つが揃わなければ、星はいずれ根本から崩壊する。
 一度でも王になってしまえば、その役目を放棄することはない。例えそうではなくても、事実上の生贄だ。王は死ぬまで王であることを求められ続ける。
「それが、星を治める王の仕事なのよ」
 エイラが辛そうに瞳を伏せた。
 今はイリューシャが星を支えている。けれど、彼女の力は長くもたないだろうと思われる。彼女は死してから引継ぎの間へと渡ったのだ。早急に次の王が必要だ。そして次の王は、トゥルカーナを根本から復活させて活性化させるため、強大な光である必要がある。アリカでなければ駄目なのだ。
 そのためにエイラは、王ではないアリカのために扉を開けた。そのために力を蓄えた。けれどそれは失敗した。他ならぬ味方の中にいた、敵のせいで。
 扉はすでに閉じた。エイラは自身の力が急速に失せていくのが分かった。扉は、もうアリカ本人の手か、王の手によってしか開かれないであろう。
「もう、貴方を助けることはできない……」
 イザベルはエイラを見上げた。
 エイラは静かに涙を零していた。やりきれないように眉を寄せ、瞳を伏せている。トゥルカーナを統べるためだけに生まれた皇女だから、存在意義を失ったいま、何もできない。統べるべきトゥルカーナは滅びを迎える。
「もう、トゥルカーナは終わりだわ……」
 アリカは体を起こした。先ほど闇に飲まれたせいで力が上手く入らない。
「アリカ?」
 何とか立ち上がったアリカはエイラに近づいた。自分のせいで笑顔が失われてしまうのは嫌だった。
「私があの中に入れば救われるんだね?」
「ば……っ」
 フラッシュが声を荒げ、イザベルが手を伸ばした。アリカを引き止めるように伸びてきた幾つかの手を、アリカは全て振り切って扉に近づいた。先ほど感じた悪寒が全身を突き抜けるようだ。
 王以外には決して開かないという扉。あとは、星に属する属性を強く帯びた力を注げば扉は開かれる。その力を求めるために。
 エイラにこの扉を開けられるほどの力はもう残っていない。
 アリカはそれがどういう意味か良く分からないまま、単に押せば開くのではないかとも思った。だって今は扉が軽く見える。片手でも押し開けられそうだ。
 それは直感だった。私はあの扉を開くことができる。
「決めてたから。トゥルカーナを救うことが、今の私にできる精一杯なら、やるよ」
 扉に触れただけで、アリカは全身の力が吸い取られていくような感覚に陥った。体温がすべて指先に集中して奪われていく。わずかな躊躇いはあったものの、アリカはその扉を押す。フラッシュたちの制止も間に合わないまま、わずかに開いたその扉からは再び闇が這い出してきた。
「やめろ!」
 わずかに開いたその隙間に、本能を振り切ってまで身を滑らせようとしたアリカは、視界が複雑に回ったことに気付いて息を止めた。
 誰かが叫んだ声と共に。
 フラッシュはアリカを抱えて扉から離れる。
 その直後、扉に向けて何かがぶつかった。
 悲鳴と混乱。
 ジュナンとザウェルは武器を構え、戦闘態勢を取った。背後にイザベルを庇って状況把握を急ぐ。衝撃で倒れていたイザベルは急いで立ち上がり、アリカの無事を悟ると安堵する。そしてエイラは、攻撃を受けて崩れた扉を呆然と見つめた。
 引継ぎの間へ続く扉は、部屋と部屋とを物理的に繋ぐ扉ではない。空間と空間を繋ぐ扉だ。扉を壊されてしまえば、その壁を壊そうとも向こう側が引継ぎの間に繋がるというわけではない。空間を漂う引継ぎの間を、道標なしに見つけることは困難だ。
「フラッシュ?」
 腕に抱き込まれたままのアリカはフラッシュを見上げた。
