第六章

【四】

 ライラの結界を出たパルティアはあてもなくさまよっていた。どこにも行きたくない。しかし皆からは離れたい。途方に暮れたまま視線を巡らせる。
 深い闇の中からバールたちが息を潜めて窺っているようで恐ろしい。あまりに冷たい居場所に身震いする。姉たちと遊んだ美しい庭へ戻りたい。しかしそんな場所はもうない。アリカのところへ戻るわけにもいかない。このような気持ちのままアリカの側にいれば、またアリカを傷つけてしまう。
 ――すべてを失くすことになるよ。
 ザウェルに放たれた言葉が耳の奥で木霊している。いくら考えないようにしていても必ず甦る。すべてがどうでもいいと思ったはずなのに、なぜ彼の言葉だけがこうも鮮やかに心をとらえるのだろう。失くすものなどこれ以上持っていない。
 パルティアは恐れるように振り返った。そこにあるのは死を待つ木々ばかりだ。光の皇女として望まれた自分がこのような暗闇の中にいることがおかしく思えた。
 ――もう誰もいないわ。
 パルティアは疲れて座り込む。手の平には少し湿った土の感触。空を見上げて笑みを洩らす。かつて煌々とした光を散りばめていた星空など、今は見る影もない。闇の雲に隠されたままだ。トゥルカーナが光溢れる世界だった面影は見出せない。
「痛いよ……」
 胸を押さえて体を折る。これ以上動きたくなかった。
 この場にいることがどれほど危険か分かっている。それでも動けない。バールが来るなら来ればいいのよと投げやりになる。光の皇女を手にかけられるなど、バールにはもったいないくらいだ。
「姉さん……」
 心の中に浮かんだ銀光はアリカではない。
「会いたいよ」
 どんなに願っても死人になった者には会えない。エイラにも、サラ=ディンにも。大好きだった者たちは次々と死んでいってしまう。彼らのためにトゥルカーナを救いたかった。彼らがいなければ救う意味を失ってしまうような気もした。輪廻に組み込まれようと、彼らとまったく同じ者が生まれるわけではない。
 ――イザベルが創るトゥルカーナを見たかった。
 優しい声を思い出して涙が零れた。
 この手にはなにもない。創りだす力などどこにもない。それなのに、貴方たちはなぜこうも私を持ち上げるのか。
「アリカ……」
 皆が離れていくなか、ただ一人だけ心配そうに見つめていた銀の瞳を思い出した。
 呟いたパルティアの瞳に、闇を裂く銀光が一条見えた。


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 目の前で落ちていくアリカに腕を伸ばしたが届かなかった。確かに殺したいと思ったはずなのに、いざアリカが死にゆこうとすれば助けたいと思った。けれど、翼が現われることはない。そのことに気付いて愕然とする。今から翼を出そうとも手遅れなことは分かっていた。
 矛盾した想いと過ぎ去った一瞬。
 ジュナンは地面に膝をついた。アリカに伸ばした手を呆然としながら見る。
 アリカとイリューシャは違う。分かっている。けれど本当に切り離して考えることができなかったから、アリカをつかめなかったのだ。アリカをつかんだらイリューシャをも助けてしまう気がして。
 ジュナンは涙を零した。馬鹿なことを、と嗚咽が洩れた。アリカならば助けてイリューシャならば助けないのか。たとえその心臓に剣を突き立てることがなくても、ヒマリアに落ちていく者を傍観していれば同じ意味だ。トゥルカーナを守る戦士として最低なところにまで堕ちた気がした。
 大好きだった、とジュナンは小さく零す。
 本当はイリューシャもアリカも好きだった。だから苦しかった。その苦しさを越えて目的を遂げれば楽になれると思っていた。けれど目的を遂げた今はさらに苦しい。
 このことをフラッシュが知ったらどう思うだろうか。
 ジュナンはそこに考えが及んだ途端に立ち上がっていた。いても立ってもいられない。アリカのことを想って泣いたばかりなのに、その端から自分の保身を考えるのか。そんな浅ましさを嫌悪する。
