第五章

【三】

 男が軽く手を振ると風が生まれた。
「けれどそろそろ鬱陶しくなってきたのでね」
 生まれた烈風は近くにいたジュナンやザウェルに襲いかかる。風を友とする翼ある民の二人だが、悪意的な風にはたまらず悲鳴を上げた。赤い血飛沫が床を染める。二人は頭を庇って耐えようとしたが、足からは力が抜けたようで、倒れ込んだ。重たい音が広間に響く。
「ジュナン、ザウェル!」
 青褪めて飛び出したアリカをフラッシュが止めた。仲間に駆け寄りたい気持ちは同じだが、男を睨みつけたまま動けない。男から放たれる威圧感に縫い止められている。イザベルも同じだった。意志の強い双眸を悔しげに歪ませて男を睨んでいる。二人の視線が男から外れることはない。ジュナンやザウェルの無事を確認することもできない。男の視線に怖じることなく駆け寄ろうとしたのはアリカだけだった。
 男が再び腕を振り上げた。
 フラッシュに阻まれていたアリカは体を震わせて腕の先を見た。そちらには倒れたまま動けない双子がいる。とどめを刺そうというのか。
「やめて!」
 アリカは叫び、壊された扉の瓦礫を拾い上げる。男に投げつけた。アリカの力ではそれほど強く飛ばないと思えたが、瓦礫は重力を失ったように勢いよく飛んだ。気付いた男は飛んできた瓦礫をあっさりと破壊する。少し不愉快そうにアリカを見る。
「出て行ってよ……!」
 幾つか瓦礫を拾い上げて、アリカは叫んだ。男の瞳が細められる。観察するようにアリカを見つめ、嘲笑が浮かぶ。
「それは、ここが光の眷属の居場所だからか? 闇に属する私のいるべき場所ではないと?」
 アリカは眉をひそめる。
「なに、言ってるの?」
「ならば排除されるべきは、そこの男も一緒だろう。私をこの星に招き入れたのはその男、フラッシュなのだから」
「え?」
 アリカは瞳を瞠ってフラッシュを見上げた。
 彼は相変わらず険しい視線を男から外さない。アリカに向けられることもない。まるで男の言葉を肯定するようだ。頑なに周囲を拒否しているようにも感じられる。
「先代闇星界王の落とし子。まさかこのようなところで生き延びているとは思わなかった。光の調停星はずいぶんと力が衰えているらしい。幸運だったな。私が王になるため、あの一族は掃討したと思っていたが――黒魔の珍しい失態だ」
「……だったら何よ」
 男の言葉は良く分からなかったが、アリカはなぜかフラッシュが傷付いているような気がして男を睨んだ。男は肩を竦める。
「自分を知らないというのは恐ろしい。母は何も教えてくれはしなかったのか?」
「え」
 先ほどとは違った意味の衝撃に瞳を見開いた。心臓が高く音を刻む。
「アリカ」
 男の声が重く圧し掛かる。視線をさまよわせるとイザベルやジュナンが映る。男はアリカの動揺を楽しげに観察しながら口を開いた。その直前だ。
「歌?」
 綺麗で透き抜ける歌声。それが、まるでなだめるように響き渡った。
 廊下を駆け抜け、エントランスに広がり、王宮中に満ちていく聖歌。それは皇女にしか許されない特殊な詠唱魔法。
 誰もが声の主を思い出した。
 エイラの歌声だ。アリカが聞いた、しわがれた声ではない。彼女が持つ本来の歌声が響いていた。男が意識をアリカに移したため、エイラの束縛が解けたのだろう。力を取り戻した皇女は、一瞬でも早く光を強めようと、長く歌い続けようと、祈りを捧げる。
 誰もが聞き惚れるなかでただ一人、男だけは苛立つように舌打ちした。
 歌声のなかで異質に響いたその音にアリカは気付く。男を見て表情を強張らせた。
 嫌な予感が育ちだす。
 男の意識がこの場所から離れたことに気付き、フラッシュを押しのけてジュナンたちのもとへ走る。隙をつかれたフラッシュは瞬時に気付いてアリカを追いかけた。男はそんなアリカたちの行動も一瞥しただけで止めようとはせず、意識を再び歌に戻した。
