第五章

【五】

 ライラから与えられた寝室に入ったアリカはドアの前でしゃがみこんだ。イザベルとは部屋が別々のため、行動を奇異に思う者はいない。アリカは赤くなった頬を押さえて俯いた。
「な、なんで私っ!」
 端から見ればただ床にうずくまり、顔を押さえるだけで冷静に見えるアリカだが、その内面では騒がしく混乱していた。大絶叫したい衝動に駆られている。踏みとどまるのは、この場所では外まで声が筒抜けになるからという理由だけだ。
 アリカは自分を落ち着かせようと何度も言い聞かせ、深呼吸して寝台に向かった。
 その途中、またしても自分の行動に耐え切れなくなって叫び出したくなり、拳を握り締めて寝台に飛び込んだ。
「ああああもうっ!」
 フラッシュに会わせる顔がない。次に会ったらどんな顔をすればいいのか分からない。笑い飛ばされるのも嫌だし、無視されるのも嫌だ。脳裏で激しい葛藤が生まれる。
 アリカは寝台の上で手足を振り回した。
 フラッシュの驚いた顔、真っ赤になった顔が甦る。
「なに考えてたのよ私!」
 体を起こして寝台に座り、こちらもまた赤い顔で勢い良くかぶりを振る。
 赤くなったフラッシュの顔に、嫌悪感は含まれていなかったかと探ってしまう自分が嫌だ。
「だってイザベルがあんなこと言うから! あれじゃフラッシュが可哀想で!」
 ライラの物だと思われる可愛らしい枕を抱き締め、アリカは言い訳のように叫んだ。けれど哀しくなって再び首を振る。
「違う。同情なんかじゃない。ただ」
 唇を噛み締める。
(フラッシュが傷付いたように見えたから……)
 だから励ましたいと思った。貴方は独りではないから。貴方を肯定する者もいるのだから。そう教えたいと思った。
 ――貴女はもう、独りではないでしょう?
 エイラの言葉が蘇る。その言葉は泣きたいほど嬉しく、勇気付けられた。フラッシュにだって皆がいるのだから、独りではない。
 アリカはそう思って再び顔を赤らめた。
「だからってあれはないでしょう、自分!」
 伝える方法は他に幾らでもあったはずだ。言葉は難しいが、フラッシュであれば汲み取ってくれるはず。先ほどから何度も脳裏で繰り返される。もし軽蔑されたらと思うとたまらない。
「それは、嫌だな……」
 アリカは視線を落とした。手が震えている。
「ああもう、忘れて!」
 これほど強く全員を記憶喪失にしてやりたいと思ったことはない。
「だ、だめ。もう、生きていけない」
 アリカはよろめきながら寝台を下りた。  これまで、死にたいと、絶望的な気持ちで祈ることは何度もあった。今も変わらないが、今回はその絶望とはまた違った意味での絶望だ。我が身を呪っても本気ではない。そんな自分もいたのだと、新たな発見にくすぐったい気分だった。
 気分転換に外へ出ようと扉に手をかけ、そのまま止まった。
 もし廊下で誰かに会ったらどうしよう? いや、最悪フラッシュに出会ってしまったら?
「し、死ぬかも」
 ほとぼりが冷めるまで誰とも会いたくない。頭を冷やすより先に沸騰死してしまう。
 アリカは大人しく部屋にいることにした。
 感情が昂ぶりすぎて目は冴えているが、明日は容赦なくやってくる。
「ああ……本当になに考えてたんだろう……」
 明日のことを思えば直ぐに頭がいっぱいになる。寝台に顔を埋めて唸り声を上げる。
(どうしよう。どうしよう。どうしよう)
 答えは出ない。それでも、いつの間にか眠っていたらしい。
 アリカはふと目覚め、外が明るくなっていることに気付いた。
 体を起こして目を擦る。小さな窓から見える外には、霧が濃く懸かっていた。時計はないが、朝が早いだろうことは容易に想像できる。
(今なら……誰もいないかも)
 とにかく外へ出たい。冷たい空気に触れたい。備え付けの小さな窓は、単に明かり取りのためだけで、開けることはできなかった。
 アリカは緊張しながら扉に近づいた。金属製の取っ手を睨みつけ、一大決心をするように深呼吸した。音が鳴らないよう気をつけて扉を開ける。廊下に誰もいないことを確かめる。できる限り軽く、廊下に体を滑らせて、細心の注意を払って扉を閉める。足音を立てぬように歩くのは存外力が要った。廊下の角から居間を窺う。
 ビトとライラが長椅子で眠っている。彼らの寝場所を自分たちが奪っていたのだと悟って胸が痛んだ。
 胸中で謝り、アリカは居間を横切って玄関の扉に手をかけた。最後まで気を抜かず、外へ出ると静かに扉を閉める。足音を忍ばせながら森に入って、ようやく息をついた。
「こ、こんなに緊張したの初めて」
 まだ早鐘を打っている心臓を押さえて振り返る。
