第七章

【三】

 辺りを確認する前に届いたその声にアリカは驚いて振り返った。視線の先にはジュナンの姿がある。男としてではなく、すでに女として存在する彼女がアリカを見つめていた。
 本当にいた、とアリカは瞳を大きくする。信じていなかったわけではないが、不思議な声に全幅の信頼を預けていたわけでもない。そして、こうも突然現われるとは思っていなかった。
 会えたら何と言うか考えていなかったことに気付いた。
 ジュナンを見つめたまま沈黙する。彼女もただアリカを見返すだけだ。
 やがて先に口を開いたのはジュナンだった。
「どうしてここにいるんだ」
 不思議そうに呟いたジュナンの顔が、不意に歪んだ。憎しみと哀しみが混じった表情となり、彼女の視線はアリカから外された。
「ジュナン」
「来るな」
 否定の言葉が突き刺さる。アリカは一歩踏み出した格好のままで固まってしまう。
 それは何度も受けてきた言葉だ。そのたびに傷つき、そして再び傷つくことを恐れて何もできなくなってしまう言葉。日本では小さくなっていただけ。
 アリカは学校の屋上から突き落とされたときのことを思い出した。
 花砂《かずな》と朱蘭《しゅらん》。
 アリカを見下して嘲った二人。彼女たちはしっかりとアリカを見つめていた。けれど目の前にいるジュナンはアリカを見ようともしない。
 アリカは伸ばした手を一度下ろしてジュナンを見つめた。
「嫌だ」
 きっぱりと力を込めて言い切った。
「私はジュナンが好きだから」
 顔を背けていたジュナンの瞳が見開かれた。
 アリカは震える手を胸元に寄せて、強く握り締めながらジュナンに近づいた。
「無理だ」
 ジュナンの言葉にアリカの心が重く沈む。
「それは罪悪感から? まだ私を殺そうと思うから?」
「違う。もう、殺したくはない……けど、お前を見てると腹が立つ! きっと今まで通りになんてできない!」
 叫んで走り出そうとしたジュナンの腕を、アリカはつかんだ。ここで逃げられたらせっかく会えた意味がない。ジュナンとはまだ話がしたい。
「どうして逃げるのっ? 私がこんな姿だからっ?」
「それはもう関係ないだろ?」
「なら逃げないでよ! 私はジュナンが好きだよ!」
 ジュナンの顔が大きく歪んでアリカの腕を乱暴に振り払った。
「だから俺はアリカが嫌いなんだ!」
 突き飛ばされたアリカは床に尻餅をついてジュナンを見上げた。ジュナンは肩を怒らせてアリカを見下ろす。泣きそうに、歪んだ顔で。
 否定の言葉を胸で復唱しつつアリカは立ち上がった。涙が溜まった目尻を乱暴に腕で拭ってジュナンを見つめる。嫌われることには慣れている。これくらいでめげたりしない。
「帰ろう」
 貴方には帰る場所があるのだから。
 ジュナンは固く瞳を閉じた。その瞳を開くとアリカを見つめる。憎まれていると思えるような、鋭い瞳だ。アリカは笑みも見せずにその瞳を見返した。ただ彼女の感情を反映させるかのように。
「フラッシュはこの星の人間じゃない」
「……うん」
「だから、この星に縛られている理由がない」
 アリカは首を傾げた。
「誰と一緒に出て行っても文句は言えない」
 何を言っているのか、ようやく悟ってアリカは微笑んだ。そのまま頷く。
「それはフラッシュが決めることだよ」
 ジュナンの言葉を嬉しく思いながらも、その反面で哀しくなる。
(私がフラッシュに受け入れられることは絶対にない)
 ジュナンが微笑む。一瞬だけの掠めるような微笑みをアリカは瞳に焼き付けた。すべてが許されたかのような気がした。
「おいっ?」
 ジュナンが慌てたように手を伸ばす。
「……これで何度目だ?」
「三度目かな」
 笑みを滲ませてアリカは呟き、涙を拭った。そっとため息を吐き出して見回す。
「ここって城の中よね?」
 つられてジュナンも見回し、頷いた。
「女王が住んでいた内奥だ。俺も入ったことがなかった」
 この場所にはもう、誰の姿もないようだった。けれどアリカは顔をしかめる。自分について回る誰かの気配を感じる。脱出用の洞窟で闇を払ったときに気配は弱まったが、見張られている感覚は拭えない。
「どうすればここから出られるの?」
 訊ねるとジュナンはためらい、振り切るようにして踵を返した。その後ろをアリカは追いかける。
