第六章

【六】

 イザベルが消えようとしているのを見て猛烈な怒りが湧きあがった。
 彼女が消えればトゥルカーナは救われない。王を失った星は二度と再生しない。それではサイキ女王が守り育ててきたトゥルカーナは滅びてしまう。
 一瞬で何かがフラッシュの体を駆けていった。
 フラッシュはそれを感じて息をつめる。
 刹那、神殿が息を吹き返した。眠りから覚めたように、建物は一瞬で光輝を取り戻す。消えかけていた光は眩さを増して闇を弾き返す。魔法陣の中心にいたイザベルに光が降り注ぐ。カルはあまりの眩しさに彼女から離れた。

 息ができる。
 まだ動ける。
 生きている。

 イザベルは落ち着いた呼吸を繰り返しながらそう思った。戸惑いながら魔法陣を見つめる。胸に手を強く押し当てた。
「なにが……?」
 神殿は息を吹き込まれたように輝いていた。外に出れば相変わらずの曇天が広がっているだろうに、神殿の天井からは惜しみない光が注がれていた。それは一条の柱をつくって赤い魔法陣に吸い込まれ、赤く輝きを帯びている。もしかすれば天井から注がれる光はトゥルカーナの光ではなく、他星からの光なのかもしれないとイザベルは思った。けれど、それまで何の反応もなかった魔法陣がとつぜん作動したわけは何だろうか。
「イザベル!」
 フラッシュが横からイザベルに飛びかかった。
 疑問に思う間もなくイザベルは床に投げ出される。衝撃にうめいて体を起こす。それまで立っていた場所を、鋭い刃と化した闇が薙いでいくのを見た。目標を失ったそれは神殿の壁に当たって砕け散る。放ったカルは片手で顔を抑えて怨嗟の声を上げる。イザベルは呆然とその様を見つめた。
「お前……お前! 何をしたっ?」
 光に晒されたカルは苦しげな呼吸を繰り返してよろめいた。
 イザベルは呆然と眺めながら「私じゃない」と呟いた。
 イザベルは何もしていない。神殿は、イザベルの声に応えたのではない。応えたのは別の者だ。
「このような辺境の界で」
 低い声が舞い降りた。
 聞く者に不安と恐怖を呼び起こす威圧的な声だった。静かであるのに恐ろしい。その声はカルではない。カルよりももっと威圧的な者の声。光満ちた空間が闇へと染め替えられて、カルが怯えたように息を呑んだ。
 凄まじい力の奔流はカルの力ではない。留まることを知らない湧き水のように溢れ出した闇は、光の魔法陣に人の形を取り始め――深い深い闇が降臨した。
「なぜ……!」
 怯えきったカルの悲鳴。神殿に現われた男を見て驚愕に目を瞠る。それを見て、新たに現われた闇の男は口許に笑みを浮かべて手を伸ばした。彼の手によって揺れた空気は力を宿す。彼の意のままに勢いを増してカルに襲い掛かろうとする。
 カルはその力を決死の形相で打ち砕き、再び伸びようとする男の腕から逃れた。神殿から姿を消す。空間を転移して逃げたのだ。
 二度目に男が放った力は目的を失って霧散した。
「小賢しい」
 昏い笑みを含んだ表情だった。圧倒的な闇の存在に、イザベルは声も出せずにその男を見つめる。彼が放つ闇は深すぎて、一緒の空間にいて息をしているだけで、内側から消されていくような錯覚に陥ってしまう。
 男はカルを追おうとしたらしいが、その前にフラッシュとイザベルに気が付いた。視線がイザベルを捉えた瞬間、イザベルは射抜かれたような錯覚に陥って胸を押さえた。男が真剣に願えば、それだけで自分の存在が否定されて消えてしまうような気がした。
 男は笑う。侮蔑を含んだ冷笑を浮かべた。
「神殿を使って呼びかけたのはお前らか」
「ああ。トゥルカーナを助けたいが、俺たちの力ではまだ無理なんだ。力を借りたい」
 普段とほとんど変わらない様子のフラッシュにイザベルは目を剥いた。彼はこの鋭く重い空気を感じていないかのようだ。魔法陣から現われた男にわずかな逡巡を見せただけで、容易く受け答えをする。イザベルにはそれが信じられなかった。吸い込んだ息は体内を侵食されていくようで恐ろしく。息を詰めているのに、フラッシュはそんな圧力など微塵も感じていないらしい。
『お前が俺に助けを求めるとはな』
 皮肉気に歪められた唇。異世界に通じている魔法陣から現われた人物に相応しく、その言葉はフラッシュの理解を超えた言語だった。聞き取れない。しかし彼の表情にフラッシュは眉を寄せた。不快な感情が首をもたげる。
 現われた男は軽く首を傾げ、笑みを深めて口を開く。
「トゥルカーナのことは幻想界でも問題に挙げられていた。界を構成する要素の一つ。欠けて貰っては困る」
 続けられた言葉は理解できる言葉に直されており、フラッシュは目を瞠る。だが追求することなく、見えた希望に表情を明るくした。
「貴方は誰?」
 イザベルは口を開くだけで闇が押し入ってくる錯覚に囚われながら口を開く。恐ろしさしか感じさせない男だが、目が離せない。エイラを消したカルが怯えたこの男は、トゥルカーナを救ってくれるだろうか。
 男は口の端を歪めてフラッシュとイザベルを眺めた。瞳を細めて揶揄するような表情をする。そこからはとても善意を感じ取れない。イザベルは顔をしかめる。
「幻想界内の、闇星に所属する黒魔だ」
「コクマ」
 言葉を繰り返した瞬間、脳裏に彼を構成する文字が浮かんだ。
「これくらいのこと、お前らで片付けて貰わないとな」
 その言葉にイザベルは顔を上げた。イザベルの前にいたフラッシュも驚いて男を見る。黒魔と名乗った男は宙に浮かび、足を組んでイザベルたちを見下ろした。
「俺は手を貸さない」
「助けてくれないのっ?」
 イザベルが非難の声を上げると黒魔は冷笑した。
「馴染みの気配があったから興味を惹かれただけだ。俺としてはこの星がどうなろうと構わない」
「さっき、欠けて貰っては困ると!」
 反論するフラッシュに、黒魔は鼻を鳴らした。この場で異邦人なのは彼だというのに、まるで彼こそがこの地に相応しいかの態度だ。圧倒的な支配者として君臨する。
「それは俺以外の総合意見だ。俺はどうでもいい。俺が用があるのは」
 首を巡らせ、カルが消えた方向を見据えた。その瞳に浮かぶ残忍な光にイザベルは、ふと自分がとんでもない間違いを犯しているような気に囚われて眉を寄せた。それが何かは分からない。
「助力は望めないということか」
「そういうことになるな。特に手を出す気はない」
 フラッシュは舌打ちして黒魔に背を向けた。考え込むイザベルを促す。
「ならここに用はない。行くぞ、イザベル」
 考え込んでいたイザベルは顔を上げた。
「え?」
「アリカを助けに戻るんだよ!」
 フラッシュが苛立つように叫んだ瞬間、黒魔の表情が動いた。それまで何の関心も見せなかった気配を一変させてフラッシュを見つめた。否、彼が叫んだ名前を。
 イザベルは背中を冷たいものが流れ落ちるのを感じ、戦慄し、瞬時に悟った。
「フラッシュ!」
 牽制を込めて叫んだがもう遅い。黒魔は先ほどまでとはまったく違う表情でフラッシュとイザベルを眺め、笑った。イザベルは背筋を凍らせる。
 カディッシュ=リーゼ=アルマとデューラ=ジュイール=カルの間に生まれた忌み子、アリカ。彼らは三人とも第一級犯罪者として追われている。魔法陣を通じて現われるほど力に溢れた黒魔が何も知らない平民のはずはない。アリカたち三人のことは、あるていど力を持つ者に、確実に知らされている。
 アリカの存在が世界に知れた。
「貴方にもう用はない! 帰って! 後は自分たちでやるわ、ここは私たちの星だから!」
 不自然だと分かってはいたが、どうすることもできない。呆気に取られるフラッシュを横目に、イザベルは神殿の外へ駆け出した。追いかけようとしたフラッシュの背中に声がかかる。
「トゥルカーナを救うなら、その忌み子が鍵だな」
 振り返ったフラッシュの瞳には誰も映らなかった。神殿は元の静けさを取り戻し、何の反応も示さないただの建造物へと存在を戻す。黒魔の姿も消えていた。


