第六章

【二】

 取り残されたイザベルは皆が去っていくのを知った。アリカでさえも去っていく。それが辛くて哀しくて、しゃくり上げるように泣き出した。もう誰も側にいないのだからこの声は誰にも届かない。だから思い切り泣いてしまえる。
 平和な頃のトゥルカーナは微塵もない。誰がこんな風にしてしまったのかと、胸中で激しく罵った。けれどそれは侵略者にではなく、自分に向けられる。
 サイキ女王も、イリューシャも、エイラまで失くした。悲しむ暇すら与えず、皆はトゥルカーナの再興を押し付けてくる。泣く以外には何もできやしないのに。確かにトゥルカーナ最後の皇女だと分かってはいる。それが自分の役目だと理解もしている。だが、心はどうしようもなく疲弊していた。こんなに辛い思いをしてまで救う価値があるのかと思ってしまう。どうせなら自分もこのまま滅びを受け入れようかと、投げやりにもなってしまう。
 先ほどザウェルがあのまま甘やかしてくれたら、安心して眠ることができただろうに。どうしてこんなに辛い思いをしなければいけないのだろう。
 イザベルは嗚咽を堪えながら膝をついた。しゃがみこんで地面に突っ伏す。頭に血が溜まっていくのを感じた。次第に圧迫感が強まり、頭痛が起こる。
(誰か、私をこの役目から解き放ってくれたらいいのに)
 王宮を思い浮かべ、そこに現れた侵略者を思った。現在は彼から逃げてる最中だが、こんなに辛い思いをするならいっそのこと追いつかれて消されてしまいたかった。エイラのように。
 ――今のままではイザベルはすべてを失くすことになるよ。
 耳の奥で木霊するのはザウェルの声。彼が去り際に囁いた言葉だ。
 その意味を考えてはみたけれど、頭の奥が鈍く麻痺しているように動かない。彼が言いたかった意味を正確に悟る前に、次いで甦った言葉にとらわれる。
 ――影響を与えられすぎている。
 その言葉は、去り際に囁かれたザウェルの言葉を掻き消した。
 イザベルは奥歯を噛み締めて顔を上げる。顔に昇っていた血液が一気に下がり、貧血を起こしたように目の前が暗くなった。拳を握り締めて倒れるのを堪える。
「……影響くらい、なによ」
 唇を尖らせるようにして吐き出す。
 誰しも一人では生きられないから支えを探し、誰かと共に生きようとするのだ。人と関わりながら生きて行くなら、影響を受けるのは当然のことだ。それなのにザウェルは“皇女”だということでそれすら禁止するのか。
 拒絶されたようで哀しかった。こんなにも脆くなってしまったことが悔しかった。
 アリカと初めて会ったとき、イリューシャが最後に託した希望だと信じて疑わなかった。アリカ自身もトゥルカーナを救うと決意してくれた。それが本当に嬉しかった。だからためらいながらも引継ぎの間へ導き、そこで、もっと強い決意をしたと思ったのに。今ではその決意が揺らぎ始め、後悔まで生まれようとしている。あのときの強さはどこへ行ってしまったのか。
「もう、嫌よ」
 ビトの家でアリカが同じことを思っていたとは知らずに、イザベルもまた呟いた。
 心を絶望に浸す。
 これ以上頑張っても誰も褒めてくれない。いつも笑顔で導いてくれたエイラとイリューシャはいない。皆は責任を押し付けて傍観している。アリカでさえも。誰も失いたくないから、その方法を考えて、考えて、そうして歩いているのに。
「サラ=ディン……」
 まるで禁忌のように誰も口にしない少年の名前を呼んだ。
 イザベルは潤んだ瞳で両手首の宝飾品を見た。
 イリューシャから贈られ、サラ=ディンを最後に見送ることになったもの。もし彼が生きて隣にいてくれたら、少しは心が慰められたかもしれない。光に還った者たちは長い年月をかけて、トゥルカーナを構成する一部として巡り続ける。トゥルカーナの王が必要に応じて彼らに光を与え、再び肉体を構成してそこに彼らの魂を宿すのだ。人々の想いを結晶化する。それを宿す肉体はトゥルカーナの聖気を抽出して形成させる。
 イザベルにはサラ=ディンを精霊としてこのトゥルカーナに呼び戻すことが可能だった。けれど今までそうしなかったのは、今のトゥルカーナにそれだけの力が満ちていないから。そしてイザベルにはまだその力が完全に備わってはいないから。更に言えば、その魔法は王宮に所在していなければ決して扱うことができない類のものだった。