 静まり返ったそちらに動く気配はない。嘆息し、手近な樹の側に座り込む。
(どうしてこんなにことになってるのかな……)
 昨夜は考えられなかったことも、今なら考えることができる。
 これからどうすれば良いのか誰も分からない。どうすればあの男をトゥルカーナから追い出せるのかなど、見当もつかない。頼んだだけで出て行くわけもなく、力づくでも既に負けているのだ。果てしなく困難に思える。
 そしてアリカにはもう一つ、男に尋ねなければいけないことがあった。
 彼は失われた母を必ず知っている。それは絶対に知りたい。それに辿り着くまでの術もまた、ないのだけれど。
 アリカは瞼を閉じて大きく嘆息した。
 イリューシャが現われた場所に近いこの場所は、トゥルカーナで最も空気が澄んでいるのではなかろうか。王宮にいたときよりも呼吸が楽にできる。
 ルチルもルエも無事だろうかと思いを馳せ、アリカはルチルに貰った腕輪に触れた。落ち着いていた呼吸がさらに宥められて力を与えられるような感覚に陥る。体の奥底から何かが引き出されていくようだ。
 アリカは瞼を閉じたまま、そんな感覚に身を委ねた。
「アリカ?」
「はいぃっ?」
 予想もしていなかった事態にアリカの声が裏返った。誰の声かなど確かめることができない。飛び上がった心臓を鎮めようと躍起になったが簡単にはいかない。足音はアリカに近づくと、前に回りこんできた。
「こんなに朝早くどうしたんだ?」
「ジュ、ジュナン……」
 アリカは安堵する。顔が赤いのが自分でも良く分かる。
「昨日は眠れなかった?」
 なぜかもう顔を上げることができず、ジュナンの声にも無反応だった。一見静かに見えるアリカの様子だが、その実かなり混乱しており、叫び出したい衝動に駆られていた。
「ふ、ふふ、ふふふ」
「アリカ?」
 ジュナンが訝しそうにアリカを見た。アリカにだって、自分が何を言っているのか分かっていない。
「ふふ、ふ、フラッシュ……は?」
 地面を見つめながらアリカは訊ねた。冷や汗が背中を流れ落ちる。もし彼がここにいるのなら、何が何でもダッシュして逃げようと決意する。今はまだ会いたくない。
 覚悟しながら訊ねたのだが、ジュナンは一瞬沈黙した。アリカが疑問に思う前に声が落ちる。
「フラッシュはあれから外に出てないよ。見回りには俺とザウェルが来た。ザウェルはまだ王宮の方を見回ってるはずだけど」
「そ、そう」
 その答えを聞くとアリカはなぜか残念な気持ちになった。勝手な感情だ。
 アリカはようやく顔を上げたが、ジュナンの表情は逆光になって良く見えなかった。ジュナンから手を伸ばされてアリカは笑い、立ち上がらせてくれるのかとアリカも手を伸ばそうとする。
「ジュナン。何をしているんだ?」
 強い羽音がしてアリカは手を引いた。空を仰ぐ。
 白く大きな翼を広げて降りてきたのはザウェルだ。見回りを済ませて帰ってきたのだろう。ジュナンの側にアリカがいると気付いて瞳を瞠らせる。
 ジュナンは彼を振り返って肩を竦めた。
「アリカ……早いね。どうしたんだい?」
 ジュナンと同じことを聞きながら、ザウェルはジュナンの側に立った。
 アリカは緊張したが、二人の表情に今までと変わったところはない。そのことに安堵してアリカも笑みを見せる。軽蔑されていなくて良かった。
「頭、冷やそうと思って」
 立ち上がりながら告げると双子は顔を見合わせた。アリカは気付かず服についた砂を払う。
「――中に入ろう。これからのこと、フラッシュと話し合わなくちゃね」
 ザウェルの言葉に深い意味はなかった。王族警備の騎士たちを統括していたのがフラッシュであるから、自然な成り行きだ。しかしアリカは過剰反応する。勢い良く顔を上げる。
「い、行きたくない」
「え?」
 思わず呟くと、双子はまたもや顔を見合わせた。そして訝るようにアリカを見つめる。
「いえ、なんでも……ないわ」
 アリカはグッと堪えて双子よりも先に歩き出す。銀色の髪を揺らして家の中へ入った。
 ビトは起きたようだ。長椅子にはライラだけが寝かされていた。
 扉を開けたアリカは穏やかな家の様子に小さな笑みを浮かべ、その向こうに立つイザベルに気付いて体を強張らせた。真剣な表情で俯いていたイザベルはアリカに気付いて瞳を瞠らせる。その瞳は強いものに変わり、アリカは圧されたように顎を引いて視線を彷徨わせる。
 気まずい沈黙だった。イザベルの言葉を否定してしまったから、嫌われたかもしれないと、そんなことを思う。
「あの……」
 けれどアリカよりも先に、近づいてきたイザベルはアリカに抱きついた。額を肩につけて囁く。
