第六章

【一】

 ビトたちの家を出発してから結構な時間が過ぎた。イリューシャが降臨した周辺にはまだ聖気が溢れて邪気を寄せ付けないようになっていたが、その場所から離れるに従って瘴気の濃さが増していく。
「ライラ。足が痛くなったら直ぐに言うんだぞ」
「さっきから何回目? 私は大丈夫だって言ってるのに」
 ビトとライラの会話も、何回か繰り返されたことだった。
「ビトは心配性ね」
 アリカが笑う。
 イリューシャに良く似た姿のアリカに笑われ、ビトは恥ずかしそうに顔を赤らめた。他の皆にも散々言われ続けてきたことだ。それでも、今はもう二人きりの兄妹だ。過保護だと分かっていても、心配しないではいられないのだろう。
「でもライラ。結界を維持しながら歩いているんだから。一番負担があるのは君だよ。辛い時は辛いと言ってね。バールの心配しないで助かっているんだから」
「ありがとうございます、リィー隊長。皆さんにご迷惑をおかけする前に、ちゃんと話します」
 ライラはザウェルに大人びた笑みを見せた。ビトが不機嫌に黙り込み、ザウェルは面白そうな目を彼に向ける。ビトはますます不機嫌になった。
 ライラたちが住んでいた家の結界を解いて、今は歩く皆を包むように結界を展開させている。少し広範囲な結界だ。歩きながら維持し続けていく途方もない方式のため、ライラにかかる負担は相当のはずだった。唯一結界に干渉できるイザベルが補助をしているが、全てを請け負えるわけではない。それでも、誰よりも幼いライラは、疲れた様子をまったく見せない。
 アリカはそんなライラを羨望混じりに見つめた。いくら羨んでも仕方のないことだが、それでも、力のない自分を恨めしく思う。
 それぞれの想いを飲み込んで、周囲の闇は一段と深くなっていく。森はまだ生きているようだが時間の問題だ。闇に侵されるようにして木々は黒々と色を変え始めている。
 王宮を目指していたときとは正反対に道を戻る。行きと変わらない道筋のはずだが、足場は悪くなっていた。速度も遅れる。それでも今回はライラの結界があるためバールたちに見つかる心配はない。偶然バールたちに見つけられてしまったら運がないが、彼らが意図的にアリカたちを捜すことはできない。さすがに闇の者から逃れられるほど優れた結界ではないが、バール程度ならば目晦ましとして最適だ。イザベルも力を温存できる。
(そういえば……)
 歩きながらアリカは思った。
(私、あの男の名前を知らないんだわ)
 いつも『あいつ』や『闇の者』などと、抽象的な言葉しか用いていない。誰かに聞けば分かるのかもしれないが、今はそのような雰囲気ではない。何とはない居心地の悪さを覚えながら振り返る。
 今日の最後尾はフラッシュが務めていた。その前をライラとビトが歩き、二人の前はアリカとイザベルが歩く。先導を務めているのは双子だ。
 振り返ったアリカは、ライラの頭越しにフラッシュを見つけた。彼は視線を一つに固定し、黙々と歩いている。だがその全神経が周囲に注がれていることは気配から分かった。彼がどこか不機嫌そうに見えるのは気のせいだろうか。ビトたちの家で彼を拒絶してしまったことと関係があるだろうか。結界があるからと言って警戒を解かないのがフラッシュだとは分かっていても、アリカの心は沈んでいく。視線を戻して、地面に落とした。
(どうでもいいと、思った)
 アリカは寂しさを覚えて瞳を細める。
 ここで頑張っているのも、トゥルカーナが滅びようとしているのも。たとえトゥルカーナを救えたとしても、望んだたった一つのことが叶わない。それならば『どうでもいい』と、思ってしまったのだ。
 アリカはため息をつきそうになるのをこらえた。
(だから、助かった)
 フラッシュがあのとき部屋に来なかったら立ち上がれなかった。どこまでも闇の中に居続けていたかった。あのときフラッシュが引き上げてくれたから、目的を思い出したのだ。トゥルカーナが滅びてしまえばこの者たちも滅ぶのだと。自分が滅びても彼らが滅びるのは許せない。だから、自分の望みが叶わなくても、トゥルカーナが滅んでもいいとは思えないと、思い直せた。
「アリカ?」
 イザベルに呼ばれて振り返る。
「どうしたの?」
 尋ねられてアリカは首を傾げた。微笑んでみせるとイザベルは辛そうに視線を外す。
「ごめん……」
 小さな声はアリカに届かない。何を言ったのかと顔を近づけようとすると、彼女は耐え切れないように顔を上げて、前を進むザウェルに手を伸ばした。ジュナンと共に、ときおり笑いながら歩いていた彼の服を掴む。
「イザベル?」
 振り返ったザウェルは瞳を瞬かせた。そんな表情にイザベルは涙を滲ませ、顔を俯かせる。ザウェルは眉を寄せてイザベルの肩に手を置いた。
「ああ! リィー隊長! イザベル様に何してやがる!」