 不快な音を奏でる出来の悪い歌人形。
「二人とも、大丈夫?」
 アリカはジュナンたちに駆け寄ると即座に出血箇所を確認した。血にまみれた二人は意識を取り戻したようで、力ない微笑みを向ける。イザベルとフラッシュも追いついた。フラッシュは警戒して男に視線を向けたが、彼の興味はアリカたちに向かない。
 聖歌は軽やかに強まる。光の眷属たちに力を与えてくれる。
 イザベルはジュナンとザウェルの傷口に手をかざして祈った。サラ=ディンのときと違い、二人にはまだ生気が満ちている。エイラの祈りと相乗していつもより力が高められる。アリカが見守る前で、二人の傷口はゆっくりと塞がっていった。痛みに顔をしかめていた二人の表情も和らぐ。
「ありがとう」
 体を起こしたザウェルが礼を言った。続いてジュナンも起き上がり、手首を回す。
「良かった」
 ひとまず大事に至らずに安心し、アリカは微笑んだ。
 まだまだ未熟だな、と双子は苦笑しながら立ち上がる。
 そして。
「エイラ皇女と言ったか」
 低く呟かれた声にアリカは振り返った。
 本気で機嫌の悪そうな男の顔。その唇に残忍な笑みが刻まれた。なにをするつもりなのか、アリカは育つ恐怖と不安に眉を寄せる。
「そろそろ消えてもらおう」
 呟いた男の目の前にエイラが現れた。その居所をようやく掴み、牢に幽閉していた彼女の肉体を呼び寄せたのだ。
 先ほどまで目の前にいたエイラの意識体と、牢から移されたエイラの実体は、あまりに違っていた。服はずいぶんと色褪せ、黄金の髪は埃にまみれている。心なしか肌の色も暗い。明るい場所で見るエイラの疲弊は浮き彫りにされていた。
 聖歌を紡いでいたエイラは突然の転移に瞳を瞠らせた。驚いて詠唱を止め、突然の光に顔を牢手で覆う。牢から出されたばかりで目に痛かったのだろう。
 いったい何が起こったのか分からずにいたのはエイラだけではなく、イザベルと男を除いた全員が分からなかった。イザベルだけが声を張り上げた。
「逃げて!」
 けれど混乱の極地にいたエイラには届かない。
 男の手がエイラに触れた瞬間だ。
 薄い唇を裂くような勢いで、エイラから絶叫が放たれた。聞く者の胸を打つその悲鳴に、アリカはエイラに腕を伸ばそうとする。しかし距離は遠い。届かない。
 アリカが引継ぎの間へ飲まれようとした悲鳴と同じかもしれない。正反対の強い属性に触れられ、本能的な恐怖にただ叫ぶ。
 白いエイラの体が内側から黒く染められた。ほとんど一瞬のできごとだ。彼女の体が黒く染まりきった瞬間、絶叫が途切れた。まるで木霊のようだ。彼女の絶叫は、皆の耳に、王宮の廊下に、反響して残る。
 皆が息を飲む前でどす黒く染まったエイラの体が、風化したようにサラサラと形を崩して消えた。他には何も残らない。異常な光景にアリカはなにが起こったのか分からず呆然とした。エイラに触れていた男の手を凝視する。
「お前……!」
 イザベルが怒りに声を震わせた。
 エイラは光で構成されたトゥルカーナの皇女。男の闇に触れ、彼女の光は掻き消されてしまったのだ。ただ人ではなく、光でのみ構成されていた彼女だから、光がなくなれば彼女も滅ぶ。
 イザベルも例外ではない。自身の光が消されるような闇に触れれば、やはり消えてしまう。
 エイラは皇女のなかでも存在力が最も強かった。構成されていた光はすべてが彼女の味方だった。そのエイラがあっさりと消されてしまったということは、イザベルもまた、男に触れれば消えるということだ。そしてトゥルカーナの住民も同じだ。
「私に敵う光の存在など」
 男が馬鹿にしたように鼻で笑った。イザベルの頭に血がのぼる。
「許さない!」
