第五章

【八】

 ビトとライラが台所で食器を片付けている。ライラの放つ鮮烈な魔力は居間にまで届いていた。二人が楽しげに鼻歌交じりで洗い流している様子が目に浮かぶ。
 ジュナンは独りで長椅子に座り、瞳を閉ざしていた。足を伸ばして天井を見上げる。
 瞼裏に広がる闇。その中に一点だけ浮かぶ光明。銀光。
 思い出すようにジュナンはその光景を広げた。焼きついて離れない光景だ。
 そしてそんな過去とはまた別に、アリカとフラッシュを脳裏に描く。フラッシュは昔からの仲間で盟友だ。アリカもまた、トゥルカーナを共に救おうとする、志を同じくする仲間だ。けれど浮かぶ感情は軽やかな物ではなく、自分でも気付きたくない、黒々とした闇だった。
 いらいらする。ザウェルがときどき心配そうに、諌めるような視線で見ていたことは知っていた。彼は気付いている。自分さえ持て余しているこの感情を。
 寝そべりながらジュナンは目を開ける。家には仲間以外の気配がない。ここにはビトとライラ、二人だけで暮らしてきたのだろうか。
 ジュナンは重たいため息をついた。
 破壊衝動。目に触れるものすべてを壊して喚き散らしたい。そんな衝動が日に日に強まっている。恐ろしくなる。そんなことは闇に属する者ばかりが覚える感情だと思っていただけに、光に属する自分にも訪れるのかとうろたえた。
「……光だろうが闇だろうが、そんな時はあるんだ」
 ジュナンは唇を尖らせて呟いた。居間には誰もいないので呟きを聞く者はいない。
 翳して光る金の指輪。フラッシュ、ザウェルに続いて三番目に与えられた力。王宮に属する戦士の隊長職だ。二人と同じ場所にいたくて必死に努力したのは懐かしい記憶だ。
 ザウェルと共に初めて王宮へ上がったときのことは忘れられない。
 サイキ女王が治める楽園。そこには常に温かな光が注ぎ、好奇心旺盛な精霊たちが集っていた。彼らは空気をより透明なものに変化させ、トゥルカーナを巡る聖気を活性化させていた。そして、トゥルカーナの宝とも言える皇女たちの聖歌が絶えず響いていた。水晶が奏でる歌よりも胸をうつ声だった。この世界にこんな綺麗な場所があるのかと、感動に震えたものだ。そして王宮内へ入り、フラッシュを紹介された。光溢れる王宮内で、彼の周囲だけが漆黒に染め抜かれて一枚の絵になったように思えた。最初こそ恐れた彼の存在だったが、声をかけたのはフラッシュからだった。付き合ってみれば最初の印象を打ち砕く、ずいぶんと気さくな性格だったし、何より最初見たときから惹き付けられていた。その時から彼は親友となり、かけがえのない仲間となった。
 フラッシュと共に現れたのはイリューシャだ。まさか皇女がこんな簡単に、まだ昇進して間もない騎士の前に姿を現すなど信じられなくて、驚愕したものだ。銀色の髪と瞳に、思わず見惚れた。月光を映したそれらは何にも代えがたい宝石に思えた。彼女を守るためだったら命を張るのも惜しくはないと、無条件で思わせた。彼女が紡ぐ声は澄んで素直に心に響き、生まれながらにして皇女だと感じさせる。神秘的な色に見惚れたものだ。
 ジュナンは思い出しながら固く目を閉じた。
 戻りたい、と心底から思った。
 初めて出会ったときに戻り、そして未来を知り、すべてをやり直せたらどれほど良いだろう。けれどイリューシャはもういない。代わりに現れたのはアリカだ。
 ジュナンは唇を噛み締めた。脳裏に双子の兄を思う。彼は現在、見回りとして外に出ている。もし今、彼が側にいても現状は変わらないだろう。相談など矜持が許さない。ザウェルは何も聞かず、黙って側にいてくれる。
 ジュナンは右手を握って胸にあてた。祈るように強く願いながら眉を寄せた。
 彼なら気付いて止めてくれるだろう。取り返しがつかなくなる前に、きっと。
