第七章

【二】

 奇妙な違和感がアリカを包んでいた。
 闇の中でも走ることのできる瞳に気付き、体全体を包む何者かの気配を感じている。けれどそれを追究している暇などなく、アリカは必死で走る。
 濃い霧の中を走り抜けても寒くない。走っているからだろうか。それでも、初めて王宮に向かったときは結構な寒さがあったと思ったのだが。
 まるで大きな手の中で守られているようだと感じながらアリカは岩を飛び越えた。張り出した壁を潜り抜け、急激に窪む地面を跳ねる。障害物競走のようだ。
 そうして走っていると、遠くに何かが見えた。今までの道にはなかったものだ。
 アリカは瞳を凝らして歓喜に湧く。それは地上に続く螺旋階段だった。
「これで出れる!」
 急勾配な階段を駆け上がりながら、息を上げて胸を押さえた。休みなく走ったせいで心臓が破れそうなほど脈打っている。
 階段の中ほどで一度止まり、まだ続く階段を見上げる。遥かな上空に仄かな明かりが見えた。その淡い光の中に巨大な城の影が映る。
「王宮……?」
 アリカは双眸を瞠らせると壁に手をつき、今度はゆっくりと歩き出した。
 登るにつれて明らかになっていく建造物。ユピテルの森を逆送する形で戻っていたのだろうか。
 アリカは息を整えながらデューラ=ジュイール=カルの姿を思い浮かべた。
 彼はまだ城の中にいるだろうか。
 頂上へ登りきって首を傾げる。王宮はさらに高い場所にあるのに、階段は途切れていた。もっと上に登るにはどうしたら良いだろう。
 アリカは何かないかと辺りを眺め、その場所に見覚えがあるような気がして瞳を瞬かせた。
 ザウェルと初めて会った場所だった。
 少し窪んで見えにくくなっているが、脱出に使った洞窟もあった。エイラに転送して貰った場所だ。
 ――エイラはもういない。
 アリカは痛んだ胸を押さえて洞窟の奥を睨んだ。
(ここから城内に繋がってるはず。あいつが、いるかもしれないけど)
 トゥルカーナを救うために手段を選ばなかったエイラを思い出し、アリカは一度振り返った。脱出に使われる洞窟はトゥルカーナよりも少し高い位置にある。トゥルカーナ全土を見渡せるはずだった。けれど今は霧に包まれていて僅かしか見えない。恐らくユピテルの森だ。その向こう側は黒い闇に飲まれている。
「……あの闇が消えれば……」
 そうすれば、このトゥルカーナはもっと素晴らしい、綺麗な光を見せてくれるのだろう。
 アリカは眺めながら思った。
 引継ぎの間に続く扉がなくなった以上、トゥルカーナを救うにはデューラ=ジュイール=カルを追い出すしか方法がない。けれど――方法が、自分にはあるのだ。
 アリカは洞窟内に体を向け直した。
 橙に燃える明かりを頼りに歩き出した。


