第七章

【一】

 服が多少の汚れを見せて、肌は擦り傷だらけだが、谷底に落ちたにしてはアリカは軽傷だった。それを確認し、アリカは立ち上がりながら辺りを見回す。
「痛くない」
 どうやら岩壁に寄りかかるようにして倒れていたらしく、横に手を伸ばすと直ぐに粗い岩肌に触れた。頭を打つこともなかったようだ。いったいどんな落ち方をしたというのか。光は谷底まで届かず、まだ視界は利かない。眉間に皺を寄せると瞳を細め、周囲を凝視する。湿った空気を感じる。吐き気が込み上げてきそうで空を仰いだ。昏く淀んだ空が鬱々と覗いている。
「……ジュナン」
 夢の中で何度も呼んだ名前。目覚めた一番の目的。
 アリカは歩き出そうとした。せつな、足首に走った痛みに呼吸を忘れた。壁に手をついて衝撃が過ぎるのを待つ。痛みがあるていど治まるまでそうして、アリカは慎重にもう一歩踏み出した。痛みを覚悟した分、衝撃は薄い。だが感じる痛みは本物だ。歩くことは困難に思えた。
「馬鹿だ……私」
 アリカは壁に手をついたまま俯いた。目頭が熱くなって涙が零れる。暗い中でも涙が地面に吸い込まれていく様が見て取れた。
 ジュナンは本気でアリカを殺したいと思っていたわけではないだろう。衝動は本物に違いないが、心は別のところにあったはずだ。衝動を持てあまし、どうしたらいいのか分からなかっただけ。水に流せるほど大人ではなく、がむしゃらにだだをこねる子どもでもない。
 アリカは瞳を閉ざした。
 今まで生きることに意味なんて見出せなかったけれど。
 閉ざした瞼裏に銀光を放つ少女の姿が浮かび上がった。先ほどまで夢で邂逅していた少女だが、その邂逅がどのような内容だったかはもう思い出せない。それでも、崖から落ちた自分を助けてくれたのは彼女だと確信していた。
 アリカと同じ顔。同じ銀色の髪に、銀色の瞳。
 それでもアリカは初めて見る彼女が、自分の過去だとは思えなかった。
 アリカは爪先を鳴らし、再び走った激痛にうめく。そのまま壁を滑るように座り込んでため息をついた。倒れていた場所からほとんど進んでいない。
(飛び降りるべきじゃなかった。ジュナンと話をしなきゃいけなかったのに、安易な道に逃げたんだ)
 時を戻してと叫びたかった。けれどそんなことは叶うはずもない。後悔先に立たずとはよく言ったものである。ジュナンがさらに傷つくとは考えもしなかった。
「あぁもう!」
 アリカは苛々と叫んで再び空を仰いだ。
 こうなればザウェルが気付いてくれることを祈るしかない。落ちてからどれほどの時間が経ったのか分からない。もしかしたらすでに死者として片付けられているかもしれない。
「生きてるわよ」
 アリカは憮然としながら呟いた。
 空に変化は見られない。ため息をつきながら立ち上がる。息を吸い込んで大きく踏み出した。足首の痛みが脳天にまで響く。
「なによ、こんなもの!」
 耐えながらアリカは必死に歩き始めた。大粒の涙が頬を濡らしたが、歯を食いしばって前方の闇を睨みつけた。
 ジュナンに会わなければいけない。それまで絶対に死ねない。名前も知らない、あの少女のためにも。
 アリカは固く決意しながら歩き続けた。痛みのために呼吸は荒く、すでに意識はもうろうとしている。そのためだろうか。脳裏に声が響いたのは。
 ――力を使えば直ぐに望みは叶うだろうに。
 アリカは瞳を見開かせた。脳内をかき回されるような気持ちの悪さに顔をしかめ、勢い良くかぶりを振って周囲を見渡す。
 自分の幻聴であるのか誰もいない。
 しかし幻聴と断言するにはあまりにもリアルな男の声で、そのような声を知らないアリカは何とかして見極めようと警戒するのだ。
 再び、声が響く。
「……アリカ?」
 アリカの気を引くことに成功したと思ったのか、今度は確かに谷底内に響き渡った。渡る風と一緒に反響してどこから響いてくるのか分からない。足が痛いため、走って探し回ることもできない。漫然とした焦燥に唇を噛み締め、岩壁に背中をつけた。
 耳に残る低い声はアリカの心を揺さぶっていく。放たれる声がまるで絡みついてくるようだ。
 ――誰?
 アリカは身を竦ませて周囲を見回す。するとまるでその様子が見えているかのように嘲った哄笑が響いた。アリカが怯える様がおかしいらしい。
「誰?」
 アリカは不愉快になって声を張らせる。怯えを殺して岩から背中を離し、周囲を睨みつける。
「早くしなければ、お前の望むあの者の命はないぞ」
「ジュナンを知ってるの?」
 答えを望む問いかけに闇が大きく震える。そこから一つの影を吐き出した。闇の中から姿を現したのは一人の男性だ。全身に黒をまとって周囲の闇と同化している。
 アリカは瞳を瞠った。腕組みをして見下ろしてくるその存在は、興味深そうに観察している。その視線は居心地悪くて恐怖を覚え、アリカは一歩後退する。差し伸べられた手を反射的に払った。闇から現われた男――黒魔は瞳を瞠る。
「本筋の血は受け継がれているようだな。派生した血脈の生き残りは……もうもたないか」
 呟く声はアリカに理解不能なものだった。
 アリカは瞳を細めて睨みつける。それが彼にどんな印象をもたらすかも分からずに。
 黒魔はアリカの視線を受けて笑い、指し示した。アリカが向かおうとした方向とは逆だ。
「助けたければ向こうに行くがいい。早くしないと手遅れになるぞ。カルが俺の気配を嗅ぎ付けて半狂乱になっているからな」
 前半はジュナンのことを言っているのだと分かった。けれど後半部分は分からない。アリカは男の思惑が図れず眉を寄せる。
「貴方は――助けてくれるの?」
 黒魔の笑みが深くなる。彼は答えを告げぬまま輪郭を薄れさせて闇に戻った。彼の姿が完全に闇に消えるのを待ってから、アリカは示された方向を見る。
 この先に、本当にジュナンがいるのだろうか。
 アリカは歩き出そうとして気付いた。
 足の痛みが消えていた。
「どうして……?」
 黒魔が消えた闇を振り返ったが、そこにはただ暗澹とした闇が広がるばかりだった。