 ジュナンはそっと瞳を開けた。サイキ女王から指輪を賜ったあと、イリューシャに誓った言葉が呪縛として心を苛む。あのような誓いなど粉々に打ち砕きたい。言霊はジュナンを縛り、破ればたちまちの内にジュナンを引き裂くだろう。イリューシャ皇女の力は、ときにエイラ皇女よりも強くなる。
 台所から水音が消えたことに気付いて体を起こした。ほどなくライラが現れ、その後ろからはビトが顔を覗かせる。彼の屈強な体を見るたびジュナンの劣等感は刺激され、不愉快な気分になる。隊長職を務め上げるには細身の体では何かと不自由だった。
 ジュナンは何となくビトを眺め続け、王宮を闊歩していたビトと、現在家事仕事をこなすビトとを思い比べて微かに笑う。考えないようにすればするほど可笑しくなった。
「……そんなところはリィー隊長そっくりだな」
 ジュナンの笑い声に不愉快な物を感じ取ったのか、椅子に腰掛けたビトが片眉を上げながら言った。ジュナンは何とか笑い声だけは抑えて微笑んだ。
「俺も尊敬の対象から外れるのか?」
「あの隊長の双子ってだけで論外だ」
 面白くなさそうにビトが断言するとライラが睨んだ。ビトは微かにうろたえる。どうやらこの二人の主導権は幼いライラが握っているらしい。
 ジュナンは自分の膝に頬杖をつきながらライラに視線を移した。
「ライラ。お前はどの程度まで聖力が扱えるんだ?」
「人並みより少し強い程度ですわ。ティー隊長」
 幼さゆえの特権ばかりではないが、可愛らしく微笑んでライラは告げた。
 現在バールたちからこの周辺を隔離するよう結界を張っているのもライラだった。闇の者が無理に近づこうとすればライラは直ぐに気付き、滅ぼすか跳ね返すかするだろう。
 誰にでも与えられる力ではなかった。もとは王家の者しか持ち得ないと思われていた力だが、稀にライラのように、王家に関係のない者の中に生まれることもある。トゥルカーナに生まれた人間であれば誰もが扱える力だ。しかし人はその方法を知らない。
「それは……人の気配を読むというような事も出来るのか?」
 ジュナンの瞳が少しだけ鋭くなった。ライラは瞳を二三度瞬かせ、躊躇いながら頷いた。
「多少ならば可能ですが、詳細は分かりません。何かが近づいてくるという、予感程度でしょうか」
 ライラの言葉にジュナンは黙って頷いた。
 ビトが間に割り込んでくる。
「ティー隊長。エイラ皇女が亡くなられたというのは、その……本当のことなのですか?」
 躊躇うような口振りに訝ったジュナンだが、続けられた言葉に、表情を更に暗くした。自嘲染みた笑みを洩らす。
「……殺されたんだ、俺たちの目の前で。どうしようも出来なかった。今ここにいる敵は強大だととても強く思い知らされたよ。俺たちが束になっても、まるで敵いそうな気がしない」
 諦める訳ではないが「お手上げ」と呟くジュナンに焦れてビトは体を乗り出す。
「でも……何か方法があるんですよね? フラッシュ隊長が言っていたように。隊長たちはトゥルカーナを救ってくれるんですよね?」
 ビトではとてもバールに敵わない。望みを他者に託して詰め寄るしかない。それらを受け止め希望を広げるのは王族の役目。そして彼らを守る、フラッシュたちの役目。
 ジュナンは微かに嘆息して床を見た。
「……フラッシュが言っていたアテを信じるしかない」
 と、ジュナンが言い終わるより先に、ビトが立ち上がった。真剣な表情で一体何事だとジュナンは思ったが、彼が何を置いても向かった先は――丁度居間へ入って来ようとするイザベルの元へだった。彼の素晴らしい“イザベル察知能力”にジュナンは舌を巻き、むしろ感心しさえする。
(ザウェルもこう分かりやすかったらいいのに)
 素直なビトの行動を見ながら双子の兄を思い浮かべて苦笑した。