 再び生まれてくる者は、トゥルカーナを巡ることで、それまで生きてきた記憶をふるい落としている。ふるい落とされた記憶は生きている者が引き継ぐ。新たに生まれた者は、まったく新しい他者として生きることが許される。だから、サラ=ディンが一度死んでしまえば、たとえ次に新しく生まれようと、彼は既にその記憶を失い、まったく新しい人生を歩み出す。
 それでも――彼が彼であることは変わらない。
 イザベルはそっと顔を上げた。
 王家の者にしか与えられない聖眼で上空を見つめる。そこにはライラが展開させる結界が広がっていた。ライラの心を映したかのように、透明で優しい結界だ。
 イザベルは昏い笑みを洩らした。
(ザウェルには慕う者が沢山いるものね。私は、イリューシャ姉さんの影に隠れてばかりだったけど)
 視線を下げて、イリューシャから贈られた宝石を見つめた。唇を引き結んで指で弾く。宝石はイザベルの願いに呼応して力を放った。イザベルは宝石が増幅した魔法に心を乗せる。
 イザベルの体が変貌を遂げる。ライラと同じくらいの少女へと変化し、腕の宝石は大きな髪留めとなって髪を飾る。イザベルはパルティアになる。同時に、揮うことのできる力にも制限がかかった。
 なぜか笑いが込み上げてきた。笑いたくないのに衝動は止まらない。
 イザベルは仰向けに転がって空を見上げ、服の袖で顔を覆った。哄笑が向けられるのは誰にか。
 遠くから沢山の声が聞こえる。侵略者に滅ぼされ、トゥルカーナを巡るようになった者たちの嘆きだろうか。しかし今はその声に耳を傾ける余裕もなくて、ひとしきり笑った後、起き上がった。
 振り返ると遥か遠くにジュナンたちが見える。彼らは野営のために天幕を張り、火を熾して食事の準備を始めている。ライラの姿は見えないが、ビトがいるので近くにいるだろうと思った。木の根元に座っていて、パルティアからは見えないだけなのかもしれない。誰もが野営の準備に奔走している。
 彼らとの距離は遠かった。
 しばらくは彼らの様子を窺っていたパルティアだが、視線を落とすと立ち上がった。彼らには背中を向けて歩き出す。どこに行こうとしているのかは分からないが、このままここで座り込んでいるわけにはいかない。そして、仲間が待つ場所へは戻れないと思った。彼らが本当に待っているのかも分からない。
 道具としてしか必要とされていないのかもしれない。
 アリカと同じだ。
 パルティアは皮肉な笑みを洩らして足を早めた。
 皆、皆、ただの道具に過ぎない。誰もがだ。
 ライラの張った結界の守備範囲を容易く通り抜けて、パルティアの姿は森の闇に消えた。


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 ジュナンは天幕を張りながら隣で作業を続けるザウェルを窺った。彼の表情はいつもと変わらず、涼しい横顔をしている。ジュナンに対してはいつも厳しい言葉をぶつけてくる彼だが、皇女に対して意見するのはあまり聞いたことがない。それも、いつもジュナンにぶつける言葉よりも厳しいものだった。それがジュナンには意外だ。
 確かにこのままのイザベルに任せていては、トゥルカーナの未来が明るいとは言い切れない。だが、わざわざ追い詰めるような言葉を選んで糾弾しなくても良かっただろうに。
 反対側で天幕を張るビトを見ると、彼もライラと共に心配そうにイザベルを気にしていた。そのため、作業もろくに進まず、彼の手からザウェルが縄を取り上げた。
「あ。リィー」
「遅いよ」
 冷ややかな声音。口許が笑みを湛えているだけに違和感が募っていく。
 ザウェルはビトから取り上げた縄を手早く巡らせて結んだ。少し離れた場所で、待機を命じられていたライラが不安そうにその様子を見守っている。
「……なんであんなこと言ったんですか」
「なんで? ビトはトゥルカーナが滅ぶのを見たいと思っているの?」
「そんなこと思ってるわけないじゃないですか!」
 視線を縄に落としたまま穏やかに応じたザウェルに、ビトは怒鳴りつけた。ジュナンが眉を寄せる。