 貴方が壊したのか、という非難も込められた視線に、フラッシュは慌てて首を振る。王座の間の、入口を見るように顎で示した。
 アリカはフラッシュに下ろされて静かに体を起こす。闇に奪われた体力の回復は早いようだが、まだ完全回復とは言い難い。
 王座の間の入口には女と男が一人ずつ立っていた。
 一人はトゥルカーナの住人、シュウラン。もう一人はトゥルカーナを侵略する闇の者。
 男の姿を目にした途端、アリカはぞくりと肌が粟立ったのを感じた。以前まみえた時に感じた危機感とは比べ物にならない。それはアリカの内に眠る光が揺り動かされ、徐々に目覚めつつあることによっていたが、アリカはそれと知らずに恐れた。フラッシュの胸にすがりつくように後退しようとする。フラッシュが気付き、アリカを後ろ手に庇った。
「……このようなところにあったとはな。灯台下暗しと言ったところか」
 男が手の平を返すような仕草をすると、その掌上に漆黒の珠が作られた。指で軽く弾かれたそれは凄まじい速度でアリカの側をすり抜け、壊れかけた扉に激突した。かろうじて扉の形を残していたその場所は崩され、瓦礫の山だけが残された。周囲の壁もろとも破壊される。
「そんな」
 エイラが呆然と呟いてよろける。そう思った刹那、彼女の体が消えた。
「エイラさんっ?」
「力が途切れたんだわ。本体に戻っただけだから、大丈夫」
 驚愕して叫んだアリカを安心させたのはイザベルだった。しかしその視線はアリカに向けられない。新たに現われた男を睨み続けている。視線を逸らせたらあっと言う間に殺されてしまいそうな雰囲気が漂っていた。
「これでトゥルカーナを救う術はなくなった。さぁ、次はどうするつもりだ?」
 男が楽しげにアリカを見た。攫われたときにアリカが叫んだ、トゥルカーナを救うという言葉を覚えていたのだろう。アリカは唇を噛み締める。
「シュウラン、お前……」
 黙って男を見ていたジュナンは、シュウランの姿に絶句する。フラッシュから彼女の裏切りを聞いていてが、実際に見ると衝撃が違う。シュウランは思わず呟いていたジュナンを見るとクスリと笑った。無言のまま一瞥したのちは視線を逸らす。言葉を交わす意味すらないと思っているようだ。
「待つというのにもいささか疲れてきてね」
 踏み出した男にザウェルが遠距離の攻撃を仕掛けた。シュウランに気を取られていたジュナンは一拍遅れ、慌ててザウェルに続く。調子を狂わせた二人の弓は男に軽く振り払われた。男にかかれば必死の攻撃も、子どもとの戯れのようだ。力の差に皆が息を呑む。
「アリカ」
 攻撃の手を考えあぐねいている間、男がアリカに呼びかけた。
 不意打ちのような呼びかけだ。アリカはなぜか胸を熱くさせる。泣き出す一歩手前のような、奇妙な感覚に包まれる。フラッシュに掴まれていなければ無防備に近づいていたかもしれない誘惑力があった。
 男はアリカの様子に満足そうに笑う。更に誘惑を広げる。
「お前は私の眷属だ。そのような者たちと共にいるべき存在ではない。さぁ、こちらへおいで」
「なにを……言って……」
 アリカは双眸を瞠って男を見つめた。
 手を差し伸べる男は肯定するように頷く。微笑みを浮かべる。
 確かに彼は力に溢れ、色々なことも知っているだろう。紡がれる声に、抗い難い誘惑が含まれていることも確かだ。アリカの心が揺らぎ出す。フラッシュの手をしっかりと握り返して、男の存在を否定しようとするが、頭の片隅で、彼と共に行けば全てをすることができる、と囁く声がしていた。
「アリカは俺らの仲間だ! 誰がお前なんかに!」