「イザベル様。お加減はどうです?」
 ビトは全員から呆れた視線を浴びるが気にしない。彼は彼のまま、最初の姿勢を貫くだけだ。そんな立派な彼の初志貫徹であったが、イザベルには無視された。彼女の瞳はビトを飛び越えて部屋の中を巡る。視線の意味に気付いたジュナンが口を開いた。
「ザウェルなら外だよ。見回りだ」
「そう」
 イザベルは微かに嘆息して立ち尽くした。どうするか悩んでいるようだ。
「イザベル様。あんな奴より俺をアテにして下さいよ」
 すかさずイザベルの視界に回りこんで自己アピールするビトであるが、イザベルの心証は悪くなるだけだ。もしかしたらわざとじゃないかと思えるほど、ビトは要領が悪かった。ライラが額に手を当てて嘆く。
「ビトだからこそアテに出来ないんじゃないの」
「何を言うんだライラ。俺はこんなにイザベル様を愛し」
「ありがとうビト」
 通常であれば笑いながら余裕で受け流すイザベルであるが、この時ばかりは声に余裕がなく、ずいぶんと冷たく遮った。その顔には笑みすら浮かばない。
「ライラ」
 自分より妹をアテにされて、ビトは軽くいじけた。情けない顔をするビトへ、ジュナンは「鬱陶しい」とクッションを投げつける。
 イザベルはライラを招いてソファに腰掛けた。
「ここからならカリュケまで歩きになるけれど大丈夫? 貴方が結界を扱えるなら、頼ってもいいかしら?」
「は、はい! 私、精一杯皆さんをお守りします!」
 イザベルから真摯に頼りにされたライラは頬を紅潮させ、体を硬直させて緊張したまま頷いた。徐々に湧き上がる歓喜にライラは笑みを零して拳を握り締める。
「ありがとう」
 素直に喜びを示すライラに嬉しくなり、イザベルも笑みを零す。そしてイザベルは、いまだ喧嘩を繰り広げる二人を一瞥してライラに耳打ちする。
「ビトの歯止め役をお願いしても良いかしら」
「任せて下さい。そちらは慣れてますから」
 妹に言い切られてしまうビトに可笑しさを噛み殺してイザベルは笑う。そんな彼女の様子に、ビトに勝機は一つもないかしらと少々同情して、ライラはビトへ視線を向け直し。
「ちょ、ちょっと、二人とも!?」
 ライラは目を剥いて叫んだ。
 一体どうしてここまで大掛かりな喧嘩に発展したのか、気付けばジュナンたちは剣を持ち出していた。殺気さえ漂う二人の気迫にライラは慌てたが、二人は安心させるように笑みを向けた。
「大丈夫だよライラ。稽古をつけてあげるだけだから」
「そうだ。久々に隊長と手合わせするだけだから、心配することはない」
 二人とも口先だけで、瞳の奥は真剣だった。ライラは二人の雰囲気に絶句して頭を抱える。イザベルを窺うが、彼女は知らぬ存ぜぬで完全無視を決め込んでいる。彼女は皇女であるのだから、それはそれで適った態度であるのかもしれないが、やはりライラは頭が痛くなった。
「もうやめてよビト! 勝負する相手が違うでしょう!? いくら顔が同じだからって、邪険にしてはティー隊長も迷惑だわ!」
 本格的に剣を振り回すとなれば家の中では出来ない。外へ向かう二人の背に必死で呼びかけるライラだが、二人の心には届かない。ライラは子供である自分にもどかしくなって再度口を開こうとしたが、その必要はなかった。二人がちょうど外へ出ようとした時、ザウェルが帰って来たのだ。扉を開けた彼は、剣呑なジュナンとビトの様子に瞳を丸くする。
「何事だい?」
「気にするなよ。久々にビトと剣を合わせてみたいと思っただけだ」
「隊長自ら手ほどきをしてくれるっていうのを断る手はないでしょう」
 この時だけを見れば結託して、二人は笑う。けれどザウェルはライラのように逃したりせず、「ふーん」と呟いた。イザベルやライラの様子を瞬時に見て取り、ジュナンたちに向ける視線を鋭くする。