「ビト。やめろ」
「あれじゃイザベル様が可哀想だ! イザベル様は最後の皇女で」
「ビト!」
 ザウェルが何も言わないかわりにジュナンが怒鳴った。ビトが八つ当たりしていることは明白だ。ザウェルが間違ったことをしていないという確信もある。
 ビトは黙り込んだが、それでもザウェルを睨む瞳には殺気が込められていた。ザウェルはそんな視線など物ともせずに作業を続ける。天幕用の布を広げた。
「――今のイザベルではトゥルカーナを救うのに心許ないっていうのは事実だろう。確かに、皆に影響を受けすぎてるんだ」
「なに言ってるんだ! 親しい人を亡くしたばかりなんですよ。少しくらい頼らせてやってもいいじゃないですか!」
 他人に委ねる言葉は、ビトがイザベルの保護者から抜け出たことを暗に示しているようで、ジュナンは何とはない可笑しさを覚えた。
 横からザウェルが一瞥する。作業の手を止めぬまま口を挟む。
「それではイザベルは皇女ではなくなってしまうよ。皇女は唯一絶対の王になる存在なんだ。凡人じゃ務まらない」
「だからザウェルは憎まれ役を買って出たんだ。ザウェルが甘やかしてたらイザベルはあのまま縋りきって、自分で立てなくなってただろ。そんなんじゃ、トゥルカーナを立て直したあと弊害が出る。エイラやイリューシャと違って、イザベルは帝王学を始めたばかりだったんだ」
 ビトは何かを叫ぼうとしたが途中で口を噤む。きっと、それでもいいじゃないかと叫ぼうとしたのだろう。しかしそれではトゥルカーナは救われないことになる。また、彼らの言葉は目先のことしか考えていなかったビトとは違い、トゥルカーナを救った先まで見据えた言葉だ。ビトは苛々と言葉を探したが、結局その気持ちを正当化する言葉が見つからずに奥歯を噛み締めた。
「だから俺はあんたらが嫌いなんだ!」
 遠くにいたライラがビクリと震えた。大きな瞳が潤み、泣き出しそうな表情で険悪な皆を見つめる。しかしそれを気遣う余裕がある者はいなかった。ザウェルでさえ今は他者に向ける余裕もなく、葛藤を抱えるように緊張している。
 ライラは助けを求めるように周囲を見渡した。そして、イザベルがいた方向とは別の場所から歩いてくるアリカを発見した。その隣にはフラッシュもいる。
 ジュナンは余裕がないながらもこの険悪な状況を打破しなければと首をひねらせ、ライラの視線に気が付いた。追うように振り返って目を瞠る。
 アリカとフラッシュ。
 アリカがフラッシュに笑いかけ、フラッシュもまた笑い返す。それは、いつも他者とどこか一線を引くような態度ではなかった。アリカに向けられた笑みは穏やかささえ感じさせる。
 ジュナンは衝撃に息が詰まるような気がした。
 ザウェルを庇うように立っていたジュナンの様子にビトが気付いた。不審な表情をしながらもジュナンの視線を追いかけ、そこにアリカとフラッシュを発見し、ビトもまた驚く。けれどその驚きはジュナンとは比較にならないほど穏やかな驚きだった。
 やはりそういうことになるのかと何となく納得して、ビトはジュナンの様子のおかしさに眉を寄せる。
「まさか、ティー隊長……?」
 呟くと、物凄い勢いで睨まれた。殺気が込められる。ビトは思わず息を呑んだ。
 二の句を告げさせずにジュナンはその場で思い切り翼を広げる。それまで心を隔絶させていたザウェルがようやく気付き、顔を上げる。
「ジュナン?」
「うるさいザウェル! 今度こそ追いかけて来るなよ!」
 釘を刺されたザウェルは顔をしかめた。
 ジュナンは猛スピードで空の彼方へ舞い上がる。あのように高度を上げても大丈夫だろうかと、ザウェルはどこか呑気に心配する。心は別の思いが占めていて、ジュナンに向ける余裕がないのだ。イザベルに放った言葉はそのまま彼を追いつめている。
 ビトは複雑そうな表情で空を見上げた。ジュナンの姿はすでに見えない。
「噂は本当だったんだな……」
 瞳を細めてそう呟く。
「ビト」
「ああ、ごめんライラ。怖い思いを」
「イザベル様がいなくなった」
 近くに歩いてきていたライラはビトの袖をつかみ、縋るように体を寄せてきた。ビトは彼女の言葉に目を剥いて振り返る。そこには本当にイザベルの姿がない。