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 フラッシュは神殿の外に出てイザベルの姿を見つけた。彼女は何もない場所で佇んでいる。その背中が震えているように思えた。
「アリカが忌み子って、どういう意味だ?」
 イザベルは少しだけフラッシュを振り返って視線を地面に落とした。その横顔が苦く歪む。
「属性の概念はフラッシュにもあるでしょう。光と闇の間にできた子どものことを忌み子と呼び、忌み子は外見の特徴がそろって銀色なんだそうよ」
 初めて知る情報にフラッシュは息を呑んだ。
「現われた黒魔は闇星界の実力者。幻想界では異属同士の婚姻は禁忌とされているわ。幻想界に暮らす者たちは力が強い者が多いから、現われる歪みも強くなる。忌み子が生まれればどんな厄災が起こるか分からない。そしてアリカは、幻想界側の人間なんだわ」
 フラッシュは奥歯を噛み締めた。唐突にアリカの泣き顔が甦る。
 アリカの両親が異属同士で幻想界側の人間であるのなら、彼女の両親は罪に問われたのだろう。
「アリカの両親を知ってるのか?」
「母は光星界王カディッシュ=リーゼ=アルマ。父は闇星界王デューラ=ジュイール=カル。両者とも、犯罪者として追われているわ。だから」
 余計な真実は伏せたままイザベルは淡々と答えた。
「さっきの黒魔は……幻想界側の人間は、今でもまだ、アリカたちを……?」
「生まれた歪みは正さなければならない」
 イザベルは強い口調で肯定した。
「……早くアリカを見つけるぞ」
 危機感を募らせたフラッシュはイザベルの腕をつかんだ。彼女と共に走るより、彼女を抱えて走った方が早い気がして実行しようとする。
「きゃあ!」
 けれど触れた途端に叫ばれて、フラッシュは思わず手を放した。
「貴方……」
 イザベルが驚愕の瞳で見つめてくる。単に嫌だからという理由でも、単純に驚いたという悲鳴でもないことを示している。フラッシュは首を傾げた。
 光に触れる闇。
「俺……?」
 イザベルに触れた手を見つめた。
 フラッシュには何の違和感もない。だがイザベルは触れられた箇所を手で押さえ、その表情にわずかな怯えを含んでいた。ビトの家で泣いていたアリカに触れたとき、電流のような痛みが走ったことを思い出してフラッシュは顔を歪める。属性の弊害は力の弱い者にだけ現われるのか。
 属性は近くの属性にとても強く影響を受ける。それが同属であれ異属であれ、同じことだ。先ほど降臨した黒魔はその場にいるだけでイザベルを圧倒し、消し去るような強さを備えていた。その彼がほんの僅かな時間に、イザベルを上回るほどの闇属性をフラッシュに与えたのだろうか。
 イザベルは拳を握り締めた。フラッシュは幻想界で生まれ、何を間違えたのか神殿を通じてトゥルカーナへ流れ来た者。彼もまた幻想界側の人間だ。
 フラッシュがこれほどの闇をまとうことよりも、対極の属性であるトゥルカーナに何年も居続けられたことこそが脅威で。
「俺が」
 イザベルでさえもフラッシュに触れることは困難となってしまった。それならばジュナンやザウェルは、彼に触れただけで滅びるかもしれない。
「アリカなら」
 視線を落とすフラッシュの横顔を見ながらイザベルは呟いた。フラッシュの視線が上げられる。まるで迷子になったかのように途方に暮れている。
「アリカを、助けましょう」
 フラッシュのために。あの光の者を。