 装飾が施された大きな柱を何本もやり過ごしていくと、中央の床に描かれた大きな円が見えてきた。彩度を落とした多色で飾られた円の中には、模様とはまた別に複雑な紋様が組み込まれている。
「そこでなにをしている」
 ジュナンでもアリカでもない。低い声が響いて空間を闇が覆った。
 頭の中に直接響くかのようなその声に二人は硬直した。
 先ほどまで光が満ちていた空間は照明を落とされたように暗くなる。魔法陣の中に男が現われた。冷たい眼光が二人を射抜く。
「勝手をされては困るな」
 トゥルカーナを蝕む侵略者だ。
 ジュナンがアリカを庇うように前へ出て睨むが、男がそれで動揺するはずもない。鼻を鳴らせて侮蔑されるだけだ。
 ジュナンが恐怖を感じているのに対し、アリカは恐怖とはまた別の思いを感じていた。以前まみえた男とは少し印象が違うような気がするのだ。ただ威圧感だけしか感じなかった男からは、今は焦燥とした想いが感じ取れる。それが黒魔と対峙したためだとまではアリカには分からないけれど、不思議な気持ちで男を見つめた。
 デューラ=ジュイール=カルが伸ばした手の中に闇が凝った。
 アリカはそれを見た瞬間、脳裏に響いた警鐘に促されるまま、庇う形で立っていたジュナンを横に突き飛ばした。カルはその闇をアリカに向けて放つ。
 突き飛ばされて床に転がったジュナンは双眸を大きく見開いて叫んだ。けれどアリカは避ける間もなくてただそれを睨みつける。脳裏に誰かの歌を思い出す。イリューシャだ、と思う間もなく、彼女が歌っていた旋律を口に乗せた。一言一音間違えることない呪文は正確にアリカの力を引き出した。顔を庇うように腕を上げたアリカの前で、闇は結界に阻まれ消失した。
 カルが不愉快そうに顔を歪めて一歩踏み出す。
「馬鹿、逃げろ!」
 カルに合わせて構えたアリカは、ジュナンにつかまれてバランスを崩した。カルは直ぐに別の攻撃を仕掛けてくる。だがジュナンは器用にそれらを避けて魔法陣へと踏み入った。
 アリカには理解できない言語が叫ばれると、二人はあっと言う間に魔法陣から消える。カルが放った衝撃波は無人の空間を虚しく通り過ぎた。
 カルは舌打ちして瞳を閉じた。アリカとジュナンが現われる場所を探ろうとした。魔法陣から力の流れを読み取り、今この瞬間にも作動している魔法陣を即座に読み取って見当をつける。黒魔に見つかったカルにはもはや余裕がなかった。
 城内にアリカの気配を辿って見つけ、直ぐにもそちらに転移する。
 一方、一瞬だけでもカルの前から姿を消すことができた二人は王宮の正面玄関へと出現していた。突然の視界変化にバランスを崩すアリカを支え、ジュナンは外へ続く扉を押し開いた。
「さっきのはなにっ?」
「あれは転送装置! 王宮内なら誰でも好きな場所に移動できるショートカットだ! ていうかお前こそさっき、奴の力を弾いたのは何なんだよ!」
「知らない! 死にたくないと思ったらできただけ!」
 気が急いて二人とも怒鳴りあう。手を引かれて城外に出ようとしたアリカは悪寒に襲われて振り返った。そこには予想通りカルの姿がある。彼は魔法陣という媒介を通さなくても空間転移が可能なのか。もう追いつかれたのだ。このままでは二人とも消されてしまう。
 アリカは焦燥してジュナンの腕を振り払った。驚いたジュナンが振り返り、視線の先にカルを見つけて瞠目する。舌打ちしてアリカの前に回りこもうとした。
 アリカは彼女の腕を取って、イオの森でルチルから与えられていた腕輪を素早く嵌めた。戸惑うジュナンを城外に突き飛ばした。ジュナンから金の指輪が消えたことに気付いていたから、願いを込めて腕輪を渡す。
「ちゃんとフラッシュたちの所に帰ってね」
 突き飛ばされたジュナンは転がった。素早く体勢を立て直す間にアリカは告げ、扉を閉めた。直ぐに扉が叩かれたが、取っ手をひねって鍵をかける。そうすれば外から扉が開くことはない。
 そしてアリカはその場から跳び下がり、自身を狙って放たれた闇の球を避ける。
 一度パルティアたちと来ていたから、この場所からなら道が分かる。
 アリカはカルを窺いながら階段に走り出した。目指すのは王座の間。エイラがカルによって、消された場所へと。