「いつから……どこにっ?」
「ついさっき、結界の中からイザベル様の気配が消えたの。遠くには行ってない」
 半眼で意識を凝らしたライラは占者のように告げた。ビトは焦る。イザベルを捜そうと走り出しかけた。
「駄目だよビト」
 ザウェルが素早く進路を塞ぐ。彼が離れたことで、組み立て途中の天幕がゆるやかに崩れる。
「何が駄目なんだっ? イザベル様に何かあったら」
「それは彼女のせい。結界内から無理に連れ去られたわけじゃない。彼女の意志でここを出て行ったんだ。それでどうなろうと、それは彼女の責任」
「あんた……」
「忘れているようだから教えてあげるよ、ビト。トゥルカーナは王が治める星だ。そして今、王はいないけどイザベルが次の王に確約されている。彼女が決めたことなら、トゥルカーナに住む僕たちには従う義務がある。彼女が責務を放棄したら僕らは生きていけないんだよ。だからと言って王に責務を押し付けることはできない。トゥルカーナは王のものなんだから。僕らだって王の所有物だ」
 ザウェルはライラに手を伸ばした。幼い少女は怯えるように体を震わせたが、ザウェルはライラの髪を梳くように撫でただけだった。
「……なら、王が癒しを求めてたのに対してはどうなんですか。あんたの言葉なら、俺らにはそれに従う義務があるってことになる」
「馬鹿だな。臣下は諌めるのも仕事だよ。甘やかすだけでは自分たちにも災いが降りかかることになるからね」
 矛盾した言葉にビトは怒りを高めた。ただの屁理屈だ。
「一度目は忠言。イザベルは賢いから一度で分かる。それでも王が望むのなら、僕らは拒む権利を持たない」
 ではイザベルがそれを本気で願えば甘やかしたとでも言うつもりなのか。
 ビトが怒りに体を震わせるのをザウェルは一瞥し、そのまま崩れた天幕に戻った。ただの世間話をしていたかのような雰囲気で作業に戻る。ビトはそれを見て心底腹が立ち、ザウェルが組み立てようとしていた天幕を蹴飛ばした。せっかく組み立てた骨組みが音を立てて崩れてしまう。今度こそザウェルはビトに顔を向けて口を開きかけたが、言葉が生まれる前にビトはライラを抱えてその場を離れていた。
 ザウェルは彼の背中を観察するように凝視する。彼らが食事を作るために離れただけだと確認してから作業に戻る。しかし作業は一向にはかどらなかった。人手が足りないということもあるが、組み立ては一人でもできるような方法を覚えている。いつもなら難なく進む骨組みも、今日に限って無茶苦茶な組み立て方をしてしまう。これではいつ崩れてもおかしくない。先ほどはジュナンが組み立てていたが、そのジュナンは今、まだ戻ってこない。
 ザウェルはどうするかと首を傾げて嘆息した。何気なくイザベルがいた方向を見つめる。
「ザウェル。手伝うわ」
 細い手が伸びて縄を奪った。手に触れた柔らかな感触に驚いて視線を向けると、アリカが縄を張りながら反対側へ行こうとしていた。
「ジュナンはどこへ行ったの? 貴方を手伝っていると思ったのに」
「ああ……帰って来ないね」
 言いながらザウェルの瞳は何も見ていなかった。機械的に返すだけだ。普段ならジュナンの様子を見逃さないザウェルだが、今は間が悪い。自分のことで手一杯になって、他にまで心が回らない。
 縄を引いて四苦八苦するアリカを眺めていると、その視界にフラッシュが映った。彼は骨組みを素早く済ませてしまうとアリカから縄を引き取り、手早く結んでいく。それを見たアリカは拍手した。今度は自分でやるからと、せっかくフラッシュが結んだ縄を解いた。他の天幕は組みあがっているため練習する素材がないのだ。フラッシュは唖然としたあと当然怒ったが、アリカがなかなか上手く結べないでいると苦笑した。手は出さず、口を挟んで教えていく。
 和やかな雰囲気。それなのに、自分の心だけは虚ろで。
 その日の夜、イザベルの不在をアリカにだけ伏せて皆は天幕に入った。明日はもういつも通りに進むという結論が出される。ジュナンもザウェルも、ビトまでも上の空で決められた針路だった。皆の様子にフラッシュは顔をしかめたが、淡々と予定を組み上げる。
 そしてその日、イザベルは戻ってこなかった。