第六章

【五】

 視界が形を変えて平衡感覚が失われた。回転して渦を描きだす。イザベルをつかむ手だけは放さず、たとえ二人の上下が逆になろうと不安はない。直ぐにその空間から出ることは知っていた。コルヴィノ族が力を張り巡らせていた森とは違うが、同じような感覚だ。
 フラッシュは変わらない前だけを見つめ、決して視線を逸らさない。イオの森とは勝手が違うため、なにがあるかわからない。臨機応変に対応できるように瞳を凝らす。
 やがて二人の視界が唐突に開けた。景色は色を取り戻して音が甦る。眼前に佇むのは古びた神殿だ。移転が成功したのだと悟ってフラッシュは安堵した。一息つく間もなくイザベルの手を引く。
「さっさと済ませ」
「駄目よ」
 移転の影響で足元がおぼつかない様子のイザベルだが、フラッシュは急く心のまま彼女の腕を引いた。だが神殿に入る前に、一番聞きたくない女の声を聞く。イザベルではなく、もっと妖艶な、歳を増した声を。
「シュウラン」
 舌打ちして振り返った。神殿とは反対の方向だ。
 森に近い空気が音を立てて破裂した。それは風を生み出しフラッシュを襲う。けれど襲撃する意図を持たない風は簡単に防御されて散っていく。そして風が生まれたあとには、声のみを先に届けたシュウランの姿があった。宮殿でイザベルに受けた傷はもう支障がないように思えた。
「――神殿に入れ」
 イザベルを後ろ手に回して告げる。視線はシュウランをとらえたままだ。イザベルは黙ったまま走り出した。
 イザベルに攻撃が及ぶかと構えていたフラッシュだが、杞憂だった。シュウランは微笑みを浮かべてイザベルを見送る。彼女の意図がつかめずフラッシュは眉を寄せた。もしかすれば神殿に伏兵がいるのかもしれない。しかしそうだからと言って、今からイザベルを呼び戻すのは無理だ。それに、側にいて邪魔をされるより神殿に向かわせた方がいいとも感じた。シュウランほどの戦士が神殿に控えているとも考え難い。それならばイザベルは自力でなんとかできるだろう。
「これ以上俺たちの邪魔をするな」
「邪魔をしているのは貴方たちの方よ。私たちは正しい方向へ世界を導こうとしているだけ。なぜ邪魔をするの?」
「トゥルカーナを滅ぼすことが正しいだとっ? ふざけたことを言うな!」
「いいえ。トゥルカーナは王の選択を間違えた。滅ぼすのではなく、王の選定を正しい方向へ戻そうというだけ。次期王はイザベルではないわ」
「ならば誰だと言うんだ。サイキ女王の血がある限り、この星は新しい血を受け容れないだろう」
「そうよ。だからトゥルカーナは滅ぶの。結果的にね」
 シュウランは微笑んだ。
 考え方も笑い方も、フラッシュが知っている彼女とは何もが違う。話し合いは無駄だった。根本的な考え方が違ってしまった。どこまで行こうと平行線で、交わることはない気がした。
 フラッシュも論じたいわけではない。神殿で目的を果たし、早くアリカを助けに行きたい。それが最優先されることだ。論じて時間稼ぎをし、イザベルが目的を果たすのを待つのもいいが、そんな穏便な方法を取れるような余裕が今のフラッシュにはなかった。イザベルの側で、自分の目で顛末を見届けたいという思いがある。一番納得できるのはその方法しかない。けれどそれにはシュウランを倒していかなければならない。倒すということが、シュウランを完全にこの世界から抹消するという不穏な行為でも。
 フラッシュは具現させた剣を強く握り締めた。地を蹴ってシュウランに跳ぶ。
 瞬間的に間合いを詰めたフラッシュの視界に、逃げようとしないシュウランが映った。何を狙っているのか――フラッシュは警戒しながら牽制を込めて一閃を放つ。
 シュウランは笑みを湛えたまま、剣を深々とその体に埋め込んだ。
「なにを……」
 確かな手ごたえが伝わった。血飛沫が上がり、フラッシュの視界は赤く染め上がる。
 二撃目を繰り出せばシュウランは死ぬだろう。ためらわないと思っていたが、彼女の行動が理解できずに距離を取った。怪訝に視線を向けた先で、シュウランが地面に膝をついた。苦痛に顔を歪めながらも唇は笑みを作る。
 彼女の瞳が真っ直ぐにフラッシュをとらえた。まるで何かを訴えかけるように。もしくは、探るように。
「初めてね。貴方がそのように必死でなにかを為そうとするのは」
 血は止まらない。一瞬ごとに生気が薄れていくのをフラッシュは感じていた。
「なぜ……」
「分からないの」
 瞳を閉ざしてシュウランは静かに紡ぐ。