 そして次に、自分の保身を考えないアリカだからこそ、アリカは本気でフラッシュを想い、イザベルに逆らったのだと知る。フラッシュもそれに救われたはずだ。そんな後にアリカが失われたと知ったら彼の哀しみはどれほどものか。愛していたはずなのに、彼を絶望に落とすのは自分自身なのか。
 ジュナンは奥歯を噛み締めて翼を出そうとした。一刻も早くアリカを追いかけたい。今までのことを詫び、そしてフラッシュの側にいて欲しいと願うのだ。フラッシュを失わないためにはそうするしかない。
 ジュナンが行動に移そうとしたとき、背後から枝を踏む音が聞こえてきた。ライラの結界を越えた場所のため、バールが迫ってきたのかもしれないと思った。振り返ったジュナンは息を呑む。黒々とした茂みの向こう側にはパルティアがいた。
「……イザベル……」
 パルティアの髪飾りには不思議な色が宿っていた。イリューシャに贈られたものだ。そして彼女の瞳は、その宝石と同じ色をしている。王としてのきらめきが戻っていた。
 裁かれるのだな、とジュナンは思った。
 そう思った途端、これまでの焦燥が打ち消された。脱力して翼を出す力も失せる。もう取り返しはつかないのだと諦めて、瞳を閉ざして断罪の時を待つ。
 イザベルが戻ればザウェルも正気に戻るだろう。そして止められなかったことを悔やむだろう。彼だけはジュナンの葛藤に気付いていたのだから。
 パルティアがジュナンの前に立つ。
「ジュナン」
 威厳に満ちた声がした。
 瞼を閉じていると、脳裏にサイキ女王の姿が浮かんだ。落ち着いて胸に響く声だ。まるで、サイキ女王がパルティアの姿を介して言葉を伝えているように思えた。
「貴方を追放します。指輪の返還を」
 ジュナンは瞳を開ける。そこに無表情で見返してくるパルティアを見る。言われるまま指輪を差し出した。王宮での葛藤をすべて知っている指輪は、パルティアの手に渡る一瞬だけ寂しそうに輝いた。
「……殺さないのか?」
「私の役目は救うことだけ。同属殺しの穢れになど手は染められない」
「そう」
 ジュナンはパルティアに背中を向けた。
「エイラ姉さんでも、イリューシャ姉さんでもなく、どうして私が残されたんだと思う?」
 サイキ女王の威圧的な声を払拭し、同年代の友人にふとした疑問を問いかけるような声音だった。
 ジュナンは薄く笑う。揃えていた足を見つめ、踏み出す。
「それは俺がアリカを殺そうとした理由と同じだよ。――分からないさ」
 それきり声は途絶える。パルティアが顔を向けると、ジュナンは崖沿いに歩いて行くところだ。イオの森とは正反対。来た道を戻るように、王宮へ続く道を辿っている。だがそこに目的はないのだろう。
 パルティアはただジュナンを見送った。彼女の姿が森に消えてしばらくしても彼女の残像を見続けた。そして、やがてアリカが落ちた崖を覗き込んだ。
「アリカ……」
 深い闇は風のうなり声を響かせるだけで、銀の一筋も見えなかった。さきほどすべてを浄化するように放たれた銀の光もない。今は暗くて冷たい、闇の底に隠されてしまっている。
「私が、王になれば」
 パルティアは両手を握り締めた。
 決めたはずなのに、迷ってしまったことが愚かに思えた。ここにいたのがイリューシャやエイラだったなら、事態は違う局面を迎えただろう。なぜ自分が残されたのかいまだに分からない。サイキ女王はなにを考えて采配したのだろうか。
 だが『もし』ばかりを唱えていても仕方ない。できることを全力で為さなければ、滅んだすべてのものに申し訳が立たない。彼らにとってはエイラもイザベルも関係ない。王族、という一つの希望だ。変わりない信頼を寄せているのだ。
「大丈夫。大丈夫だよ」
 あれこれと欲張ったのが間違いだ。まるですべてがこの手にあるような気がして思いあがっていた。自分の手にあったのは、小さな自分の力だけだった。すべてがあったのは、自分の周囲にこそだったのに。
 当初の予定通りアリカを引継ぎの間に送っていれば、トゥルカーナは新たな王を選定して平和を取り戻していた。
