第六章

【三】

 遠くから焚き火の音がするだけの静かな夜。バールの声も、木々の梢もない。バールの気配がないのはライラの結界がしっかりと張られているためだが、風が絶えているのには不気味な予感を抱かせる。しかし今はその静けさに怯える者も熟睡している時間だった。
 運命の女神。いたずらに人心を狂わせ、眺めて微笑むだけの無力な神。育つ狂気は傍観されて彼らの玩具と化しているだけの、静かな夜。
 アリカが眠る天幕の入口が静かにあけられた。暗がりに浮かぶ影に、アリカは気付かない。入ってきた影はそのことを確認すると、手にしていた物を振り上げた。
 アリカの頭めがけて振り下ろす。
 ――空気が唸った。寝返りを打ったため直撃を避けられたが、枕に何かが突き刺さる音に、アリカは目覚めた。
「なに……?」
 半覚醒のままで影を見上げる。影はアリカの目覚めに怯んだようだが、寝起きで緩慢な動作のアリカを見て取ると、そのまま決行した。再び手の物を振り上げる。
 そのとき天幕を揺らしたのは、傍観していた女神の吐息だろうか。
 天幕に入ってきた光が、影が持つ物を照らした。
 アリカは息を呑んだ。
「嫌だ!」
 振り下ろされる武器。鋭い切っ先の刃物。
 アリカは完全に覚醒し、枕にしていた荷物をとっさに掲げた。次の瞬間、手に伝わった衝撃は言葉で言い表せない。強く脈打つ心臓が口から飛び出してくるのではないかと思った。
 振り下ろされた武器は荷物に突き刺さり、なかなか抜けないようだ。襲撃者は荷物ごとアリカに圧し掛かろうとしたが、アリカはなんとか振り払って天幕から這い出した。
「誰……か……」
 助けを呼ぼうにも、喉が引き攣れて声が上手く出てこない。背後で動く気配に気付いたアリカは振り返ることもできずに走り出した。一番近いのは仲間が眠る天幕だが、そちらに足は向かなかった。一瞬、脳裏にフラッシュの声が甦ったのだ。
 ――自分が囮になっている間に、皆が逃げ延びればいい。
 命が危険に晒されているこんな時に、さらにはフラッシュのような余裕もないというのに、一瞬浮かんだ言葉は、踏み出した足は、他の選択肢を許さなかった。焚き火にまで行けば見張りが必ずいる。その者と一緒に退治するか、仲間を逃がす方法を考えればいい。焚き火までは少し距離があったが、一人でいるより余程マシだ。
 アリカは全速力で走った。
 ライラが結界を張っているはずなのに、なぜバールが侵略できたのかは分からない。そんなことを考えてる暇もない。早く伝えなければと息を切らせ、ようやく焚き火まで走り出てきたアリカは目を瞠った。
 焚き火の側には誰もいなかったのだ。
「そんな……っ?」
 焚き火はしっかりと燃やされている。先ほどまで誰かが絶やさぬよう側にいたのだろう。薪を拾いに離れたのかもしれない。しかし辺りを見回しても影すら見えなかった。それとも異変に気付き、助けに向かったのか。
 アリカは涙が滲むのを感じ、恐ろしさに体を竦ませた。
 背後から誰かが近づく気配がする。
 強張る表情で振り返るアリカだが、次には安堵に座り込みそうになった。
 近づいてきたのはバールではなく、ジュナンだった。今夜の見張り番はジュナンだったのだろう。
「良かった、無事で。今」
 駆け寄ろうとしたアリカは、ジュナンが手にしていた剣に目をとめた。
「どうかした、アリカ?」
 ジュナンが微笑んだ。その笑みはいつもアリカを勇気付ける笑みと同じだ。けれど今回は違和感が先に湧いた。いつものジュナンなら、こんなときはアリカの様子に驚き、心配して駆け寄ってくるはずだ。それなのに今は、なぜ笑ったのだろう。
 アリカは笑い返すことができずに一歩後退した。
「アリカ?」
 ジュナンが不思議そうに首を傾げた。アリカ自身も不思議で首を傾げる。
 どうしてジュナンの側に寄れないのだろうか。バールが近くにいるかもしれないのに。それを伝えなければいけない。しかしジュナンへの違和感が先に立って伝えられない。
 ジュナンが一歩を踏み出すのにあわせてアリカも一歩後退する。
「その、剣は……?」