「稽古するのは勝手だけど、待ってなんかいられないからね。疲れきったお前らでは僕らについて来れもしない。足手まといは必要ないよ?」
 ザウェルの声に、ジュナンとビトは黙り込んだ。正論に反論など思いつかず、睨みつける。ザウェルは彼らの視線を最後まで受け止めずにイザベルに向き直った。
「フラッシュが戻り次第出発しましょう」
「……ええ」
 言葉は少ないけれどイザベルは確かに頷いた。誰とも視線を合わせず、独自の雰囲気の中にいるイザベルを見てザウェルは微笑む。他の者たちを眺め渡した。
「ビトもライラも仕度をして来て。旅支度なんて整っていないだろう?」
 言われたビトは渋々剣を収め、部屋の奥へと歩き出した。ライラを連れて行こうとするが、ザウェルは引き止める。
「そうだライラ。君は動きながら結界を張ることは出来るかい?」
 先程イザベルに頼まれていたことと同じである。二人は同じ物の見方をして同じく行動するのだなと、ライラは少々複雑な気持ちになる。躊躇いながら頷いた。
「出来ると思います。対象が物から人に変わるだけですから」
 ライラの言葉にザウェルは微笑んだ。
「うん。じゃあこの家を出る前から結界を張って貰えるかな。外へ出てから僕らの気配が突然消えるより、この中であらかじめ消していた方が不自然じゃないと思うんだ」
「はい。ではフラッシュ隊長が戻られたらそうしますね」
 ライラはザウェルを見上げながら頷いて、廊下へ出る前で待っていたビトへ走った。そんな彼女に手を振り、ビトたちが廊下へ消えるまで見送り。不貞腐れたように長椅子に座るジュナンに向き直った。
「ジュナン。少しは落ち着きなさい」
「……俺は落ち着いてるぞ」
「嘘付くな。ビト相手に苛立ったってしょうがないでしょう」
 諭す声音にジュナンは唇を噛んで俯いた。ザウェルには全てを見透かされている。
「……いつまでも行動に移そうとしないお前に言われたくねぇよ」
 部屋の反対側に座るイザベルにも、目の前のザウェルにも届かないくらい小さな声でボソリと呟いた。ザウェルの眉が上がる。
「ジュナン?」
 ジュナンは苛立ちを抱えたまま立ち上がり、ザウェルに返事をしないまま、部屋を出ようとした。外の空気を吸ってこの苛立ちを消したかった。けれど外へ出ようとした途端、フラッシュが帰ってくる。こうなれば外に出ることはできず、持て余した苛立ちは倍に膨れ上がる。
 フラッシュがジュナンを見て驚いたように首を傾げる。
「どうした?」
「別に!」
 ジュナンは頬を膨らませてそっぽを向く。玄関に向けていた足を反対に返して乱暴に踏み出す。
「荷物、まとめて来る!」
「あ、ジュナン」
 足早に部屋へ戻ろうとするジュナンをザウェルが追いかけた。そうしながらフラッシュを窺う。一瞬の一瞥だけで意味を悟ったフラッシュは眉を寄せた。不愉快そうな顔をし、やれやれと重たい腰を上げて後を追った。
 一連の流れを見ていたイザベルは誰もいなくなった居間でため息をつく。ようやく息をつけたような気がした。肩から力を抜いて、ずるずると滑るように横になる。とても疲れていた。トゥルカーナが消滅の危機に晒されてからというもの、気を張り詰めて必死に歩いて、息をつく暇もなかったような気がした。
 イリューシャは殺されサイキ女王も不在。コルヴィノ族は全滅。ついにはエイラまで消えてしまった。これでイザベルは本当にトゥルカーナ最後の王族になってしまった。
 トゥルカーナは闇に侵食され過ぎていて、新たな王を呼ぶ力も失われている。イザベルがトゥルカーナを復活させないまま力尽きてしまえば、もう終わりだ。
「……姉さん」