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 深い闇の中をさまよっていた。怖くて恐ろしくて、必死で誰かを捜していた気がする。手を伸ばして、その手が何かに触れたと思ったのに、今また何かを失い、この暗闇をさまよっている。
 一度でも光を知ってしまったらこの暗闇は深すぎる。泣き叫ぶことももう出来ない。ただ頑なになって、無気力に闇をさまようだけだ。何の望みも浮かばない。後はもう何も知らない。このまま闇に溶けていける。
 そう思ったはずなのに、なぜかそれを邪魔する者がいた。
 闇にきらめいた銀光に瞳を細める。
 いつからそこにいたのか、幼い子どもが銀色の瞳でアリカを見つめていた。
「もう直ぐなのに」
 子どもの声は、押し付けようとする大人たちの声とはまったく違う。すんなりとアリカの中に染みてきた。
 何がもう直ぐなのだろうか。考えたくないのに考える自分がいる。
「貴方の望みはもう直ぐに叶うわ。貴方が私を受け容れてくれれば」
 光を放つ少女がアリカに手を伸ばした。アリカはその手を取ることなく少女を見つめて首を傾げる。何者なのかということではなく、ただ、少女の光が目に痛かった。
「貴方は本当は生きようと思ってる。この世界にいる誰よりも」
 少女の放つ光が鋭さを失くし、蛍火のように柔らかなものへと変化した。
「だから私はここに留まることができる。受け継がれるの、貴方から、また。私はまだ『彼』と再会していない。私も生きたい」
 不意に少女の輪郭がはっきりと浮かび上がった。輪郭を滲ませていた光が取り除かれた。その顔にアリカは目を瞠った。
 光を内に秘めて微笑む少女はアリカと同じ顔をしていた。
 銀髪に銀瞳。アリカと同じ顔に浮かぶ表情は、アリカとはまったく別人だ。もう少女ではない。大人として彼女は光輝をまとって佇んでいる。
「貴方がここで死んでしまっても、私は貴方を恨まない」
 軽やかな布地をまとった女性は緩く首を傾げた。髪飾りが揺れて涼やかな音を奏でる。
「貴方は自分で刻を止めているだけ。それはアルマのせいだけど……貴方はもう独りで立ち上がることができるはず。貴方が心から信頼する人たちが待ってる。彼らと、私を紡いで」
 彼女は闇に溶けた。
 光を放つ女性が消えても、その場所はもう元の暗闇には戻らなかった。
 目を凝らして気付く。目の前の闇は確かな形を持っている。手を伸ばすとやはり存在に触れる。ごつごつと硬い感触を持つそれは遥か頭上へと続いていく。
 振り仰ぐと闇の切れ端から覗く小さな空が見えた。細長く続くわずかな光が注がれている。
 ヒマリアの絶壁の谷の底で。アリカは目覚めた。