「直ぐに対処できるようにね」
 ジュナンの指にはめられた金の指輪は、力を発現させている証拠に輝いていた。持つ者の意志によって剣は直ぐに具現できるはずだが、なぜ具現させたままにしているのか、理由が分からない。まるで今しがた使ってきたようだ。
 アリカは喉を鳴らして問いかけた。
「どこに行っていたの?」
 ジュナンは微笑んだ。
 強烈な違和感がアリカを襲う。早まる鼓動が嫌に耳についた。ゆっくりと後退し始めるアリカを見て、ジュナンは怪訝そうに眉を寄せる。もしくは、不快そうに。アリカは迫り来る恐怖に耐え切れず逃げ出した。直ぐにジュナンが追いかけてくる。剣を手にしたまま、狂気を宿したままで。
 歪みは強く。アリカは闇の中をひたすら走る。
 多少の怪我などどうでもいい。行く手を邪魔するように立ち塞がる木々など飛び越え、無理矢理に踏み分け、足場の悪さに何度も転びかける。後ろを振り返ることもできずにただただ走り続けていた。
 いつの間にかライラの結界を抜け出してしまい、周囲から温かさが消える。どこに向かっているのか分からず滅茶苦茶に走り続ける。どうしてジュナンが私を襲うのだという疑問で一杯で、それだけが頭の中を支配していた。
「わ!」
 急に開けた視界に足を止める。
「ヒマリアの絶壁……?」
 王宮から続く谷だろうか。身を乗り出そうとすると足場は脆く崩れていき、闇は深くて落ちたら助からないだろうと思わせた。
 最初の衝撃から立ち直ったアリカは振り返り、他の道を探す前に、ジュナンが茂みを分けて歩いて来るのを見つけてしまう。その手にはいまだ剣が握られている。
 何かの間違いだよねと笑おうとしたが、一度疑ってしまったものはなかなか晴れない。
(間違いだよ。だって私には、ジュナンに殺される理由がないもの)
 祈るように思ってギクリとした。日本でだって、周囲の簡単な差別につられるよう迫害を受けてきた。もしかしたら正式な理由など必要ないのかもしれない。
 ジュナンはアリカの目の前で止まる。少し距離をあけて相対した。しかしジュナンの間合いに入り、どんなに敏捷にアリカが動いても、アリカは逃げられないだろう。
「……バールでしょう? バールがジュナンに化けているんでしょう? 悪趣味なことしてないで、早くその姿を消しなさいよ!」
 怯えを悟られないように声を張り上げた。
 ジュナンは驚いたように目を瞠り、次いで喉を鳴らして笑い出した。さも可笑しいとばかりに哄笑する。
「残念だけどアリカ、俺は俺だ。バールなんかじゃない」
「……嘘だ」
 ジュナンは少しだけ辛そうに笑った。
「アリカには俺がバールだった方がいいのかもな。俺自身、そう思う。俺の心はバールに食われて闇に堕ちたんだ」
「ジュナン……」
 アリカは一歩踏み出して近づこうとしたが、ジュナンは素早く剣を振り上げてアリカに突きつけた。アリカは息を呑んで足を止める。斬られた銀の幾筋かが光を帯びて地面に落ちる。
「逃げないのか?」
「貴方が本当にジュナンであれば、逃げる理由がないわ」
 本当は殺されても今すぐ逃げたいと心が叫んでいたが、アリカは必死で踏みとどまり、ジュナンの瞳を睨むように見つめていた。剣を突きつけるジュナンが本当にジュナンなのか、まだ信じられない。
「さっきは逃げたくせに」
 どこか辛そうに瞳が歪む。既視感を覚えるその表情にアリカは瞳を瞬かせる。トゥルカーナで最初に出会ったときの、ジュナンの瞳はこんな瞳だた。ほんの少しだけ掠めるように哀しい瞳をしてアリカを見つめていた。その理由が今なら分かる。ジュナンはイリューシャの影を重ねて見ていたのだ。
「また泣くんだ」
 ジュナンに言われてアリカは自分の頬に手を当てた。自覚がないまま泣いていた。
「どうして……?」
 瞬き一つして涙を拭い、問いかけた。なぜ貴方が私を殺そうとするのかと。
 ジュナンは視線を逸らすと地面を見つめた。
「分からない。ただ……なんでアリカがいるんだろうと、思ったんだ」