 ビトの相変わらずの声が響いた。イザベルは沈んだ心のまま彼らの声を聞く。中にはアリカの声も混じっていた。いつもなら自分を救い上げてくれる彼女の声だが、今ばかりは疎ましさを感じた。けれどそれをアリカに悟られてしまうわけにもいかなくて、直ぐに別の場所に走り出してしまいたい。しかしそれもできない。
 イザベルはただ俯いた。そうしていれば皆に背を向けているので泣いているとは誰にも分からないだろう。特にアリカに悟られるわけにはいかないのだ。この涙が彼女のせいだと思わせたくない。本当に違うのだから。しかしアリカの性格から、涙を見れば自分のせいだと思い込むことは確かだった。だから少しでも心労になる要因を与えてはいけない。これ以上彼女に傷付いて欲しくない。
 自分でも何を思っているのか分からなくなってきて、イザベルは唇を引き結んだ。持て余した気持ちはとどまることのない涙となって溢れてくる。そんな自分に辟易する。己の弱さがたまらなく嫌だった。
「もう……嫌だ……」
 思わず呟いたイザベルは驚いて口を押さえる。声に出すつもりなどなかった。
 小さな声だったが、直ぐ側にいたザウェルには聞こえてしまった。
 イザベルが硬直した一瞬の合間を縫って、ザウェルが声を上げた。
「フラッシュ。休もうか?」
 列の歩みが止まって不審な表情をしていたフラッシュに顔を向ける。
 イザベルは自分の弱さに歯噛みし、気遣おうとするザウェルに嬉しくなり。そんな表情が、次の瞬間、凍りついた。
「どうせ滅びに向かう星だ。急ぐこともないだろう」
 誰もが、思っていても口にはしないだろうことを、ザウェルは微笑んで告げた。皆が驚愕に目を瞠る。そして聞いたイザベルは、衝動に衝き動かされるまま、渾身の力を込めてザウェルの頬を叩いていた。
 深緑を宿す瞳は怒りにきらめく。涙で潤んでいたせいもあり、一層のきらめきを放つ。
 イザベルは肩を震わせてザウェルを睨みつけた。
 睨みつけられた当の本人は怯むことなく微笑みを返す。
「他人に影響されて自分を見失うような者には何も救えないよ。現在トゥルカーナを救えるただ一人の皇女である貴方が乱心するなら、もう終わりだ」
「影響……? 私が、なにを!」
 耳鳴りがしてザウェルの声以外には何も聞こえなくなった。怒りで視界が暗くなるのが分かる。ひどい気持ちの悪さに眩暈がする。強すぎる激情に、言葉すら端的になる。
「貴方は周囲に影響を受けすぎている。本当なら貴方が影響を与える立場にあるはずなのに」
 イザベルは反論しようとして口を開く。しかし言葉がでてこなかった。
「トゥルカーナが消滅するのも時間の問題だ。フラッシュ、休憩しよう。僕たちの皇女さまはお疲れのようだ」
「リィー隊長……! あんた!」
 ザウェルはイザベルを残して去ろうとする。それまで黙っていたビトがようやく声を振り絞る。その場を離れようとするザウェルに殴りかかろうとし、ライラが悲鳴を上げる。
「ビトやめて!」
 ライラの制止は必要なかった。振り返ったザウェルに、ビトが思いとどまったように止まったのだ。二人はそのまま視線を絡ませていたが、先にザウェルが視線を外す。正視できなくなったということではなく、単にビトに付き合って時間を取られるのが嫌だという態度で。
 ビトは離れていくザウェルの背中を睨みつけていたが、もう殴りかかろうとはしなかった。止まったビトにライラは安心したが、慌てて彼の腕にしがみ付いた。そうしなければ気持ちが変わってしまうと思ったのか。ビトは彼女のそんな行動に笑みを見せたが、再び表情を曇らせると地面を蹴った。
 喧嘩は回避されたようだ。
 ビトの剣幕に動けないでいたアリカは安堵に息をつき、背中を見せ続けるイザベルに駆け寄ろうとした。フラッシュに腕をつかまれ止められる。
「あのままにしておけ」
 アリカは眉を寄せた。フラッシュはイザベルの様子をうかがってからアリカの腕を引く。
「イザベルは強いだろう?」
 反発しようとしたアリカだが、フラッシュの瞳にも彼女を心配する気配が混じっている気がして気持ちを宥める。今は一人にしておく方が、彼女のためなのだろうか。
 アリカはイザベルを気にしながら、フラッシュに促されるまま歩き出した。
 双子やビトたちは既に離れていて、少し遠くの場所に休憩の準備をし始めたようだ。木々の合間から、天幕を張ろうとする彼らの様子が窺える。
 アリカはイザベルから大分離れた場所まで来ると、たまりかねて口を開いた。
「イザベル、あのままにしていいのっ?」
「それがザウェルの望みだからな」
 納得がいかない答えにアリカは唇を引き結ぶ。しかし何を言えば説得できるのか分からず言葉を探し続け、非難するように呟いた。
「私……ザウェルがあんなこと言うなんて思わなかった」
 嫌な言葉だと自分でも思った。沸々とした怒りが湧いてくる。
 フラッシュは無言で歩き続ける。