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 行けども行けども闇。けれどアリカの瞳にはやはり道が見える。まるで赤外線スコープでも取り付けたように。灯された火とは別に、アリカの瞳には形が光として捉えられていた。
 自分が自分ではないような、不思議な感覚だった。
 アリカは走りながら、自分がしっかり地面に足をついていないような感覚に陥った。足の怪我はとうに癒えている。ジュナンの場所を示した男のことを思い出す。彼に会ってからずっと、神経が尖っているような気がした。気持ちの悪い浮遊感が消えない。それは消えるどころか強まっている気さえする。
 城に続く闇の洞窟。その中で、周囲の闇が濃くなるにつれてその感覚は強まり続ける。アリカはふと、走りながら『それ』に気付いた。
 周囲を包む闇。そして、当然のようにある岩の壁。
 なぜここで思い出したのか。それは分からないが、脳裏に甦ったのは、攫われたときのこと。目覚めたらシュウランがいて、出口のない部屋に閉じ込められていた。あの部屋から出られた原理はいまだに不明だ。
 ――先ほどから誰かに見られているような感じがした。
 嫌な気配だ。
 唇を噛み締めて、アリカは銀色に輝く瞳で辺りを見回した。
 その瞳は闇を払う。岩陰を見通し、頭上の城の内部までも貫いて見える。
 力ある者たちが普段、息をするように自然に使う、透視能力。目ではなく魔力で視るという、基礎とも言えるそれをアリカは知らずに発揮した。
「ジュナン?」
 振り仰いだ先に映ったのは引継ぎの間に繋がる扉だった。侵略者によって無残に破壊されたその場所に、ジュナンの姿を見た気がした。だがその名を呟いた途端、闇は闇へと還り、彼女の姿は掻き消えて岩の天井が映る。
「なに?」
 心臓が高鳴る。体が熱い。先ほど垣間見えたジュナンの表情には何も浮かんでいなかった。そのことに危機感を募らせた。今すぐジュナンのところへ行けたらと思うのに。
 ――望むだけで、願うだけで、お前にはすべてが手に入る。
 何かがアリカに囁きかけた。
 耳を傾けてはいけないと気付いていても、ジュナンのところへ行けるのならと、心は揺れた。その声がかつて、父の背中を押して罪へ誘った声と同じだとは、思いもせずに誘われる。
 ――さぁ、手を伸ばせ。
 暗闇の中から伸ばされる人の腕。腕に繋がる胴体は闇の中に沈んで明瞭としない。顔も見えないが、その口許には笑みが刻まれているような気がした。
 絶対的な者として差し伸べられる腕。
 なぜかアリカの脳裏にフラッシュの姿が浮かんだ。それと同時に強い怒りが湧きあがり、目の前の闇を睨みつけた。
 なぜそんなことができたのかは分からない。
 望むだけで、願うだけで、すべてが手に入る。そんなのは嘘だ。
「出て行け」
 静かに放つ言葉。闇を睨み、その場にいる誰かの誘惑を断ち切る。
 望み願うだけですべてが叶うのなら、なぜ私はここにいるのか。なぜ私のそばに誰もいないのか。
「私にお前は必要ない!」
 心の中で、アリカを引き上げた小さな銀の少女が微笑んだ気がした。そしてそんなことを思った瞬間に、周囲の闇は霧散した。洞窟は洞窟ではなくなり、天井も道も整備された。アリカは白い廊下のただなかに立ち尽くしていた。
 乳白色の仄かな明かりに満たされた廊下へ生まれ変わった洞窟。
 アリカは、ほう、とため息を洩らして見回した。
「なぜ?」
 明かりが満ちる廊下。そしてその奥に別の光を放つ床を見つけた。
 薄い赤光を放つそちらへ向かうと、床に小さな魔法陣が描かれていた。コルヴィノ族が管理していた神殿で見た魔法陣と同じ模様だった。しかしその紋様は複雑で、本当に神殿で見た魔法陣と同一であるのかは分からない。アリカには皆が同じに見えた。
「転送装置って、言ってたっけ?」
 パルティアの言葉を思い出した。王族が触れても何の変化がなかった魔法陣。しかし目の前で見るこの魔法陣は光を放ち、使えるような気がした。
 つと足を伸ばしてみると、光は容易くアリカを受け入れた。
 赤光に包まれながらアリカは振り返る。他に道はないのだから仕方ない。
 意を決して完全に光の中に体を入れると、足元から光が零れた。赤光が湧き上がってアリカの全身が照らされる。視界がぼやけてアリカは瞳を閉じた。
 一瞬の無重力。
 それに襲われたと思い、崩れかけたバランスを必死で取り戻して瞳を開ける。目の前に広がっていたのは洞窟ではなかった。床を見れば魔法陣も消えている。そこはパルティアたちと訪れた王宮内の雰囲気と酷似していた。理由も何もなく、ただそれだけで王宮内に入ったのだと直感で悟る。そして。
「アリカ……?」
 耳慣れた声がアリカの耳を打った。