 力ない呟きを零した。脳裏に浮かんだイリューシャの姿はアリカに変わり、その表情は先ほどの泣き顔に変わる。その表情はイリューシャの時には見られないもので、驚きと共にどうしようもない苛立ちが生まれた。
 イリューシャは元々存在しない皇女。サイキ女王は彼女に王族としての意味を与えなかった。アリカをトゥルカーナに呼び寄せるためだけに創られた存在だ。
 サイキ女王がトゥルカーナを支配していたときにはそれを当然だと受け止めていたが、こうして改めて考えると、それはずいぶんと理不尽なことに思えた。最初から誰かの代わりになることを定められて生まれてきたのだ。
 それでもイリューシャはその意味に埋もれることなく、自己を確立した。いつも強くあれた彼女の裏に隠された道は、とても一言で言い表せるようなものではない。しかしそれはアリカが召喚されたことで無に帰そうとしている。どちらが悪い訳ではない。この気持ちを消化するにはまだ時間が必要だ。
 イザベルは瞳を閉じて拳を握った。
 イリューシャに託された願い。トゥルカーナの復活。
 アリカには嫌われてしまっただろうか。
(こんな弱い自分は嫌い。もっと強くならなきゃ、王なんて務まらない)
 最後の皇女ならそれらしく振舞うべきだと考えながらイザベルは体を起こした。皇女なら、最後まで諦めてはいけない。皆の希望を叶えるためにここにいる。
 イザベルの弱音は、誰もいない部屋に、ひどく虚ろに響いた。


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 扉を前にして立ち止まり、何を言うべきかと逡巡する。自分が珍しく緊張しているのだと悟って苦笑した。先ほどまで一緒にいたザウェルはもう部屋に戻り、廊下にはフラッシュの姿しかなかった。目的の場所に来てしまえば時間稼ぎはもうできなくて。
 ザウェルの言葉が蘇った。拳を握って扉を睨む。意を決して扉を叩いた。
 ――応答はなかった。
 虚をつかれ、フラッシュは顔を上げてもう一度叩いた。力を強めたので聞こえないはずはない。まさかいないのだろうかと眉を寄せ、ためらいを忘れて扉を開いた。
「アリカ?」
 部屋に踏み込む。部屋は暗かった。
 ライラが浸透させた魔力は動くものを察して明かりをつける。踏み込んだフラッシュに反応して直ぐに明かりがつけられたが、フラッシュは眉を寄せたままだった。ここにいないとなれば、アリカは自分の意志で家を出て行ったことになる。イザベルでさえ知らないだろう。先ほど見た限り、イザベルが取り乱した様子はなかった。
 フラッシュは苛立ちと焦燥を同時に覚え、舌打ちをして踵を返そうとした。
 そして視界の端を掠めた銀の光に振り返った。
「アリカ?」
 果たしてアリカはそこにいた。部屋の隅に膝を抱えて座り、小さくなっていた。
 明かりが消えていたためここにはいないという先入観があったのか。または、アリカが全てを拒絶するように動かなかったからか。
 ひとまず外に出たわけではないと悟って安堵した。人騒がせな、とため息をついてアリカに近づく。フラッシュの手を離れた扉は勝手に閉まった。
「大丈夫か……?」
 フラッシュの声が労わりを帯びる。アリカの肩が震えていると分かったからだ。
 手を伸ばそうとすると、アリカは顔を上げた。涙に濡れた頬は熱を宿して紅潮していた。至近距離で交錯した視線に、アリカの瞳が怯えたように揺らぐ。
「……近寄らないほうがいいよ」
 提案の形を取ってはいるが、それは明らかな拒絶だった。
 フラッシュは瞳を瞠る。
「なぜだ?」
「私は、もう、要らないから」
 伏せられた瞳。
 その言葉が何を意味するのか分からない。