 パルティアはそこで勢いよくかぶりを振った。腕をかざす。短い聖歌を口ずさむ。その旋律にあわせて魔法が解放され、パルティアの髪留めが外れた。短い髪がパラパラと頬をくすぐる。光を放ちながら外れた宝石を再び腕にはめる。視界が広がる。パルティアは幼女からイザベルへと変貌を遂げる。イリューシャから託された宝石を愛しく撫でる。
 ヒマリアの絶壁の対岸をすがめ見たイザベルは、誰にも聞こえないような声量で呟いた。


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 ライラは目を覚ました。誰かが結界に触れ、その者が持つ強い焦燥がライラの心まで揺さぶり起こした。誰が結界に触れたのかは分からない。だが害意ある者ではないと直感する。それはむしろ、助けを求めているように思えた。
 ライラは急いで隣に眠るビトを揺り動かした。予感だけが先行して不安が増していく。
「ビト。ビト」
「見張りの交代か?」
 ビトは王宮の警備をしていただけあり、ライラの呼びかけにも直ぐ目を覚ました。目覚めた瞬間から意識もはっきりとしている。ライラは安堵してかぶりを振った。
「違うわ。さっき、結界が変だったの。なにかおかしいのよ」
 ビトは眉を寄せた。言葉が足りないライラだが、その力は確かだ。長らく彼女の結界に守られてきたのだから信用しないはずもない。その彼女がこうまで不安になるとはどうしたことか。
 ビトは直ぐに身支度を整えて天幕から顔を出した。
 遠くに見張り用の焚き火が見える。他は闇に沈んで静かな夜だった。見張りを交代したのは数時間前だが、そのときと何ら変わりなく思えた。
 だがライラを信用していたビトは用心して外に出た。
 王宮に闇が降臨して混乱が広がろうとしたとき、森で共に暮らしていた仲間たちが狂っていく異変に気付いたのもライラだった。ビトはライラの結界に守られていたため狂った殺し合いをすることはなかったが、止めることもできなかった。荒廃したトゥルカーナでは、手向けの花を摘むこともできない。
 今回の異変はなんだ、とビトが外に出て辺りを見回したときだ。
 森の外れ――ヒマリアの絶壁の方向で鋭い銀光が破裂した。一瞬の閃光。背筋を伸ばして戦慄する。
「ビト。今の」
 ライラの声を聞くまでもない。脳裏にはイリューシャと同じ気配を持つアリカの姿が浮かぶ。彼女がいるはずの天幕に走り出すと、反対側からフラッシュとザウェルが向かってくることに気付いた。彼らも同じことを確認しようとしたらしい。
 ザウェルが険しい表情でアリカの天幕を確認する。中に誰もいないと知ると悔しげに叫ぶ。
「ジュナン……!」
 慟哭に似たザウェルの悲鳴。フラッシュはすでに走り出して森に姿を消したところだ。悔恨を聞いたのはビトとライラだけ。
 ビトは立ち竦んだ。うな垂れて拳を握るザウェルの姿があまりにも痛々しく、次の行動をはかりかねていると、ザウェルが立ち上がった。
「ビト、ライラの結界を探知に切替えて拡大!」
 慟哭は嘘だったのではと思えるほど早い切替え。だがビトはその姿を知っていたため驚くことはしない。凛とした指示を頭に叩き込む。
 ザウェルは背中に翼を広げた。
 ビトは復唱して敬礼する。だがふと、ザウェルの姿に違和感を抱いて眉を寄せる。しかし違和感の正体を見極める間もなくザウェルは舞い上がる。ずいぶんと乱暴な風を起こして速度を上げる。
「ライラ」
「うん。やってみる」
 緊迫した雰囲気にライラは強張った表情をしていたが気丈に頷いた。ビトは彼女を抱えて焚き火に向かう。暗闇で行うよりライラも安心するだろう。
「大丈夫か?」
「平気よ、ビト」
 ライラの顔は白かった。胸を痛めたビトだが、ライラ本人が弱音を吐かないため休めとは言えない。焚き火の側に腰を下ろし、集中しだすライラを見つめる。