「やめろイザベル!」
 飛び出したイザベルをフラッシュが止める。しかし暴れるイザベルを完全に止めることは難しく、イザベルは腕をすり抜ける。素早く前に回りこんだ双子が止めようとする。
「放して! 許さない! あいつ、絶対……!」
 泣き叫ぶイザベルに触発され、アリカもようやく現実を飲み込もうとした。エイラがただ消えたのではなく死んだのだと、ようやく知った。もう二度と会えない。ここは日本とは異なる世界だ。存在のあり方が全く違う。先ほどの消え方が、この世界での『死』なのだ。
「お前たちなど直ぐに消すことも可能だと思っていてが――こうまで呆気ないと、正直つまらない」
 嘲りを含んだ声はアリカを不快にさせる。
「そろそろ本気で、消しにかかろうか」
 込められた男の力にアリカ以外が全員緊張した。皆が後退する。動かなかったアリカだけが前に出される形になる。
「アリカ!」
 フラッシュは叫んだがアリカは動かなかった。近づいてくる男を見つめたままだ。
「引くんだアリカ。今のままでは何もできない」
 ジュナンとザウェルも戻れと叫ぶが、アリカは尚も動かない。男が悠然と近づいてくるのを待つ。
「逃がさないさ」
 呟かれた言葉にアリカは反応した。
 男は一瞬でイザベルの近くに移動しようとした。
 凝視するように観察していたアリカ以外には、男が消えたとしか思えない早業。イザベルは目の前に現れた男に息を呑んだ。他の三人も、自分たちの守りを易々と突破されたことに驚愕する。その間に男はイザベルに手を伸ばす。
 イザベルが消える。エイラと同じように絶叫し、魂の芯から打ち砕かれる。
「パルティアに手を出さないで!」
 イザベルに触れようとしていた男の手はアリカによって阻まれていた。
 アリカは男の腕をしっかりと掴み、イザベルから遠ざけるように跳ね除ける。そのことに誰もが瞳を瞠った。それは掴まれた男も例外ではない。驚いたようにアリカを見つめる。
 男は掴まれた部分を痛めたように、小さく振って後方に跳んだ。忌々しそうにアリカを見つめる。
「あいつの娘か」
 アリカの胸がざわめいた。
 この男は確実に母のことを知っている。
「アリカ、どいて」
 問い質しかけたアリカはその声に振り返った。
 エイラを消した男を睨むのはイザベル。青い双眸は怒りと憎悪を宿し、復讐を誓ってキラキラと輝いている。ジュナンやザウェルにも共通する想いだが、彼らは力の差を正確に理解しており、イザベルほど純粋に怒りを表せない。裏で必死に次の手を考えている。自分たちが切れてしまったら皇女を守る者がいなくなるとして平静さを保っていた。
 アリカは皆の様子を眺めたあとに男を見た。
「私たちではあいつに勝てない」
 アリカは呟いた。分かっているからこそ戦わせたくない。仲間たちを死なせたくない。
「ではどうする? 逃げるというのか、ここまで来ておきながら」
 アリカの言葉を捉えた男はニヤリと笑って揶揄る。飛び出しそうなイザベルを片腕で止めながらアリカは「ええ」と頷いた。
「今の私たちでは、貴方に敵わないもの」
「いつになろうと同じこと。ならば今ここで消えるのも同じだろう」
 男が片手を上げて力をふるった。床が抉れて空気が震動する。ジュナンたちは瞼を固く閉じると腕をかざし、踏ん張ってその衝撃に耐えた。けれどアリカだけは直立不動のまま、不愉快に眉を寄せるだけ。その視線は男を捉えて離さない。一瞬でも視線を逸らせてしまえば、その機に乗じて仕掛けてくると確信していた。
 糾弾するように圧するアリカの視線に男は瞳を瞠った。目の前にいるのはアリカだと知っていたが、その姿が誰かと重なった。幾分昔に邂逅した女性と同じ強さ。
「イザベル!」
 成り行きを見守っていたフラッシュが、イザベルの手を引くと入口に走り出した。