 フラッシュは何も言えずに固まるしかなかった。心には何も浮かんでこない。ただ、その言葉に衝撃を受けた自分に驚いた。先ほどアリカがいないと勘違いしたときよりも強い焦燥が生まれる。次いで生まれた苛立ちは焦燥を上回り、どうにかしたいと思ったが何をすればいいのか分からなかった。アリカはまるでそこからフラッシュの存在を消したように、動こうとせずに黙って座り込んでいた。
「要らないって……どういう意味だよ」
 肩を掴まれたアリカは怯えるように顔を上げる。唇を噛むと立ち上がった。まるで逃げるようにフラッシュの側をすり抜ける。距離を取って振り返る。
「いいの。私にはもう、要らない」
 アリカの表情が歪む。涙が零れる。そんな様を呆然として見ている自分がいる。
 矛盾したアリカの行動が分からない。好きだと言ったり、要らないと言ったり。そのくせ、自分ばかり傷付いたような顔をするのだ。フラッシュはアリカを凝視した。ザウェルに進言されるまま来ただけだが、当初の目的は吹き飛んでいる。泣き出したアリカに途方に暮れてどうしたらいいか分からない。本当にアリカに答える気がなければ直ぐに部屋を出て行くべきだと思うのだが、足は動かない。
 フラッシュは腹を決めたように深呼吸した。
「何があったんだ?」
 アリカはただ首を振る。関わるなとでも言いたいようだ。
「アリカ?」
 銀の瞳はフラッシュを映そうとしない。次第に苛立ってきて、フラッシュは強引にアリカの手を取って上向かせようとしたが、伸ばした手は振り払われた。
「もういいの。疲れた」
 何も話そうとはせず離れようとする。一度は受け入れたくせに。
「何が“いい”んだ」
 辛抱強く答えを促すが、それでもアリカは何も話さない。沈黙が降りて拳を握り締める。
「言わなきゃ何も分からない」
 フラッシュが半歩詰め寄ると、アリカも同じだけ半歩後退した。
「……関わらないで」
「なにが!」
 ブツリと何かが切れるのを感じて怒鳴りつける。
 手を伸ばすと再びかわされたが、フラッシュは今度こそ強引にその手を掴んだ。瞬間、触れた手に痛みが走ってフラッシュは顔をしかめる。アリカを窺ったが、彼女はそのような痛みを感じなかったようだ。反属性の衝撃はフラッシュにだけ及んだらしい。
 フラッシュは自嘲し、痛みをねじふせてアリカの顎を取った。
 銀の瞳は覇気を失い沈んで何も映そうとしていない。フラッシュでさえも認めない。
「何を考えている?」
「何も、考えたくない。放して」
「話せば放してやる」
 アリカが小さく震えた。
 その様はひどく脆く見えた。肩は細く、力を入れて掴めば簡単に壊せそうだ。けれど王宮ではあれほどの眩い光で闇の者を圧倒し、追随を許さぬ強さを見せた。それがなぜ今はこんなに脆いのだ。
「なんなんだ、お前は」
 心底からの疑問だった。
 フラッシュの問いにアリカが顔を上げる前に、部屋の扉が叩かれる。返事は待たずに扉が全開になる。
「アリカ、出発……フラッシュ?」
 アリカを迎えに来たのだろう。フラッシュがここにいるとは思っていなかったようで、ジュナンの瞳が丸くなる。フラッシュは不機嫌に舌打ちしてアリカから手を放す。ジュナンが怪訝そうに二人を見比べた。
「アリカ……?」
 アリカの様子がおかしいことに気付いたのか、ジュナンが視線で問いかけてきたが、フラッシュは答えない。こちらが教えて欲しいくらいだ。
「出発なんだろう。直ぐに連れて行く」
「連れて行くって……」
 ジュナンの声には戸惑いがあった。扉の前で立ち竦み、どうしたらいいのか分からないでいる。正直なところ早く出て行って貰い、アリカと話をしたいと思ったが、さすがに口には出せなかった。ジュナンの背中からザウェルが顔を出したことで、フラッシュの希望はますます叶わなくなる。これではアリカと話をするどころではない。
「ジュナン、どうかした? ……フラッシュ?」