 ライラは意識を澄ませた。最小限で結んでいた結界を大きく広げ、守護よりも気配を読み取るための結界へと変質させる。このような状況下でライラにかけられた重圧は強い。ライラは何度も失敗した。綿密に織られた結界を広げるために何度もやり直した。
「……イザベル様」
 ようやくすべてを締め出して自分の中に入り込んだライラは呟いた。
 ビトが見守る前でライラはおもむろに立ち上がる。瞳は虚ろだ。
「向こうにいる」
 神がかり的な力を宿したライラは一点を指差した。彼女の邪魔にならぬビトはライラを抱え上げ、示された方向に歩き出す。ライラは強張った表情のままで気配を探り続ける。
 腕にある小さな存在を抱き締めて、ビトは唇を噛んだ。
 最悪の場面だけは妹に見せたくない――それが叶うのかは、分からない。


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 銀光が焼きつけた光景は鮮明に残っている。消えてしまった今でも光の気配を辿り、直ぐに見つけられる。眠りを引き裂いた悲鳴のような光は、後悔を抱くには充分な要素を宿していた。いったい何があったのだと歯痒い思いでいっぱいだ。
 一直線に森を飛び出したフラッシュは目を瞠った。
 ヒマリアの絶壁に佇んでいたのはイザベルだった。他には誰もいない。
「なにがあった」
 一度足を止め、再び近づきながらフラッシュは問いかけた。振り返るイザベルの眼差しに眉を寄せる。彼女の顔はまるで能面のようだ。感情が読めない。
 銀光を放ったのは確かにアリカだと確信していたが、彼女の姿が見えない。問いかけようとしたフラッシュは視界に気になる光を見た気がして視線を向けた。
 絶句する。
 イザベルの手にあったのは、サイキ女王から贈られた金の指輪だった。装着を許されているのはフラッシュとザウェル、そしてジュナンのみ。フラッシュが自分の指輪を身につけている以上、イザベルが持つ指輪はザウェルかジュナンの物だということになる。だがフラッシュには、それがジュナンの物だという確信があった。
 アリカが最後に放った銀光を思い出して唇を噛む。
 事はすでに起こってしまった。ザウェルに注意されていたにも関わらず、止めることができなかった。
 何も言えず佇むフラッシュの側に風が舞った。翼を広げたザウェルが降りてくるところだ。
「アリカは?」
 開口一番の問いかけにフラッシュは我に返った。確かにそれが一番の心配事だ。だがその焦りに返されたのは、機械のように感情のない声。
「崖の下。もう何も見えない」
 フラッシュは崖に走り寄って窺い見た。風の唸り声だけが響く絶壁には、底も見えない闇が漂っている。王宮で見た引継ぎの間ほどではないにしろ、その闇は深い。強く吹き上げる風が嘲るように頬を叩く。
「くっそ!」
 常識で考えて助かるはずがない。それでもフラッシュには信じられなかった。死体をこの目で見るまで認めるものかと、崖下に下りようとした。いくらフラッシュと言えど、そのような真似をして無傷で済むはずがない。だが、そんなことを考える余裕もなかった。
 フラッシュを止めたのはイザベルだった。
「駄目です」
 振り返ると、先ほどから変わらない虚ろな表情のまま、イザベルはフラッシュを見つめていた。
「神殿に向かう方が先になる」
「な……アリカを見捨てるのか?」
「トゥルカーナを救う優先順位の問題です。アリカを助けに行くのは、その後」
 フラッシュは唖然として口をあけた。そんな様をイザベルは瞬きもせずに見つめる。
「私たちのすべきことはなに? トゥルカーナを救うことではないの?」
 そうしてイザベルはザウェルを見た。ザウェルも驚いた様子だったが、イザベルに視線を向けられると静かな面差しを返した。
「ジュナンの不始末はザウェルに責任を取らせるわ。貴方がアリカを見つけなさい。フラッシュは私と共に神殿へ行く。フラッシュでなければあの神殿は機能しない。大勢で行くよりも、分散した方が効率はいい」
「……分かった」
「ザウェルッ?」
 頭を下げて肯定したザウェルにフラッシュは驚いたが、向けられた彼の瞳に何も言えなくなった。