 手にした剣をクルリと回すと形を変える。細身の剣、レイピアへと。ジュナンが得意とする剣だ。先ほどよりも切っ先が細く、鋭くなる。
「イリューシャがいなくなったのに。やっと安心できたのに。今度はアリカが現れる。どうしても俺は必要とされない」
 自嘲するように吐き出すジュナンの意図がつかめない。
 混乱しているとジュナンは微笑み、王から賜ったとされる金の指輪を引き抜いた。ジュナンがかぶりを振ったその一瞬で、アリカは瞳を瞠った。
 男にしては華奢だった体が丸みを帯びて、更に細くなった。紅も刷かれていない唇が赤い微笑みを彩る。
「女、の子……」
「そうだよ、アリカ。パルティアと一緒さ」
 ジュナンの声も今までよりわずかに高くなっている。アリカはふと、そういえば皆がジュナンのことを一度も『彼』と称していないことに気付いた。ザウェルを『兄』と紹介されたことはあったが、ジュナンのことを『弟』だとは聞いていない。
「フラッシュやザウェルと共に王宮で隊長職を務めるには、女であることが許されなかった」
 ジュナンはクスリと笑ってアリカを見たが、その瞳はやはりアリカを映してはいなかった。イリューシャばかりが重ねられている。
「イリューシャがね。フラッシュの側に俺がいることを嫌がったんだ」
 アリカの瞳が大きく見開かれた。剣は下ろされ、アリカから怯えも抜ける。ただジュナンだけを見つめる。
「俺はフラッシュの側にいられるだけで良かったんだ。それなのにイリューシャは……お前の方こそ偽物だったんじゃないか。アリカを招くための依り代でしかなかったんじゃないか。偽物が本物を遠ざけるなんて、思い違いも良いところだよ。どうして……! どうして、アリカがいるんだ。殺したくなんてない。アリカに罪なんてないだろう? 俺が剣を向けるのはアリカじゃない。それでも……イリューシャはいない。いないから、俺は……アリカを見れば、この気持ちを抑えることができないんだ!」
 ジュナンは体を折って悲鳴を上げる。けれど決して泣かない。
 アリカはポツリと呟いた。
「私が……イリューシャみたいな姿じゃなかったら、友達になれたかな」
 誰にも泣いて欲しくない。笑って欲しいだけなのに、自分の存在がそれを邪魔してしまう。たとえ殺されそうになっても憎むことはできない。トゥルカーナでいつも助けてくれた。いつでも庇ってくれた。
 ジュナンが少しだけ笑った。
「アリカがイリューシャじゃなかったら……?」
 もしそうであればアリカがトゥルカーナへ来ることはなかっただろう。
 ジュナンは少しだけその場面を想像したのか、地面を見つめながら微笑んだ。苦しげな表情が消える。
 アリカは満足して瞳を閉じた。
 闇が広がる。笑顔をくれた皆が望むトゥルカーナの平和。それを叶えるために今まで頑張ってきたけれど、それよりも自分が消えることを望むのが、今までで一番大好きになったジュナンならば、それでもいい。
 瞳を閉ざしたままアリカは後退した。崖の端が少しだけ崩れ、うなり声をあげる風と闇に吸い込まれていく。崖に反響し、風の音は一層強くうなりだす。
「アリカ……?」
 瞳をあけるとジュナンが驚いたように瞳を丸くしていた。
(やっと、見てくれた)
 イリューシャではなく、自分を。
 アリカは微笑んで大きな一歩を後ろに踏み出した。そこに地面はない。それでもアリカはまるでそこに地面があるかのように、そちらに体重をかけた。体は重力に逆らわずに傾いた。視界が大きく揺れる。
「アリカッ?」
 ジュナンの姿が消えて森が映り、空が映った。
 瞳を閉じずにその移り変わりを見ていると、最後に再びジュナンが見えた。彼女は驚愕して手を伸ばし、まるでアリカをつかむように体を乗り出したが、間に合わなかった。アリカは落ちていき、ジュナンの姿も消えてしまう。
 アリカは少しだけその余韻を感じて哀しくなったが納得した。
(これで私はいなくなる。私がこの姿でいるから皆が混乱するなら、消えてしまえばいいよ)
 瞳を閉じて嘆息した。
 それっきり、アリカは瞳を開かない。静かに深く落ちていく。
 冷気を増した闇がアリカを飲み込んだ。