「あの方が目的を達しようとするのを助けたい気持ちは変わっていない。けれど、その目的を達することが本当にあの方にとって良い方向に転がるのか……アリカの存在を知ってしまったから、分からなくなった。そう考えたら貴方の剣を避けられなかった」
 フラッシュは眉を寄せた。アリカのことならば以前からシュウランも知っていたはずだ。それなのに突然なにを思ったのだろうか。彼女の中でアリカの存在が何かに変わったのだろうか。フラッシュには分からない。
「あいつの目的とは……なんだ」
「ふふ。知りたい?」
 笑った拍子に嫌な音を立てて、シュウランの口から大量の血が吐き出された。その量の多さに眉を寄せる。彼女の力なら致命傷を癒すことも可能だ。けれどそれをしようという気すらないのか、傷口を押さえたまま、シュウランは微笑しながらフラッシュを見上げる。
「矛盾しているのよ。それを彼自身知っている。それでも彼には止められない」
 シュウランの瞳から光が消えた。彼女を包むのは真の暗闇。
「アリカがいる限り、彼の矛盾も止まらない」
 スゥッと何かがシュウランの体から失われた。彼女の肉体は崩れ、血溜まりに落ちる瞬間、光の粒子になって消えた。闇に身を浸した彼女でさえ、死するときは光に還るのか。
 フラッシュは剣を消して首を振った。
(アリカがいる限り、あいつが止まらない?)
 脳裏に泣いていたアリカが甦る。どこか苦々しい思いで神殿を仰ぎ、その想像を掻き消そうとする。
 長年放置され、使い方すら忘れられた神殿。
 以前、ここへ来たことがある。サイキ女王の許可を頂いて王宮の外へ出た。何かに導かれるようにしてこの場所に立っていた。けれど、こうして改めて見上げてはっきりと分かる。以前と今では確実に違うものがある。
 サイキ女王がかけた封印だ。一度神殿を訪れたあとに、再び神殿を訪れたとき。すでにそこには封印がかけられていた。決してトゥルカーナの情報が他へ洩れないように。他星の情報がトゥルカーナへ流れ込んでこないように。
 神殿で何があったのか覚えていなかった。サイキ女王に尋ねてもみたが、詳しい回答は得られていない。
 そのとき以来、眠ると闇が訪れるようになった。漠然とした恐怖は形のない夢としてフラッシュを縛り続けてきた。覚えてはいないが、きっと何かを見たのだろうと思っていた。あまりにも昔のことで、フラッシュ自身、そのことすら最近まで忘れていた。
 侵略者を見た瞬間、記憶は揺り起こされ、確信した。
 ――会ったことがある。神殿で見たのはこの闇だ。
 何もかもが不確かで漠然としたもの。それがようやく一つに終結しようとしている。
 フラッシュは一度だけシュウランがいた場所を振り返り、神殿に走った。


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 神殿に踏み入ったイザベルは包まれた冷気に身を竦ませた。以前アリカと入ったときには感じられなかった気配が漂っているようで、得体の知れない恐怖に怯えた。
 何かが潜んでいるように思えた。それは皇女としての感覚だろうか。
 唇を引き結んで中央に向かう。眼前に広がる魔法陣はこれまで使われたことがないようだ。けれど、今こそ起動させなければならない。
「サイキ女王」
 この場所から他星に繋がっている。サイキ女王からはそう教えられた。
 イザベルは魔法陣に入り、その中央で両手を胸の前に組み、祈りを捧げた。誰かに祈りが届くように。イリューシャがアリカを召喚したように、イザベルも同じく、誰かが自分の声を聞き届けてくれることを切に願う。トゥルカーナを想う気持ちを込める。
 それはどれほどの時間なのだろうか。祈りに集中した瞬間イザベルは刻から切り離された。時間を計るのは無意味だ。もともと静かな神殿だが、イザベルは更に無音の世界に放り込まれたような気がした。遮断された空間の中で祈るのはトゥルカーナの平和だけだ。
 けれど――アリカのことが胸を掠める。
 ――すべてを失くすことになるよ。
 胸の奥が痛みを訴えた。ザウェルの言葉はいまだ巡り続けている。
 アリカを失くし、ジュナンを失くし、イリューシャから贈られた宝石までも失くした。それでもトゥルカーナを救えと望まれる。ザウェルの声は自分を失わない最後の砦だ。
 イザベルには何も聞こえてこなかった。
 伝道する力が欠けている。いくら祈ったところで、この魔法陣が通じることはないように思えた。