「もっと優しい人かと思ってたのに。私なんかのことも助けてくれたし」
 王宮から抜け出そうとしたときのことを思い出しながらアリカは唇を尖らせた。フラッシュは自分を卑下する言葉に耳を傾け、俯き加減に歩くアリカを見下ろした。
 ――銀の光。この光を知っている。
 フラッシュは瞳を細めながらそう思った。
 イリューシャともこうして肩を並べて歩いたことがあった。明るく眩しすぎて、とても直視することができなかった。けれどアリカからは、イリューシャのように常に光り輝いている眩しさを感じない。思えば失礼な印象だが、フラッシュは納得した。
 イリューシャのように常に光を放っているわけではないから、ときおり輝くその気配に魅せられるのか。そして垣間見える光の意志は、イリューシャよりも力強く鮮烈なものだ。
 そこまで考えたフラッシュは苦虫を噛み潰したようにしかめ面となった。
 誰にも関わらないと決めた。こんなことを分かっても無意味だ。
「さっき……」
「え?」
 自分が声を出していたことに気付き、フラッシュは我に返ってアリカを見た。何も分かっていない銀の瞳が見つめ返してくる。思わず目を逸らし、逸らしたことに気付いて驚愕する。なぜ逸らしてしまったのかと憮然とし、半ば意地になってアリカに視線を合わせた。
「さっき、ビトの家で」
 瞬間、繋いでいたアリカの腕から動揺が伝わった。だが危惧していた逃走はない。フラッシュは安堵し、そして安堵したことにまた腹が立った。なんだか段々と苛々してくる。
 機嫌が急降下していくのを感じていると、敏感に悟ったらしいアリカが躊躇いながら声をかけてくる。
「ジュナンたちは向こうだよ?」
 アリカの指摘に顔を上げると、進行方向とわずかに違った方向にジュナンたちが見えた。範囲を広げたライラの結界の中で、忙しそうに野営の準備を始めている。どうやら別のことに気を取られていて方向感覚が狂ったらしい。直ぐに方向修正をしようとしたが、なんだか癪だった。
「いや、いい」
「いいって……フラッシュ?」
 戸惑ったようにアリカが覗き込んでくるが、フラッシュは居心地が悪くて顔を逸らした。ジュナンたちがいないほうが聞きだしやすくて丁度いい。などと無理矢理に理由を取って付ける。
「ビトの家で、お前があんなことを言った理由だ」
 足を止めてアリカを振り返る。
「なにが“もういい”んだ?」
 アリカは少し首を傾げた。その瞳が翳っていく。そんな様子を間近で見たフラッシュは瞳を瞠った。これ以上ここにいてはいけないと警鐘が鳴ったが、視線を逸らすことも、踵を返すこともできない。
 アリカは虚ろな瞳を抱いて告げた。
「もう、何も望まないと……そう思った」
「望む?」
「望んでも無駄だって、分かった。望むことに疲れた。だから、もういいの」
「もういいって……」
 フラッシュは絶句した。荒んだ瞳はフラッシュを映さない。細められた瞳を縁取る銀の睫毛が影を落とす。
「お前の……望みは?」
 そこまで聞いて何をするつもりなのか。フラッシュはただ訊ねた。すると銀瞳がゆっくりと持ち上げられてフラッシュを映す。強い光を湛えていた瞳だが、不意に光を失って閉じられた。
「なにも」
 急に目の前から失われた銀の瞳に腹が立った。
「なにもないはずないだろう」
 アリカの両肩をつかんで問い質す。自分でも何をこんなに苛立っているのか分からない。ただ、目の前でアリカがすべてを諦めようとしているのが許せないと思った。
 思ってしまい、なんだかストンとその気持ちの正体が分かった気がする。
 フラッシュは一瞬呆けたように肩の力を抜いた。アリカの肩から手が滑り落ちる。そのことに気付いてアリカは瞳を開ける。目の前で自分を凝視する瞳に微笑みかけて「ありがとう」と告げた。わけがわからないと言いたそうなフラッシュから数歩離れて俯いた。
「ビトたちの家でフラッシュが来てくれなかったら、私はあのまま本当にすべてを諦めようとしてた。だから、引き上げてくれてありがとう」
 フラッシュをその場に残したまま、アリカは歩き出した。ジュナンたちが待つ場所に行ってしまう。その後ろ姿をぼんやり見送りながらフラッシュは思う。いま動かしているのは最初からアリカが持っていた本当の願いじゃないだろう、と。
 トゥルカーナを救うという、それだけが今のアリカを動かしている。けれど、一番最初の願いを諦めてしまったから、きっとアリカは自分の命をかけてまで今の願いを成就させようとするだろう。諦めが生んだ覚悟だ。けれど、それは違う。諦めた者には何も成就できない。
「なにが“要らない”だ」
 フラッシュは苛立ちのまま吐き捨てた。アリカを見送る瞳には強固な意志が溢れている。
「冗談じゃない」
 自分の心のありようにため息をつき、口許を緩ませて。
 妙に晴れた心を抱えて、フラッシュはアリカを追いかけた。