「なにするの!?」
「アリカが盾になっている間に逃げるんだよ!」
 イザベルとジュナンの瞳が見開かれた。
「フラッシュ、本気かっ?」
「冗談じゃないわ!」
「無駄死にしたいのか!」
 非難した二人より、更に強い声でフラッシュは怒鳴りつけた。有無を言わせず引き立てる。様子に気付いた男が不愉快気に眉を寄せ、逃がすまいと彼らに向かうが、アリカが割り込んで進路を塞いだ。
「行かせない」
 強い口調で男を否定する。フラッシュに切り捨てられようとしていても、アリカは感謝していた。彼が踏み切らなければ皆がここで死んでしまう。今の自分たちでは男に勝てないのが分かりきっているから、勝機を見出せる者たちだけでも生き残って欲しかった。
 足止めされた男が鼻の頭に皺を寄せる。
「そんな丸腰で!」
 掌中に力を凝らせてアリカに放つ。アリカは身をひねって躱す。すり抜けようとした男の腕を掴んで引き戻した。
 驚いたのは男ばかりではない。アリカ自身も、なぜそのようなことができたのか分からずに驚いている。けれど目を凝らして男の行動を観察していれば動きを推測することもできたし、追跡することもできた。
 アリカの胸に沸々と感情が湧きあがる。
 なぜエイラが死ななければいけなかったのだろう。
「……なっ」
 引き戻された男は狼狽してアリカから離れる。視界の端を掠めた銀光に目が眩む。
「殺させないと言った!」
 緊張を孕んだ空気が痛い。肌に直接、訴えかけてくるようだ。
 男は静かに息を吐き出し、視線をアリカに固定した。フラッシュたちは既に王座の間から離れてしまっている。彼らを追いかけようとは、もう思わなかった。
 ようやく真剣に向き合おうとする男に、アリカの心臓が高く鳴る。先ほどまでは男が実力を出していなかったからこそ不意を突けたのだと知っている。もう小手先の抵抗は通じないと悟る。
「あの部屋からどうやって抜け出したのだ」
「私が知るわけないでしょう」
 男は唇を歪めて笑った。
 イオの森からバールたちが連れてきたアリカ。バールたちは男の心を具現化させたものでもあるため、そのような行動を取ったとも言える。男が無意識にアリカを欲していたからだ。どれだけ否定しようとバールたちの行動をなかったことにはできない。
 男は眩しいものを見るように瞳を細めた。
 アリカを閉じ込めた部屋に入口は造らなかった。力を持たない者が決して逃げ出せぬよう造られた部屋だった。けれどアリカは逃げ出した。力の片鱗を見せながら、それでも無自覚でいられることを不思議に思う。
 男は笑う。何かに踏ん切りをつけたように、楽しげに。
「やってみるがいい」
 アリカの瞳が揺れた。訝るように男を見つめる。
「トゥルカーナを救うと言うのならやってみるがいい。トゥルカーナは王を失い、暴走している。もう誰にも救えないさ」
「救うわよ。貴方が出て行けば、あとはイザベルが王に就くだけだもの。そうすればトゥルカーナは救われるでしょう?」
 けれどその問いかけに答えはない。
 アリカの側を離れ、引継ぎの間があった扉に近づく。彼の背中を見ながらアリカは呟いた。
「救うことが、私の罪の代価だから」
 男が振り蹴る。その視線が銀瞳の視線と交錯する。
「……貴方は、私の母を知っているの?」
 震えるように囁かれた問いかけに、男は笑った。まるで自嘲のようだ。
「王の存在など、私は認めぬ」
 男はそれだけを呟いてアリカから視線を逸らせ、瞳を閉ざすと姿を消した。アリカは返らなかった問いに視線を落とし、振り切るようにかぶりを振った。殺されるのだと思っていたが、こうして生き残っていることが不思議に思える。
 緊張していた息を緩めて吐き出し、気持ちを入れ替えると王座の間を後にした。