 迷いかけていたアリカの思考を打ち砕いたのは、若い力に溢れたジュナンの声だった。怒りの形相で飛び出し、男に踊りかかる。武器を弓から槍に変える。その後をザウェルが追った。
 男は威勢良く飛び出したジュナンを一瞥したが、それだけだ。あとは興味を失ったように彼の視線はアリカに戻る。
 一見、隙だらけの男はジュナンとザウェルに打ち負かされるかに思えた。しかしその男を庇うようにシュウランが前に出た。二人の攻撃を円盤で受け止める。
「シュウラン!」
 槍は円盤のなだらかな曲面に力の方向を変えられ、受け流される。ジュナンは唇を噛んで後方へ跳ねた。槍を消す。
「この方の髪一筋だって、触れさせないわ」
「裏切り者!」
 槍を剣に持ち変えて再び挑みかかるが受け止められた。余裕を見せたシュウランが笑う。
「フラッシュに比べて、なんて力ない太刀筋」
 シュウランはジュナンの攻撃を受け止めながらザウェルの弓を叩き落す。目に見えない力も駆使したシュウランは、明らかに二人より優勢だった。遠くから様子を見守っていたフラッシュは加勢に移りかけたが、男がアリカのみと対峙しているので動けない。フラッシュがアリカを離せば、彼はアリカに詰め寄り、何事かを仕掛けるだろう。拳に汗を浮かべながら歯軋りする。ジュナンたちの無事を祈るしかできない。
「ジュナン、ザウェル!」
 王座から少し離れていたイザベルが叫んだ。
 その号令を正確に熟知していた双子は即座にその場から飛び退いた。その刹那、イザベルから放たれた鋭い浄化の光が、男もろともシュウランを飲み込んだ。
「きゃあああっ?」
 とっさの作戦に反応できた双子以外には、逃げる時間などなかったはずだ。
 イザベルは荒い呼吸のまま光が凝縮していくのを見ていた。直後に愕然とする。光が薄れた先には男だけが残っていた。
 シュウランは死んだのだろうか。光の眷属であるはずの彼女が、イザベルの浄化の光に焼かれたのか。しかし全力を込めたイザベルの力にも男は屈せず、平然と立っている。微動だにしていない。
 彼は少しだけ眩しそうに瞳を細めていたが、取り立てて変化はない。
「あれにはまだ使い道があるのでね。消されてしまっては困るのだよ」
 不敵に笑う男はシュウランの生存を示唆していた。圧倒的な力の差に、イザベルは睨みつけるしかできない。
「皇女の力がこんなものだとはな」
 嘲る声だ。
 男は、アリカを庇って立ち尽くすフラッシュに視線を向けた。
「お前の望みはなんだ。トゥルカーナを滅ぼすことか?」
 今度はこちらの番か、と緊張をみなぎらせるフラッシュの問いかけに、男は瞳を細める。
「どうでもいいな」
「なんだと!」
 フラッシュはいきり立つ。
 彼の怒りを平然と受け流した男はアリカを見据えた。フラッシュの背に庇われ、怯えを見せる弱気な女。
 フラッシュに告げた通り、トゥルカーナが――光の調停星がどうなろうと、男にとってはどうでもいいことだった。彼が望むのはただ一つ。その望みを達成する目的の中に、トゥルカーナが含まれていただけのことだ。
 目の前にはアリカがいる。
 かの女の血を受け継いだ、ただ一人の女が。
 男は瞳を細めながら、フラッシュとアリカを交互に見つめた。
「先代の落とし子か。感謝するよ。お前のお陰で私は苦労することなくトゥルカーナに入り込めた。もっとも、お前などいなくてもこのように死に行く星に入り込むのは容易いことだがな」
 アリカにではなく、その言葉はフラッシュに向けられていた。意外な言葉に瞳を瞬かせる。フラッシュを窺うと不愉快そうに眉を寄せており、言葉を理解しているのか黙り込んでいる。
 アリカは混乱したまま不安を覚え、彼の腕を強く握り込んだ。