「昨日はごめんなさい。気が昂ぶってて、勢いに任せて言ったことよ」
 イザベルが何を気にしているのか悟って、アリカは微笑んだ。胸につかえていたものがスッと溶けた。
「私は気にしてないわ。大丈夫」
 イザベルは安心したように弱々しい笑みを浮かべてアリカから離れた。フラッシュに向けた言葉に、過剰反応を見せたアリカを気遣っての謝罪だろう。イザベルが気にすることは何もないのだが、そんな気遣いにアリカの心は軽くなる。
「私よりもフラッシュに謝ったら?」
 途端にイザベルは苦虫を噛み潰したような顔をしてそっぽを向いた。
「あいつはいいのよ」
 イザベルは断言し、一人、早々と席に着く。そこへビトが食事を運んできて並べた。明らかにイザベルへの食事配分が多いのだが、イザベルとアリカしかいないこの場所では誰からのツッコミも入らなかった。
 直後に玄関が開いて双子が入ってくる。
「フラッシュはまだ部屋かい? 彼にしては珍しいね」
 ザウェルは食事の用意に嬉しそうな表情をし、次いで部屋を見渡して首を傾げる。
「呼んでこよう」
 そう言って居間を横断するザウェルを、アリカは思わず引き止めたくなった。しかし本当に連れてこないでと言うわけにはいかない。黙ってザウェルの背中を見送る。もう逃げられないのだと、死刑台に連れて行かれるような気持ちになった。
 断腸の思いで待つアリカの元に、ザウェルは意外にも直ぐに戻ってきた。しかし彼の背後にフラッシュの姿がない。
「フラッシュ、外に出たんじゃないかな。部屋にいないんだ」
「え?」
 イザベルの隣で食事を眺めていたジュナンが顔を上げて首を傾げる。
「見回りのときには誰もいなかったよな」
「うん……もう一度見回ってこようか?」
「あ、いや、俺だけで行ってみるよ。こんなときにまさか遠くまで行かないだろ」
 ジュナンはザウェルを止めて立ち上がった。立ち上がりかけていたアリカは機会を失って椅子に逆戻りだ。何かを言いかけたザウェルを遮り、ジュナンはあっと言う間に外へ飛び出した。
 その背中を見送ってアリカは唇を引き結んだ。
(もう今更じたばたしたって仕方ないわ。腹を括るべきよ)
 表情を強張らせて料理を見つめる。湯気をあげるそれら全てが栄養剤に見えた。
 ジュナンを見送っていたザウェルがアリカの向かいの席に座り、アリカの様子を見てふと笑みを洩らす。
「顔を合わせ辛いだけなんだよ。気にすることはないさ。照れてるだけだ」
 最初、何を言われているのか分からなかったアリカは顔を真っ赤にさせた。
「い、言わないで! 昨日のあれは誤解! 間違いよ! お願い忘れて!」
 アリカは両耳を塞いで叫んだ。必死の様子にザウェルはクスクスと笑うが、アリカには冗談ではなかった。耐え切れなくて小さくなる。
 そこにちょうどフラッシュが入ってきて、アリカは真っ赤な顔のまま体を震わせた。居間の言葉が彼に聞こえてしまっただろうか。
 フラッシュと視線が合いかけ、アリカは慌てて視線を逸らした。
「あれ。ジュナンには会わなかったかい?」
「ああ? いや、会ってないが」
 返答にザウェルは苦笑した。行き違いになったらしい。
「じゃあ捜してくるよ。僕の方が早いからね」
 俺が行こう、と言いかけたフラッシュに釘を刺して、ザウェルは外へ出た。その背中に翼を広げてあっという間に空へ駆ける。フラッシュは眩しそうに見送って扉を閉めた。
「あ、フラッシュ隊長。お早うございます!」
 最後の食材を運んできたビトが大きく挨拶した。
「ああ、おはよう……ライラを寝室に運んで構わないよな?」
「あ、お願いします!」
 フラッシュは眠るライラを起こさぬよう静かに抱えて部屋の奥へ姿を消した。知らず緊張していたアリカは肩の力を抜く。
 フラッシュが奥へ消えてしばらくし、双子が帰って来た。
「あれ、フラッシュは?」
 開口一番、ジュナンは部屋にフラッシュの姿がないことに首を傾げた。
「今、ライラを」
「お帰り。悪かったな」
 部屋の奥を指したアリカの声を遮り、戻ってきたフラッシュが苦笑した。ジュナンは笑い返して「いいや」と首を振る。そのままジュナンはアリカの隣に席を取り、並べられた食事を物色し始めた。フラッシュやザウェルも席に着く。ビトが座るのを待ってから食事が始まる。
 さり気なく緊張していたアリカは、その間フラッシュと一度も視線が合わないことを哀しく思った。やはり先ほど、視線を逸らしたのがまずかったのか。合えば合ったで気まずいだろうが、避けられているようだ。
 衝動的だったとはいえ、やはりキスの事実は抹消したいと思うアリカだった。