 :::::::::::::::


 進むにつれて周囲に満ちる霧が濃くなっていく。これは王宮から発せられている霧なのだろう。トゥルカーナが闇に侵されたとき、浄化するために王宮自ら発する霧。今回はデューラ=ジュイール=カルが放つ闇の力が凄まじく、浄化しきれずに妙な具合に変質して蔓延してしまったらしい。それでも王宮はそれを知らずに浄化作用を機械的に続けるのだから、事態は悪化していくばかりだ。早く闇を追い出さなければ事態解決は務まらない。
 アリカは走りながらいつまでも変わらない岩だらけの風景に不安を抱いた。
 本当に王宮へ向かっているのか、崖下からは窺えない。暗闇であるはずの谷底は、周囲の霧が濃くなるにつれて光が満ちていくように思える。あり得ないことに不安はいや増す。
 アリカはふと足を止めた。もう一度辺りを見回す。
 月明かりもない今、なぜ走ることができるのだろうか。意識して周囲を見回すと確かに闇であるのに、闇の向こう側には本来の姿が透けて見える。まるで光が満ちているときのように。
「……見えてる?」
 瞳を瞬かせて呟いた。あの銀の少女に出会ってから何かが変わっているような気がする。見えていたのに見えないフリをする、そんな必要はもうない。
(なにを思ってるんだろう、私)
 アリカはぼんやりと視線を巡らせた。幼少時代、母にかけられた暗示。まだ何か思い出していないことがあるとでもいうのか。
 母に連れられて舞い上がった星の上で。
 自分たちを阻む結界を目の前に、母が困っていて。
(なにを、思い出そうとしてるんだ、私は)
 頭痛に顔をしかめて額に手を当てた。もっと思い出さなければと、そんな気がして意識を凝らそうとした刹那、上から何かが降ってきた。直撃しかけたアリカは悲鳴を殺して後退する。思い出そうとした記憶など弾け飛んで霧散する。
 闇の中に浮かんだ赤い光に、アリカは息を呑んで睨みつけた。
「バール!」
 ここにはアリカ以外にいない。フラッシュもジュナンもザウェルも。助けてくれる者は誰も。
 アリカは知らず助けを求めてしまった彼らに苦笑を零して否定した。助けがなくても、もう自分は大丈夫だ。
 バールの瞳がアリカを捉えた。赤い瞳が愉悦に歪む。殺戮への期待に笑顔を浮かべる。
 アリカは腰を低く落として彼と対峙し、拳を強く握った。汗が滲む。
 そうして睨みつけていて、信じられない事態に直面した。
「ア、リカ」
 アリカは瞳を瞠った。
(なに……? なんて言ったの、いま? あり得ない。いままで何も……話すことができたなんて、知らない)
 アリカは驚愕して声も出せずにバールを見つめ続ける。
「アリカ」
 今度こそはっきりと、バールはアリカの名前を呼んだ。
 それを認識したとたんにアリカはなぜか怒りを覚えた。
 バールが地を蹴る。鋭い爪が眼前に迫り、アリカは右足を軸として体を反転させる。獲物を見失ったバールは空振りして横転しかける。その背中をアリカは蹴りつけた。バランスを失ったバールは地面に転がる。すかさずアリカはその脇腹を蹴り飛ばし、彼の体をまたいで走り出す。
 とにかくこの崖から出なければいけない。逃げ切れるとは思えなかったが、それでも死ぬかもしれないとは考えなかった。
 背後でバールが起き上がる気配がした。もう少し痛めつければ良かった、とは思ったがどうにもならない。唇を噛んで振り返り、足を止める。息が上がって胸が苦しい。
 立ち止まったアリカを見たバールが歓喜の声を上げた。瞬く間に近づいてきたバールは、引き裂こうと爪を振り上げ、アリカの頭を狙う。
 アリカは一瞬だけ息をつめてバールを見た。銀色の双眸で鋭く、貫くように。その視線にバールは動きを止めた。表情を改めた。
 ――魔法は想いの結晶体。
 昔、そんなことを呟いた女性の声を思い出す。
「消えて」
 アリカは荒い呼吸のまま告げた。
 思い出したのはトゥルカーナに来た当初のことだ。イザベルが現われる前に一度バールに襲われた自分は、知らずに魔法を使っていたのだろう。イリューシャの助けがあったとしても、アリカという媒体を通して力は発動した。その感覚を思い出すようにアリカは深呼吸する。
 目の前で様子を窺うバールに視線を据える。
「私の前から消えなさい」
 力を込めて、放つ。
 バールの顔が歪んだ。悲痛な表情となり、音もなくその輪郭が崩れていく。最後まで目を逸らさずに見つめ、アリカは何も残らないことを確認する。
 張り詰めた緊張が吐息となって零れた。そのままその場に座り込む。そして勢い良く首を振って立ち上がった。こんなところで負けるわけにはいかない。
 アリカはもう一度走り出した。
 脳裏に浮かぶのは女性の声。
『すべては貴方を裏切らないから』
 微笑む少女の影が見えた気がした。