「フラッシュは先にイザベルと神殿へ行って。アリカは僕たちで救出する」
「お前」
「王に仕える僕らの役目だよ。フラッシュ」
 フラッシュはザウェルの言葉に顎を引いた。谷底を見る。他人の手になど任せず自分でアリカを助けたい。けれど自分を縛る役目がそれを許さない。
 喉を鳴らせて舌打ちした。
 乱暴に谷を振りきり、待っていたイザベルに近づく。そして彼女の両手に飾られた宝石を奪い取った。イリューシャが魔力を込めた宝石だ。驚くイザベルに多少は胸が痛んだが、苛立ちのままフラッシュは宝石を地面に叩き付けた。
 それは、ともすれば醜い八つ当たりにしか見られない行為。
 久しく聞いたことのない澄んだ音が響いて壊れる、力の媒体。フラッシュは宝石に封じられていたイリューシャの魔力が逆流するのを感じた。今の自分には力が足りないのだ。だから、他人の物だろうがイザベルが拠り所にしている物だろうが、アリカを助けるために必要なら何でもする覚悟だった。それがたとえ、かつて自分を好いてくれた者の形見であってもだ。
 宝石から逆流し始めた力を制御しながらフラッシュは振り返った。
「ザウェル! ジュナンのこと、頼むぞ!」
 ザウェルはその言葉に唇を噛み締めて彼を見つめる。宝石を壊されて呆然としているイザベルを見つめる。痛みを内包した瞳でフラッシュに頷いた。
 イリューシャの力に包まれた中でフラッシュがなにごとかを呟くと、彼はイザベルを伴ってその場から消えた。壊れた宝石だけがその場に残される。
 コルヴィノ族が統括していたイオの森であれば、宝石を壊さずとも神殿まで移動することは容易だっただろう。だが彼らの力が及ばない遠いこの地では、次元を裂いて移動するなど夢のまた夢だ。いくらイリューシャの助けがあろうと難しい。実行するには多大な力が要る。それなのにフラッシュは失敗など微塵も考えていないように、当然のようにそれを為した。自信家である彼らしい。
「分かってるさ。ジュナン……」
 ザウェルは壊れた欠片を拾い上げながら呟いた。森から現われたビトを振り返って軽く微笑む。ライラが心配そうに見つめているのが分かり、ザウェルは一度瞬きしてから彼女に近づいた。ライラの背中が緊張する。
「ライラの結界で、アリカとジュナンを見つけてくれるかな?」
「は、はい」
 ライラはぎこちなく頷いた。ザウェルにはそれだけで充分だ。
 いつもはジュナンの気配が手に取るように分かるが、今ではまったく感じない。まるでジュナンの存在がトゥルカーナから消えてしまったかのようだ。
 ――だから王宮に上がる前に止めたでしょう、ジュナン?
 ザウェルは壊れた宝石を握り締めた。小さな痛みが手の平に走る。
 イリューシャがフラッシュを好いていることは明らかだった。男に姿を変えるという条件を飲んでまで王宮に上がったジュナンに哀しくなった。女である要素をすべて捨てるように言葉遣いを変え、『ティナ』という愛称すら許さなくなった。
 アリカを見たときに警鐘が鳴った。ジュナンはアリカを好いているようだが、長い間一緒にいて辛くならないわけがない。間違いが起きない内になんとかしなければと思っていたが、結局は手をこまねいているだけ。イザベルに気を取られ、配慮が足りなくなった一瞬にジュナンは我を忘れてしまっていた。
 ザウェルはため息をつきながら谷を見つめた。
「じゃあ、僕は谷を」
 ザウェルは微笑みを崩した。
「リィー隊長?」
 翼を出そうとしていることは分かったが、ザウェルの背に翼は現われない。ビトは訝るように声をかけた。翼が現われる気配は一向にない。どうしたのだろうと眉を寄せたビトは、アリカの天幕前で感じた違和感を思い出した。
 ザウェルが翼を広げたときに感じた違和感だ。
 そのときの翼は、今まで見たどんな場面の翼よりも、光を失っていたように見えたのだ。
 ビトは憶測を確信に変えながらザウェルを見た。
 そこにあったザウェルの表情は青褪め、強張っていた。
 ザウェルの背に翼はない。翼は失われた。