 水につけた足が音を立てるように、足音が近づいてくる。絶望が歓喜をあげて飲み込まれそうになる。イザベルは首を振り、必死でそれらを追い出そうとした。トゥルカーナ最後の王族である自分が絶望を抱いてはいけない。誰でもいいから、たった一人を、皇女は望んではいけない。
 イザベルは瞳を見開かせた。
 涙が溢れて止まらない。願ってはいけない。それを思えば思うほど、涙は止まらない。神殿が願いを聞き入れることもない。誰もが拒絶しているような気がして、イザベルはその場に絶望と共に佇んだ。
 そして。
「最後の皇女か」
 潜んだ昏い闇に体を震わせて振り返った。視線の先に一人の男が映る。
 王宮で目にした男だ。イリューシャを殺し、エイラを消し去った侵略者。
「この神殿だけは壊すことができない。幻想界の王たちが創ったものだ。一人では壊せないようにできている。忌々しい」
 男の手がイザベルに伸ばされた。触れればエイラと同じように、抵抗もできず消されるのだろう。生きてきたすべてを否定される。絶望のままに消えていく。闇に消されるとはそういうことだ。
「貴方は誰?」
 男の手が止まった。
 イザベルと視線を交わすのは薄水色の闇。光を含んだかのような男の闇と、光しか含まない明るい瞳。それが交錯して闇の瞳が笑いを滲ませた。
「何者に殺されるのか知らないままに消されては死に切れないか? 聞いた瞬間に後悔するかもしれんがな」
 私はここで死ぬのだと、イザベルは達観したように悟った。死には恐れを抱いていたが、この瞬間だけは怖くなかった。怒りも恐怖も姿を見せない。闇に包まれて感覚が麻痺してしまったようだ。トゥルカーナに執着する男に対する興味だけがあった。
 男は面白そうにイザベルを眺めて名前を唇に乗せる。
「デューラ=ジュイール=カル。そう言えば皇女には分かるかな?」
 イザベルは戦慄した。導き出された今までの行動の数々が納得をもって理解した。サイキ女王の顔が浮かんで消える。そして会ったことも見たこともない、サイキ女王に良く似た女性の姿が克明に浮かんだ。
 皇女としての力が男の記憶を読み取ったのかどうかは分からない。
 深緑の髪に澄んだ肌。アリカに良く似た顔立ち。そしてその背に広がる純白の翼が、彼女が何者であるのかを示している。何よりも強い光を宿す王。
 カディッシュ=リーゼ=アルマだ。
 イザベルの脳裏で唐突にすべてが繋がった。
「貴方が……!」
 光星界王カディッシュ=リーゼ=アルマを罪に堕とし、忌み子としてアリカを誕生させたデューラ=ジュイール=カル。アリカの父親だ。
「どうしてっ? なぜ貴方が!」
 第一級犯罪者として追われ、捕らえられたと聞いていた。彼の力を考えるのなら逃げたとしても納得がいく。けれど、そうしてトゥルカーナを崩壊にまで導こうとする意図が分からない。
 イザベルは男を見つめたまま唇を引き結んだ。
 本当は分かっている。認めたくないだけだ。
「アルマと同じ存在など目障りなのだよ。そして、アルマを今も拘束する忌まわしい王の規約。すべてが邪魔なのだ」
 アルマを助けるためにトゥルカーナを滅ぼすのだろうか。繋がりが見えない。
 イザベルは混乱したまま脳裏で何かが一つに導き出されようとしていくのを感じる。本当はすでに分かっていたけれど、しっかりと繋がるまでは認めたくなかった。
 アルマと同じ存在を認めない――アルマが翼を持つ一族であるから――アルマと同じ翼を持つ者――アルマに深い関わりを持つサイキ女王――そのサイキ女王が治めるトゥルカーナ。
 トゥルカーナは狂った独占欲のために滅ぼされようとしているのか。
「アリカは貴方の、娘よ」
 イザベルは訴えるように告げた。
 母親を知っただけで動揺を見せたアリカだ。家族というものにまったく触れてこなかった彼女は、家族を切望していた。目の前の男が父だと知り、トゥルカーナを滅ぼそうとしていることを知ったら何を思うだろう。
 カルはイザベルの言葉を鼻で笑った。
「アルマと同じ存在など要らないのだよ」
「アリカはアリカ以外の者にはならないわ!」
 自分自身、アリカをイリューシャと混同し、彼女にイリューシャとしての存在を求めていたのだが、男の言葉に猛烈に反発した。
 男の手が伸びる。イザベルの顔に触れようとする。
 イザベルが消える瞬間。
「イザベル!」
 外から走って来たフラッシュが叫んだ。けれど彼の剣は間に合わない。
「アリカを助けて」
 一縷の望みを託すようにフラッシュへ告げた。
 驚愕にフラッシュは瞳を瞠る。男の手がイザベルの髪に触れる。触れた先から闇に染まっていく。
 トゥルカーナを復興させるために必要な最後の希望が消える。