 ジュナンの視線を追って部屋を窺うザウェルだが、彼もまたフラッシュを認めて瞳を瞠らせた。フラッシュの前に佇むアリカは覇気を失って沈んだ表情だ。涙はないが、まるで泣いていたかのような雰囲気が漂っている。
 ザウェルの視線にはまるで責めるような意味が含まれていて、フラッシュはいらいらと睨み返す。部屋にまとめてあった荷物を掴むとアリカの手を引いた。強引な力にアリカはたたらを踏んだが、抵抗はしない。ずいぶんと投げやりな態度だった。
 ジュナンとザウェルが見守る前で、フラッシュはアリカを連れて居間に去っていく。
「あ、フラッシュ!」
 我を取り戻したジュナンが慌てて追いかける。ザウェルも歩き出しながら顔をしかめた。
「面倒が起こらなきゃいいなぁ……」
 誰にも聞こえないように呟く。本当は、彼にも分からないところでそれは密かに進行していたのだけれど。すべての事象が明らかになるのは、もう少し先。


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 廊下が少し騒がしくなった。
 力なく横になっていたイザベルは体を起こして顔を向ける。フラッシュに手を引かれながら入ってきたアリカに目を瞠る。本意ではないだろう二人の様子に、イザベルは慌てて駆け寄った。
「アリカ!」
 フラッシュから強引に引き剥がして覗き込む。隣ではフラッシュが複雑な表情をしていたが、構うことはない。近くで見たアリカの頬には涙のあとが残っていた。イザベルは唇を引き結ぶ。アリカの手を引いて洗面所に行こうとする。
 部屋に繋がる廊下とは全く別のところにあるため、行こうとしたイザベルは背後でジュナンの声を聞いた。振り返ると不満そうな表情をしたジュナンがいる。追いついたザウェルが苦笑しながら宥めていた。フラッシュはといえば我関せずと椅子に座り込んでいる。
 イザベルは三人の前から姿を消した。狭い廊下を歩き、洗面所の前に来てからアリカに顔を向ける。
「アリカ。あのね。さっき私が言ったこと――」
「大丈夫」
 意外にも確かな声が返って来た。言葉を遮られるように微笑まれて胸を衝かれる。何も言えなくなってしまう。
「……私、外で待ってるから」
 アリカを洗面所の中に押し込んでイザベルは扉を閉めた。


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 イザベルに微笑みを残したまま、アリカは閉ざされた空間でそっと息をついた。掴まれていた腕が熱い。その場所にそっと触れる。備え付けの鏡に映る自分に、表情は暗くなった。
 どうしても最初に目がいくのは銀の髪。そして、少し長い前髪から覗く銀の瞳。
 冷水で火照った顔を冷やしたあと、再び鏡を見上げたアリカは眉を寄せた。
 今更だった。今までも散々に裏切られてきた。今更、死ぬと分かっていながら召喚させたと知っても、それは本当に今更のこと。絶望には慣れている。ここにはまだフラッシュが、皆がいてくれるから、まだ大丈夫。彼らが私をこの場所に繋ぎ止めてくれる。
 アリカは拳を握り締めた。
 けれど一度、希望を抱いてしまったから、それを奪われることが酷く恐ろしかった。
「嫌だ」
 無理に微笑もうとして涙が溢れた。固く瞳を閉じて嗚咽をやり過ごす。そっと瞳を開けて、大丈夫なふりを装う。
(大丈夫。大丈夫)
 幼い頃から何度も親しんできた自己暗示。鏡を見て、しっかりと微笑んでみせる。
 瞬間、鏡を叩き割ってしまいたい衝動に駆られたが、実行に移すことはない。
 自分が笑えば、相手も笑い返してくれる。それがあれば、大丈夫。
 アリカは一瞬だけ素に戻った表情のなか、鏡に鋭い一瞥を向けると仮面をつけた。外で待ちわびているだろうイザベルに明るい声をかけた。